思考を二級品に貶める局所最適解の害悪
ある問題があったとき、個別の問題そのものは絶対的に唯一で、複製不可能で再現不可能な、正しく語ることの出来ない不確実な存在だ。
それにもかかわらず、どうも世の中は耳障りの良い二級品の「局所最適解」で満足されている概念で溢れかえっているように思える。
最も愚かな思考停止はそもそも考えようとしないことだが、最も危険な思考停止は少し考えた後に見えてくる局所最適解に辿り着いて満足し、それ以上思考を深めることがない、というものだ。
その解を見つけたときは局所最適解であるという意識はないことがほとんどで、これで良いと納得してしまう。そこで解決したつもりになっていて、より厄介な状況にぶち当たった後で「全然分かってなかった。あのときもっと考えとくべきだった」と反省することが多々あるのだが、よく見てみると、陥りやすい局所最適解には幾つかのパターンがあることに気が付いた。
そのパターンと、なぜその局所最適解が悪影響をもたらすのかという点、そしてどうすればそれらの悪影響を回避できると(僕が)考えているか、を書く。
こんてんつ
- 「ケースバイケース」という判断基準の害悪
- 「バランスが大事」というスタンスの害悪
- 「誰でも同じ」という一般化の害悪
- 「自分に合った○○」という丸投げの害悪
- 「現状はダメだ」という理想主義の害悪
「ケースバイケース」という判断基準の害悪
これは非常に便利な言葉で、汎用的に使える。そして一般的に正しいように見える言葉でもある。
「ケースバイケース」の何が悪いのか?確かに、マニュアル通りの対応しかできない人よりも、臨機応変に行動を変えられる人の方がトータルのパフォーマンスが高いことも事実だ。
しかし、行動ベースではなく、判断/行動基準が問題となっている時にこの言葉を使うことは、危険である。なぜなら、「ケースバイケース」という基準を示すことによって、達観した視点を持っているように"見せかける"ことが出来るからだ。
「ケースバイケースで判断する」と言うだけでは、臨機応変な判断基準を示しているようでいて、実際は何も決定しないことに同義である。
そこには条件分岐の事例が欠落している。
つまり、不完全な「ケースバイケース」の使い方においては、「入力がN個あって、出力は1個じゃなくてM個あるんだよ」と言っているに過ぎない。リアルな条件分岐の判断基準がブラックボックス化されていて、外側から窺い知ることは出来ない。
一方、あるべき「ケースバイケース」は、条件分岐すなわち「入力の条件がこうなっているときはこの出力」と言う決まり事を可能な限り明確にしようとする。
条件分岐がブラックボックス化されているか否かを見抜くようにすれば、"見せかけ"であるか否の判別はさほど困難でない。
回避するには
この汎用的でありふれてそれでも価値を減じることのない僕らのフレーズを効果的に使うためには、「それはケースバイケースだね」と言った後に、いくつかの具体例を示すことだと思う。
もしこう来たらどうする?別の可能性が持ち上がったらどう対応する?他の危険性は?別の対応策は?...こうして具体的な考えを突き詰めていれば、「それは場合によるね」で終わりようがない。
ここで終わってしまうということは、何のことはない、残念ながらそもそもイメージトレーニングが甘かった、というだけの話だ。
「バランスが大事」というスタンスの害悪
これも本当によく見かける不完全な局所最適解で、僕自身、よくここで止まってしまう。自分で使った後に「あーあ、下らんこと言ったな」と自己嫌悪に陥る。
「バランスが大事」または「ほどほどが一番」という、極端の反対、マイルドなそこそこを好むスタンス。これもまた、ただの言葉では現実世界において全く意味を持たない。
ひとつ確認しておきたいのは、そもそも世の中にバランスが大事ではないものごとなど存在しない、という点。
なんであれ極端が解となることはあり得ない。必ず、0か1ではなく微妙な最適バランスがあって、そこを探す過程こそがいわば本命、一番難しい作業である。
「バランスが大事」というスタンスは(少なくとも僕の考えでは)明らかな事実を言っているだけで、新しい情報量はゼロだ。その上にどのような過程でバランスを模索して、何をゴールとして、いかにしてあるべきバランスに到達するか、すなわち、過程部分に議論と思考と行動を集中すべきなのだ。
回避するには
これまた「ケースバイケース」の事例と同じく、バランスが大事、という姿勢を示した後にいくつかの具体例を続ける事だと思う。
僕の狭い観測範囲によると、バランスを取ることを許されない固定化した状況に長く居た人や、アンバランスを「良し」とする文化に浸ってきた人が、思考の自由に触れた後に「バランスが大事」という答えに辿り着いて満足してしまうことが多いように思う。
"バランス"の関わる話はいろんな人の価値観がモロに出たりするので、僕と同じ問題に直面した他人がどこにプライオリティを置いて何を目指してバランスを取ろうとしたのか、という貴重な情報を得ることが出来る。要は、抽象論で止まらなければそれなりに収穫はあるわけだ。
局所最適解を経由して個々人の真実に近づけるので、僕はわりと好きだったりする。
(欲を言えば、ここで自分のバランスの取り方を相手にうまく伝えられるスキルが欲しい...)
「誰でも同じ」という一般化の害悪
天が下に新しきものなし。
事実として、たいがいの事は先に誰かが経験しているものだし、前例を知ることで先人と同じ轍を踏まずに済んだり、より広い視野で物事を捉えるきっかけを与えることが出来る。一般化/抽象化によるメリットである。
しかし、「君の直面している事象はまったく特別ではなく、誰でも経験するよくある事である」という事実を突きつけることで、「だからどうした?いまは自分の話をしてるんだ」と、苛立ちを募らせてしまう。いや、別に気分を悪くする程度ならまだいいのだけど、先へ進むモチベーション自体を失わせる危険がある。
現時点の自分の視点が絶対であるかのように語ることほど馬鹿らしいことはないし、ましてや自分の認識を基準とし、「上の世界」に未だ気付かずにいる他者を見下すことは唾棄すべき愚行だ。
半端な優秀さを蝕むM2病の症状と、それにかこつけて吐き出される悶々とした何か - ミームの死骸を待ちながら
他人との視野の差異を許容できなきゃ一人で生きてろ。
比較的人生経験の豊富な人が、比較的人生経験の浅い人に対して語る言葉の中に「それは誰でも同じ」というニュアンスを込めることがある。
どんな文脈でも適切な具体例が出せる語り手は個人的に尊敬するのだが、あまりポンポン例を出しすぎるのも考え物で「それはわかるけど、今は自分の話をしたいんだけどな...」という"親父に説教される中学生モード"に入られてしまうと元も子もない。
悪意を持って言ってるわけじゃないなら、受け入れやすい雰囲気を作った上で伝える、というのもこみゅにけーしょんスキルの一つ、かもしれない。僕は偉そうなこと言えないけどな。
回避するには
僕自身、部活をバリバリやってきたり、バイト漬けの学生生活を送ったような同世代と比べて*1、下世代とうまく付き合う術を十分学んでいるとは言えないから、たまーに後輩や年下が問題に直面している場面を目撃したり、アドバイスを求められたりすると、この不適切な一般化をやってしまう。
失敗しがちな人間として反省を込めつつ、一般化をされた側の経験もある立場として考えてみると、まず、相手はその時初めての経験をしているわけだからその感情を尊重することが必要かと思う。
...と、ここまで書いた時点でもっと適切な一節を思い出したので引用しておく。
たいていの場合、人は外からの助言など必要ない。相手は本当に心の中を打ち明けることができさえすれば、自分の問題を自分なりに整理し、その過程で解決策も明確になってくる。
また一方で、他の人の助言や協力が必要な場合もある。鍵になるのは、相手の利益を考え、感情移入の傾聴をし、相手の立場で問題を理解し、その解決策を一緒に探すことである。玉ねぎの皮を一枚一枚剥くように、徐々に、柔らかい内なる核に近づいていくのである。7つの習慣, p.375
毒は、場合によっては薬として使える。「特別な経験を薄める」効果を逆に利用し、身の上に降りかかったイベントを重苦しく考えすぎているときに「そんなの誰でもあることだよ」と一声かけるだけで、だいぶ気持ちが楽になる。それで何度救われたことか。
「自分に合った○○」という丸投げの害悪
これまた一見正しい。
自分に合った投資プランを考えましょうとか、自分に合った仕事に就きなさいとか、自分に合った人と付き合うべきだとか...世に溢れている正論だ。まぁ確かにざっくり言って、オーダーメイドの方がパッケージより質が良いし、しっくり馴染むに決まってる。
確立された手法やコピー可能な事例といった"パッケージ品"が有用な場面は後述するとして、オーダーメイドが害悪となり得る危険性について少し語りたい。
まとめてざっくり言ってしまえば、世の中には「パッケージ化/ROM化へ向かう圧力」と「オリジナル/オーダーメイド礼賛文化」が同時に存在しているのである。そしてそれらはあるひとつの人間心理のもと、心の中に植え付けられている。
僕は、世の中にはオーダーメイド礼賛の文化が存在すると思っている。自分オリジナルのもの、特別なもの、フォーカスを絞ったものこそが素晴らしい、本当に価値がある、とする文化だ。ちょっと意識して周りを見てみると良い。良いこと言ってそうに見えても、オーダーメイドを褒めちぎって結論としている場合が案外あるから。
そのありきたりな結論に辿り着いた(あるいは文章や言葉を介して結論を与えられた)後に「ああなるほど、自分に合っていないと駄目なんだなぁ」などとわかった気になって、そこで満足してしまう。これでは実は何も得るものがない。
この悲劇が何に基づくものかと言えば、
自分に合った○○をゼロから組み立てる(時間/思考)コストを完全に無視している点
、である。
何であれ"ゼロから作る"という作業には、ものすごく手間がかかるものなのだ。
なんでもいいんだけど、僕の苦手なファッションを例として挙げてみてもだな。オシャレな人ってのは「自分に似合う服を着ればいいじゃん」などと軽く言う*2。いやそれがわかんねぇんだよ!!!(逆ギレ
いまざっと分解するだけでも、"自分に合う"ものを具体化するためには
- 前提や文脈を知らなければならない。
- 「合う」の定義を知らなければならない
- 自分が何を好むのか自覚していなければならない
これだけある。それなりの回答を見つけ出すのは簡単なことではない。
パッケージ品に溢れた世界で自分オリジナルの世界を構築することの難しさ/大変さは、想像を絶するものだと思う。オリジナルに辿り着くコストを無視して「自分に合った○○を見つけましょう」などと投げ捨てて結論としてしまう態度は、不誠実/不親切と言わざるを得ない。
逆に言うと、だからこそ僕は何であれ独自の世界感を持ってる人を尊敬するのだけど。
回避するには
とは言うものの、僕の考えでは「自分に合った」という切り口は実はかなり良い線まで行っていて、その後の具体的な思考を詰める手間を惜しまず、足と手を動かして経験を重ねる労を厭わなければ、本当の意味で「自分に合ったもの」すなわち個人的真実に突き当たる事がある。
その一方で、それほどまでコストをかけられない/価値を見出していない問題や、思考を深めるだけの材料を未だ持っていない問題に直面している時は、"パッケージ品"を利用すると良い。
前者は以下のフレーズが主張しようとすることとほとんど同じだ。
不要なフィールドでまで戦わなくて良い。相手の挑発をことごとく買ってやる必要はない。全ての問題に立ち向かわなくて良い。捨てるべきものは捨ててやれ。肩の荷を下ろして、自分の持っているもの、本当に取り組むべき問題に目を向けてやれば、それでいい。当事者でないことは必ずしも罪ではない。あなたも私もROM上等、世界はROMでできている。
世界はROMで出来ている。 - ミームの死骸を待ちながら
そして後者「思考を深めるだけの材料を未だ持っていない」状態とは、今までの積み重ねが使えない"初めて"のことを指している。"初"体験に対し、過去の経験から「自分なりの解答」を見つけ出すことは残念ながら土台無理な話だ。
仮説として使う分には悪くないが、試行錯誤なしに解答にたどり着けると思わない方が良い。というのも、社会人になって仕事をやってると、まったく"初めて"のことばかりで、経験の中から何か使えるものを探すよりも、外部にある「既存の解答/先人の知恵」を求めた方が圧倒的に早いのだ。
僕は自由意志や決定や裁量を重視する価値観の下に生きている...つもりであるが、"初めて"の環境下において、自分の価値観・判断を過度に信頼することは、それはそれで問題を引き起こすのだろう。そこで、パッケージが重宝されるわけだ。
「現状はダメだ」という理想主義の害悪
「理想の○○」は「自分に合った○○」よりも現実味のないものだ。というよりも、「理想の○○」は現実には存在し得ない。
法則も人間も組織も社会もシステムも、完璧な状態を理想として語ることは出来ても、実際はどこかに綻び/矛盾/誤りを内包している。不完全な世界。
そうした前提の下に「何かの批判点をあげつらう」ことは、お手軽かつそれなりに気持ちよくなれる特効薬だ。仲間と一体感を得るための効果的な方法にすらなり得る。
しかし生産的とは言えない。
まぁ生産的な否かであらゆる行動をばっさり切ってしまうつもりはサラサラないが、なんでも悪い点をあげつらうことは簡単で、良い点を見つける方がよっぽど難しいものなのだ。他人をせせら笑うのは誰でも出来る。問題は他人を見て自分がどうするか、という所に集約されるべきである。
「簡単な行動/思考に流れる」という性質は、局所最適解に吸い込まれて動こうとしない人間の性の本質を成すものであり、その意味でこれは最も局所最適解らしい局所最適解である、とも言える。
回避するには
理想の人間に見えても必ず欠点がある。理想の環境だと思っても必ずズレが生じる。まずはその覚悟を持っておくことだ。これが大前提。とりあえず変動幅...予測値からどれだけ下がる可能性があるかな、という幅を見込んでおきさえすれば、ショックは少ない。
理想というのは考えているとテンション上がるし楽しくなってくるものなので、ついつい現実もそのままの勢いで具体化するんじゃねーの!?という期待を持ってしまう。そしてそこに辿り着かないと、ガックリ来てしまう*3。
しかしここまで徹底的に完膚無きまでに計画通りにならないと、逆に面白くなってくる。もういい、計画なんて捨てろ。どうせ思った通りにならない。そんでもって、思い通りにならない方が、後から見て面白い。
「計画は無駄」ただひとつ大学新入生の自分に叩き込みたいこと - ミームの死骸を待ちながら
現状が理想や想像と違う場合にはリセットしてしまえ、とする思考がある。現状が駄目だからリセットして最初から別の道を選んでみよう、とする行動方針だ。選択をやり直す。人間関係を切り捨てる。僕はこの思考をスーファミのリセットボタンから学んだ(学ぶな)。
しかし最近は、リセット思考はあまりよろしくないな、と思う。実際は現実に直面してみないとわからないものだし、"詰み"に思えても案外道は先に続いていたりして、どうもリアルな生活というものはTVゲームと違って、ゲームオーバーになった後に別のゲームが開始されるようである。どうしようもない現実に直面したとき、どう反応するか。それが、リアルな価値を決定するに違いないのだろう。
いじょ。
人は安易な局所最適解に捕らわれやすい。そういう風にできている。
ここまで挙げた局所最適解は、基本的に正しいからこそ厄介だ。
考え方として間違ってはいない。間違ってはいないものの、"結論"と見なしてしまうと"不足している"...そんな微妙な概念たちである。一般論・極論・虚言を弄した戯言。すべて不確実を不確実のまま許容できない人間の創り出した局所最適解だ。
別に僕も、いつでもどこでも考え尽くさないと気が済まない人間というわけでもない。だからてきとーに話すときはてきとーに話す。これらの局所最適解は中途半端に正しく、それ故に、てきとーに話を合わせたいときは便利だ。
また、局所最適解の存在をフィルターとして使うことも出来る。僕は文章*4を読むとき、リズムが心地よいと内容にかかわらず引き込まれてしまうんだけど、それは別として、まず結論が当たり障りのないものに収まっていないかを気にする。
結論部分に前述の"局所最適解"と見られる記述がある場合、どうせ無難な内容しか書かれていまい。知っておくべき情報がなければ、ざっと目を通して終わり、にすることが多い。
ただ、中途半端な達観や悟りは、未熟さの裏返しの強みとして存在する"不確実性"を薄めてしまう。
結局の所、僕は「人間は誰であろうとも自前の意識/認識/記憶の枠から出ることは不可能」という(僕にとっての)真実を、言葉を変えながら繰り返しているようであるが、かといってそれに絶望しているわけでもない。
人間はものごとの正しさを追い求めている風を装って、その実、自己の正当化、優越感、存在証明、他者からの受容や評価を切実に探し求めているケースがかなりの割合で存在する。この事実を他人から隠し、自分でも気付いてないふりをすると、悲劇が起こる。
個別具体的な問題に対しては、個別具体的な解答によってのみ、出口を見出すことが可能である。
局所最適解に留まらず個別具体的な解答を追い求めることを意識していると、「答えは人の数だけある」という言葉の深さ/存在感が、今までとは違った意味を持って浮き上がって来るような気がする。
CDや書籍の発売日にメールで通知してくれる「お知らせメール」が地味に便利
ところで5月12日はスガシカオの新アルバムの発売日でした。FANKASTiC.
FUNKASTiC(初回生産限定盤)(DVD付) | |
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この発売日すっかり忘れてたんだけど、会社にいるときにメールが届いて、いけねーと思ってiPhoneから初回限定版を逃すことなく購入できました。↓こーゆーサービスを使った。
某所で知り合った友人がやってるサービスで、まだ構想段階の時に話を聞いて「あーそれ便利やわ」と思ったんだけど、リリースされて実際使ってみると確かに便利だったのでブログで紹介しようという話。うむ。
アーティスト:スガシカオ
タイトル:FUNKASTiC
発売日:2010年05月12日
http://amazon.co.jp/dp/B0039QLECU/bergmenn-22アーティスト:スガシカオ
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こんな感じのメールが来る。僕はGmailで受けたけど、本文はこれだけなのでケータイで受信しても鬱陶しくない*1。
Amazonの情報を取ってきてるみたいなので、ここに網を張っておけば間違いない感じ。Amazonに吸収されたりするExitもアリかしらん。
送信元がalert@...だったり、メール本文に隠すつもりもなくアフィリエイトIDが記載されていたりと、かなーり荒削り感があるけど、普通に便利だ。気に入った。
(いまのところ)宣伝メールみたいなものもナイし、ぱっと思いつくワードを登録しておいても損はない、と思う。
余談。リアルの僕と最近会っている人は知っているかも知れないがここんとこ旅行代金カード請求と連日の飲みの波状攻撃を受けて初任給も尽き絶望的に金欠でして、お前のどこにCD買う余裕があるんだというツッコミを見越して説明しておくと、ブログのアフィで稼いだAmazonギフト券がその答え。記事最近書いてないのに、向こう半年は本代に困らない程度には収入がある*2。余談終わり。
まぁ個人的に一番の問題は、アルバム買ったは良いけど引越時にコンポを処分してMacbookをDBCLSに返却した僕の手元にCDを再生できる機器がないという一点だろうか。
...iMac欲しい。
Twitterの先にある「いまここにいること」の価値
誰の話だったか忘れたが、靴磨きがどの株を買えばいいかという話題を持ち出したのを見て、バブル崩壊を予期して市場から手を引いた、という逸話がある。
Twitterの話だ。かなり大衆化が進んだと思う。もうそろそろいいかな、という感じがする。radikoを試しに聞いてみたらいきなりTwitterの話題だし、ドラマにも取り上げられ、「ジャンプ」にも登場するようになり、ろくに使ったこともない人が利用方法を議論している。Twitterビジネス?頑張って下さい。
それでも僕がTLを去れないのはそこで形成された他人とのネットワークに価値を見いだしているからであり、そこには好きな人たちがたくさんいるからなんだけど、残念ながらTwitterそのものは僕にとって既に魅力的なツールではなくなってしまった。みんなやってることをやって何が面白いんだ(本音)。
後付けを百も承知で言ってしまえば、Twitterは新しい概念でも何でもなく、ある意味で「コンテンツの可視化」が極限に達したものではないかと思う。
可視化の極限。
コンテンツとは要するに、人の頭の中から出て来たなにものか、である。
かつて、コンテンツを具現化するためには大きなハードルがいくつも存在していた。自らの脳内に存在するコンテンツ(=ミーム)を広く世に問うためには発言力がなければならず、電波に乗らなければならず、その地位を獲得できる層はまさに選ばれた人間で構成されていた。
そして今更ながら、陳腐ではあるが、先の議論のために僕はここでそれらのハードルを壊した物のひとつとしてインターネットを取り上げる。ネット上に書いた日記やCGI掲示板に始まるテキストベースの思考の流出、それに次ぐ(主として技術の発達に伴う)リッチなコンテンツの増加、まぁこのへんは大してものを知らない僕が書く迄もないだろうから省略する。
そして脳の中のミームが流出してコンテンツとなる方向性の中、ひとつの概念を突き詰めたものが、Twitterなど*1の志向した、「極端に短い思考の断片の集合体」をそれらしく見せる・まとめる・アレンジするフィールドではないかと考える。
140字という濃縮されたコンテンツ*2をこれ以上断片化することは不可能の領域に近いし、まぁ実際の所、可能ではあるが意味はない(もう名前も忘れた*3が、140字ではなく"14字"制限のサービスが一時期出たが、その本質は何らTwitterと違えるところがなかった)。
コンテンツがこれ以上断片化できないならばどうするか。個人的にはさらに"正当"な方向性を突き詰めて、コンテンツが構成される脳内の過程・言語化される前の要素、といった部分を狙うと面白いと思う。言葉に表せない人間の直感とか、ふとした瞬間の感情とか、測定観測不可能な、それでいて確かに存在するなにか。そういったレベルまでフォーカスを絞って行くと、すげー面白い世界になると思う。...のだけど、こいつは少なくとも今の時点ではSF以外の何者でもない。
そうして夢想を諦めた僕が最近なんとなーく「これ面白いなぁ」と思っているいろいろなもの、それらをひとくくりに表現する言葉が見つかった。
「いまここにいること」、というフレーズがそれだ。
いまあなたがそこにいること、いま僕がここにいること。未だ決して崩れることのない大前提、どんなに見える世界が広がろうと、ひとりひとりはせいぜい2mそこそこの人間サイズの存在であり、各自の認識の枠はどう足掻いても人一人のアタマから出ることはないという限界。
逆説的ではあるが、人間の存在をどこまでも希薄にすることの可能な潮流の中、そういったものの持つ「価値」が浮き彫りになる。
ちょっと脇道に逸れると、「いまここにいること」の反対は「ここにいないこと」「ここではないどこか」という概念で、その最たる物はネットゲームであると思う。ラグナロクオンラインとかFF11とかのアレだ。ネットゲームでは、いま自分自身がどこに居ようと、全く同じ世界へとアクセスできる。現実の世界からほぼ完全に切り離された世界にログインする。仮想世界の中における自身の価値を高めるために存在しており、いま現実のユーザーがどこにいるか、という情報が全く考慮されない。
本題に戻る。「いまここにいること」というフレーズは、人間一人にフォーカスを当てるものである。
回線が強化されデバイスが発達し、視覚聴覚嗅覚触覚もろもろの神経と電気回路との距離が徐々に縮まり*4「どこにいても同じ」という志向が強くなればなるほど、「いまそこにいること」に価値が生まれるようになる。
なぜならば「どこにいても同じ」であればあるほど、どうしても、絶対的に、物理的に理論的に「そこにいなければできないこと」が特別なものとなって行き、世界のフラット化が進めば進むほど「いまここにいること」に対する価値が高まると考えるからだ(このへんはもっと議論したいところ)。
「いまここにいること」というフレーズを抽出するに至った、僕が「おもろいなぁ」と感じたいくつかのサービスは、「まちつく」などの位置ゲーであり、「Foursquare」であり「BrightKite」である。(まだあったような気がする。思い出したらまた追加するかも知れない)これらのサービスはその人個人にフォーカスを当てており、今どこにいるか、その人がどんな人間であるか、そういったファジーな情報をなんとかフォーマットに乗せようとしている面白い試みであるように、僕には見えたからだ。
どんなに戯言を吐こうが、どんなに虚勢を張ろうが、どんなに理論で武装しようが、結局人間はどうしようもなく認識の枠に閉じ込められている。
だったらそれを逆に価値にする。これは新しい概念でも何でもない。購入履歴を分析して個人ユーザーに特化したオススメ商品をレコメンド、なんて昔からある。新しくもないものを新しい新しいと騒ぎ立てるのは、その方面に無知な人を乗せるためには有効ではあるが*5、お世辞にも本質的であるとは言えない。
もう一度言うが新しい考え方でも何でもない。けれど、無限の可能性があるように見える*6世の中を生きるに当たって、僕にとっては腑に落ちた切り口だったので、こうしてどうにか言語化を試みた次第だ。なにぶん時間がない中、ダーッと勢いで書いてしまったので、記事の反応などを見てまた考えを深める機会を持てたらいいなと思う。
さていつものように戯言をまとめる。
妄想をふくらませて広く見てみると、Twitterの大流行は、「コンテンツのミクロ化」を極限まで推し進めたことによる時代の徒花のように見える。その命がつきる瞬間にひときわ大きく輝く、最後の灯火のように思える。バブルが崩壊する直前のお祭り騒ぎに感じる。
このTwitterの波に乗るのも達観するのもガン無視するのもその人の自由で、僕はまぁ、結構初期から使ってるんだけどなー、と、小学生の時から目を付けていた女の子が成人して美人になってそらみたことかと、周りにちやほやされている様子がなんとなく気にくわないようなそんな感覚もあるけれど、まぁ、この流れを"おもしろい"と感じている。最初に言ったようにTwitterそのものに魅力は感じなくなってしまったが。
この先に何があるのか分からないし、ひょっとすると何もないのかも知れないが、僕はTwitterの先を知りたいと思う。おもしろいことを知りたいと思える僕は、まだ生きていると実感できる。
「計画は無駄」ただひとつ大学新入生の自分に叩き込みたいこと
ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がする。前回のブログ更新を見ると2月末とのことで、まるまる1ヶ月以上放置していたことになる。期間として考えると決して長いとは言えないが、その間に起こったイベントの濃厚さを考えると、もっと昔のような気がしてくる。
ジャマイカに行ってきた。イタリアにも行ってきた。人と生活を共有した。跡を濁して大学院を卒業し*1、引越して環境が変わり、社会人として働き始めた。
というわけでただいま。更新を待つ人がいるのか居ないのか、ソロモンよ私は帰ってきた。ほんのちょっとでも楽しみに待っていてくれた人が居たら嬉しいのだけど。
ここに来るまでの1ヶ月少々で僕に起こった変化は大きかったと思う。見たもの感じたもの、新しく知ったこと、失敗したことや成功したこと、失ったものや獲得したもの、既に失っていた/持っていたことに気付いたもの。そうしたものごとを僕は貴重だと思う。大切に感じる。しかし、それらが僕の精神と思考にもたらした影響を語るには、もう少し時間が必要だ。徐々に言葉にしていこうと思う。言葉の力は恐ろしい。
ひょっとすると「遠くまで来たと感じる」のも今だけで、しばらくすると慣れてしまい、ただ日々の生活に追われるのだろうか。徐々に言葉にしようと思っていたら、学生の自分と今との間に断絶があったことすら忘れてしまったりするのだろうか。環境に適応すること自体は決してマイナスなものではないけど、そういった日々には埋もれたくないと思う。
だから「過去からの距離」を痛切に感じる今、まさに比較対象になっている大学新入生の頃の自分に言いたいことはただ一つ。
計画は無駄。
これに尽きる。
僕は、自己啓発系の本を読んで、5年計画だの人生計画だのを立てて見たことがある。そこに書かれた理想と現状のギャップを測定して、それをシステマティックに埋めていくことで夢を実現できる...という触れ込みだ。先日行った外部のビジネスマナー研修でも同じことを言われた*2ので、案外社会のそこここにあふれており、それなりに信奉者を持つ概念ではあるのだろう。
さてそこで、何度か立てた長期計画を眺めてみる。(新年を迎えてヒマだったりして)状況が大きく変わるごとに立てたものがいくつかあるんだけど、全く以て計画通りに進んでいない。アメリカへの留学も、博士号の取得も、プログラマーとしての学部就職も、卒業後の高飛びも*3、現実のものとはならなかった。
その理由は、前提としていた状況が崩れたとか自分の嗜好ががらりと変わったとか出会いやら別れやらによって人間関係に変化があったとかもっと魅力的な選択肢に出会ったからだとか、まぁいろいろだけど、一番重要なことは、紙の上で立てた計画の斜め上を行く面白い状態にジャンプアップし続けて、いまここに来ているという事実だ。
まぁ、20歳かそこらの未熟な想像の範囲内に収まらないNonlinearな学生生活であったというのは、誇って良いことだと僕は思う。
しかしここまで徹底的に完膚無きまでに計画通りにならないと、逆に面白くなってくる。もういい、計画なんて捨てろ。どうせ思った通りにならない。そんでもって、思い通りにならない方が、後から見て面白い。
ちなみに少々脱線すると、計画は無駄だからと言って、将来を見通そうとする努力までも無駄というわけではないので、念のため。これはこれで重要な知見となるし、自分の現在地を確認して地に足を付けていることは、いつだって大切だ。それに、そもそもLinearな数値目標や継続目標には、むしろ計画を立てた方がうまくいくだろうと思う。問題はLinearじゃないものにまで、「計画」を適用しようとするその姿勢にあるのだろう。
さらに脱線すると、僕は「ストーリー」を重視する。現在とは異なる前提条件に立っていた自分が描いた「ストーリー」を後から見直すことは、それはそれで楽しみの一つになっている*4。まぁ、半分趣味かもしれない。脱線修了終了(プログラム的にはbreak;?)。
まぁ、こういった「計画の無意味性」はここ1,2年でうすうす感じては居たのだけど「想像力が足りないのではないか」「もっとこまめに分析修正すればちゃんとした計画が立てられるんじゃないか」とか思って足掻いてて、今回「学生→社会人」という変化を経験して*5、そのギャップの大きさに「こりゃそもそも予測不可能だろ」「ってことは今まで計画がうまく行かなかったのも...」となったのであるが、しかしまぁ、
あと何回、大きな変化を乗り越えることになるのだろうか。
人はその時その時で"限界"を持っており、その限界を超えるプロセスを繰り返して行く。
半端な優秀さを蝕むM2病の症状と、それにかこつけて吐き出される悶々とした何か - ミームの死骸を待ちながら
と自分でも書いたけど、"限界"の次の世界が今と違いすぎて、体力と精神力を喰う。強靱であるか、もしくは柔軟でなければ乗り越えてゆけない。
人生は長すぎる。いや、短いんだけど、厚すぎる。重厚すぎる。あまりにも先が存在し過ぎる。何が存在しているのかはわからないが、存在し過ぎていると感じる。そして道が長い事が予測できても、やはりどうしようもなく人間一人の認識の枠は越えられないから、僕は地道に進む(...ふりをしながら、ショートカットを見極めようと試みる)ことしかできない。
いつの間にか遠い所に行ってしまいそうな人間がそのように見えるのは実際に何回も何かから遠ざかることを繰り返して今そこに来ているからであって。
自分の無能力と常識のなさを痛感する毎日で、飲み会でハジケられない性格は相変わらずで、電話で社内の人に「さん」を付けてしまうし、彼女と会えなくて寂しかったりする。それでも仕事は楽しい*6。吸収することがたくさんあって、良い先輩/上司がいるし、任される(というか投げられる)仕事を見て、とっとと使える人間にならないと、と強く思う。どうやら僕の会社選択は間違ってなかったようだ。
今持っているものを手放さずに先に進めるかどうかわからないが、覚悟してやってみるしかない。なんかもう色々足りねーし困ったもんだけど。
決断、個性、自由意思。そういったものが守られていさえすれば僕は大抵の困難は歓迎したいし、幾分かの不条理も容認したいし、極稀に破滅に向かうことも辞さない。嘘だけど。計画なんて立てなくても瞬間をコントロール出来さえすれば、地球の裏側にだって行けてしまう。
願わくは先に存在する未来も非線形なものであることを。
太平洋の上空で知らないという事実を知らないことについて語るとき
DALLAS FT WORTH空港へ向かう飛行機の中でこれを書いている。なぜFT WORTHなのか。DALLAS空港ではダメなのか。
僕が海外に出るのは2005年の夏、2008年の秋に続いて3度目だ。
最初の海外は19歳の頃*1で、アメリカ・オハイオ州・クリーブランドの病院に勤める大伯父宅を尋ねた。大伯父さんはニューヨークからナイアガラの滝までいろいろな観光地を車で回ってくれた。日本以外の国を「見る」ことによって僕の認識は大いに広がったが、今にして思えばあまりに受け身すぎたし、時間と資金とその他諸々を僕のために投資してくれた周囲に対する感謝の念というものが足りてなさすぎた。
次の行き先もアメリカ。この渡米話は、iGEM(International Genetically Engineered Machines Competition)と呼ばれる"バイオのロボコン"とでも言うべき国際的なcompetitionに所属大学がたまたま日本代表の一派として参加していたことを、友人経由で知ったあたりまで遡るのであるが、ともかく僕はこのiGEMチームに無理を言って関わらせてもらい*2、"アドバイザー"とは名ばかりの結局ほとんど役に立たなかった木偶の坊ポジションを立派に勤め上げ、ボストン・MITで行われるJamboree*3にちゃっかり参加した。
そして、このとき勝手に師匠などと呼んで慕っているKGCの柴田さんがたまたまアメリカにいたので(いつも世界各国をふらふらしててどこで何やっているのかわからないあたりが素敵)途中で合流して金魚の糞のごとく一緒に行動させてもらった。柴田さんと居るとおもしろいことがありすぎる。たとえばMITで紹介して頂いたYさんという方がいて、Yさんは日本で会社をやっていながら現在MITの生徒としてボストンに滞在しているのだけど、後日Yさんが帰国した際にBBQに誘われて会社まで遊びに行ってみると、実は内定先(センティリオン株式会社)と業務内容がモロ被りだったりと、いやはやあの頃は興味拡散とconnecting dotsの最盛期であったように思う。ゆっくりした結果がこの修論だよ!
そして2010年2月、ジャマイカ。ここまで来るに至った経緯については次回以降の更新に譲るとする。今は、縁とノリと好意に感謝を。というか、僕はどうしてこんなにまで人に恵まれているのか意味が分からない。
んでもって来月はイタリア旅行を予定している。最後の学生生活なので、機会の稀少性を考えてちょっと無理してみた。これは完全自由旅行で、飛行機はもちろんホテルやら観光計画まで自分で考えて彼女さんと一緒に行く計画なのだけど、マイペースの極みである僕のこと、自分勝手な一人旅に比べて色々考える必要があってめんどくさいかなーと思いきや、案外コレが楽しい。妄想族故に、どうすれば喜んでくれるを考えるのが面白いのかもしれない。センスのよいものに関するアンテナは僕よりも彼女の方が圧倒的に高いから、二倍美味しくなりそうな気がするし....まぁ、この旅行もそのうち何らかの形で語られることだろう。
しかし、僕は語ろうとして語らずに終わる経験が多い*4。たいてい語ろうとすると長々と記事を書いてしまうため更新のハードルが高いことが理由なのだが、もうちっと気軽にさっくり長文を書きたいものだ。結局長文は書くのな。
しかし2、こうして海外経験を(純然たる自分語り欲求のために)つらつら書いてみると、「限界を突破せざるを得ない状況に追い込む」などと過激なことを書いているワリに、案外ゆるやかに「自立」しているような気がする。やれやれ。
ちなみに、来年からの同僚であるid:sukekiyo886は今ノルウェーで折り紙を売って生きている。会社の支援を得てこんな無茶が出来る環境、そうそうない。
ノルウェーで折り紙売ってきます! - 八つ墓村より愛をこめて〜The Grateful Crane edition
知らないことについて語るとき
さて、太平洋の上空で今まさに日付変更線を超えつつある僕は、ジャマイカを知らない。一般知識としての情報やストーリーは脳内にあるけれど、純粋な体験として、知らない。
だから僕は、知らない状態で、何を知ることになるかを語ろうと試みる。
世の中には二種類の知らないことがある。知らないという事実を知っていることと、知らないことすら知らないことの二種類だ。
想像が現実を超えるとか、現実を知らない方が画期的な発想が出るとかそういう話じゃない。
知らないという事実を知っている「知らないこと」に関して"知らない""語らない"という形で語ることは可能だが、知らないことすら知らない「知らないこと」を明示的に語ることは出来ない。知らないことすら知らない「知らないこと」を示す方法は、唯一、知っている限りを語り、その輪郭から逆算して「ひょっとしたらこういうことを知らないのではないか」と推測することしかない。
だから僕は記録を重視し、そのとき知っているものごとの一部分でも書き残そうとする。僕の見てきたもの、してきたこと、考えて来たこと、僕の見ているもの、していること、考えていることを形に残すことを好む。そうすることによって、そのとき書き記した自分自身が、それを読んだ他人が、そして将来の自分が「知らないことを知らなかったが、今では気付けるかも知れないものごと」に気付くことを祈っている。
祈りは言葉で出来ている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕たちが祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
好き好き大好き超愛してる。
話を戻そう。僕がジャマイカで何を知ることになるのかは(前情報からいくつかの予測は立てられるものの)わからない。わからないが、なんとなく期待している「気付き」のイメージはある。
みんな大好きストレングス・ファインダーの結果によれば僕の"強み"第二位は「内省」である*5、とのことなのだが、最近はどうもこの内省志向が強く出過ぎているような気がする。
ここ1,2ヶ月の記事を見て見ると
- 半端な優秀さを蝕むM2病の症状と、それにかこつけて吐き出される悶々とした何か - ミームの死骸を待ちながら
- 性格は変える/直すのではなく「追加する」 - ミームの死骸を待ちながら
- 否定されることを恐れるな、否定することを恐れるな。拒絶によってそこに輪郭が生まれる - ミームの死骸を待ちながら
- 世界はROMで出来ている。 - ミームの死骸を待ちながら
この通りだ。自分の内面から何かを語ろうとしたり、何らかの思想上のスタンスを説明することを試みる記事を、戯言という防護壁で包みながら書き記している。ま、修論で好き勝手に動けず鬱々としていたのかも知れないが。
ストレングス・ファインダーによれば「内省」という資質は次のように説明されている。
あなたは考えることが好きです。(中略)内省という資質は、あなたが何を考えているかというところまで影響するわけではありません。単に、あなたは考えることが好きだということを意味しているだけです。(中略)この内省という資質により、あなたは実際に行っていることと頭の中で考えて検討したことと比べた時、若干不満を覚えるかもしれません。(中略)それがどの方向にあなたを導くにしても、この頭の中でのやりとりはあなたの人生で変わらぬものの一つです。
考えることが好きな僕の気質はある意味で長所でもあるが、別の面から見ると弱みでもある。内省に偏りすぎるのは良くない。だから、このジャマイカ訪問が、内省側に触れすぎた僕の振り子を大きく逆側に振ってくれるのではないか、という期待をしている。
頭じゃわかってはいるんだけど、身体に定期的にすり込まないと、経験は僕の頭からほわほわと抜けていく。いや、経験は消費されていくイメージが近いかもしれない。身体を使って得た体験は僕にとって思考の燃料のようなもので、いろいろなものを見聞きした後はそれをネタにして思考することが僕の常であったし、これからもそうであろうと思う。たとえその思考が的外れで無意味であったとしてもだ。
「日々を楽しく生きればいいやー」というスタンスは潔しと思うし嫌いじゃない、むしろそういうさっぱりした人にはどちらかというと好感を覚えるのだけど、幸か不幸か...否、ただ単に、僕はそういうふうには出来ていない。それがどんな経験であっても僕は意味を見つけたいと願うし、嘘でも良いから答えのようなものが欲しいと祈る。答えがないと分かっていても、たぶんこの欲求を抑えることは不可能だろう。
「経験」という燃料が無くなると、僕の中の「内省」という怪物は、自分自身/自我やら他人やら世界やら、そういったメタメタメタなものごとを食いつぶすように思考の炎を燃やして行く。その光は今まで光の当たっていなかった自分の姿を明らかにするかも知れないし、自分が世の中についてどう考えているかを文章として明確化するきっかけを与えるかも知れない。それらを以前の姿と比較して差分を取り、なるほど確かに変化していると確認し、悦に入るかもしれない。
しかし燃やしているのは自分自身や、メタメタメタ的な状況に過ぎない。それらは燃やされるべきではない。燃やし尽くされるべきではない。少なくとも、そう頻繁に思考の対象としてはいけないものごとなのだ。
だから僕は燃料を仕入れに行く。こう書くと静的なイメージになってしまうか。
prepaired mindのみが、刺激による思考の変化を可能とする。僕は何に対して準備が出来ていて、何を見過ごしてしまうのだろうか。どんな「知らないことを知っていた」ものごとに出会い、どんな「知らないことすら知らなかった」ものごとを発見するのだろうか。
僕のために労力を割いてくれる人の好意や、帰国を待ってくれる人の存在とか、先週帰郷して食った讃岐うどんがうまかったなーとか、上のようなぐたぐだ思考をキーボードに打ち込む今この瞬間とか、春からの社会人生活が楽しみでしょうがないとか、新居の契約・投げっぱなしにしてきた研究室のタスクといった、僕が実在の人間として生きているが故に生じるリアルなものごとや、そういった全てを含めて、なんつーか「良い」と思うし、「おもしろい」。変わる気質もあるけど変わらない「核」も相変わらずで、ともかく、それが今の僕の思考だ。
宗教の悟りじゃないけどな。
悟りと言えば。飛行機の窓からみた風景は素晴らしかった。雲が物質として存在することを僕自身の目で確かめられた。飛び降りたら着地できそうな実在感を持って、いつもは頭の上にある雲が、眼下に広々と存在していた。太陽が遠く"雲平線"まで赤い光を残しながら沈んで行く光景は、これを目の前にポンと広げられ、さてこの世には神が存在しますと言われればはいそうでしょうねと信じそうな荘厳さを備えていた。
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さて。上の文章自体は飛行機の中で書かれた物だが、僕は今ジャマイカからこの記事を更新している。
今僕が確実に言えるのは、
水がない。
学校のプールの水を使って手動水洗便所や!...ちょいと蛇口をひねると水が出る日本って素晴らしい。。。内省とかいってる場合じゃないですね。素晴らしい。
半端な優秀さを蝕むM2病の症状と、それにかこつけて吐き出される悶々とした何か
大学院への進学は少しばかりのオツムの増大と引き換えに、かけがえのない若さ、素直さ、柔軟な姿勢を失わせしめる。
2年前、より正確には2年9ヶ月ほど前、僕は所属大学の大学院へと進学することを決定した。そこそこの成績を維持することにより得た院試免除という餌は、行動の動機の大半を「めんどくさいか否か」が占める僕にとって、それを振り切って無数の大学院を再び選択肢として並べ直させるには、あまりに魅力的に見えた。
斯くして僕は大学院に進学した。その先にはたくさんの院生がいた。技術者がいた。教授陣がいた。また、僕は主としてインターネットを介してさらに多くの院生と知り合うことになった。生物系も居たし、化学系、物理系、情報系、社会科学の院生もいた。
ともかく終了間近となった*1大学院生活を振り返って、どうも人間は専門化が進めば進むほど、ある種の気質を備えてくるらしいことを発見した。
これは決して全員に当てはまるものではないし、僕自身もその気質から完全に逃れられているかと言えば怪しいものだが、一般的な傾向として存在するものだと僕は考えている。この傾向を、ここではM2病と称することにする。
もちろん中二病・高二病・大二病と続く一連の"言葉遊び"の延長だと考えてくれればいい。M2病を煩う人は必ずしも大学院博士前期課程の二年生とは限らないし、そもそも大学院生に限った話でもない。学生として、教師として、アルバイトとして、会社人として、指導者として、後輩として先輩として、親としてあるいは兄弟姉妹として、あらゆる人があらゆる状況下においてM2病的であり得る。これを書いている僕自身も例外ではない。
性格は変える/直すのではなく「追加する」
シューカツに染まって自分を見失っていく行くあいつに。自分に自信が持てず身動きの取れないあなたに。自己規定から抜けられないあの人に。視野が広がり、変わることを恐れているあの子に。
人間は変わることができるのか、それともどうあがいても変わることは不可能なのか。そういったことについて僕の考えを書いてみたい。これは決してオリジナルのものではないし、僕自身が完全に習得しているわけでもないが*1、現在の僕が「こうなんじゃないか」と考えるイメージを言語化してここに残すものである。
けだし、性格というものは「変える」「直す」よりも「追加する」という認識で見た方がいい。...これが僕の言いたいことの全てであり、この時点で「ああ、なるほど」と思った人はこれ以降の文章は読む必要はないんじゃないかと思う。
こんてんつ
- 設問の不完全。
- 抽象化の必要性とその罠。
- 「レッテル」デジタル変化の不可能。
- 性格を追加するということ。
- 消え去らない「核」との付き合い方。
- 用意された結論。
設問の不完全。
まず「人間は変わることができるのか」という設問自体が不完全であると、僕は考える。「人間」をあたかもそれ以上断片化することのできない固定的な存在として見てしまっているためだ。
「あの人は頑固で自分の意見を曲げない」「あいつには芯がない」「あいつはDQNだから」...それらはすべて極論で、思考停止の一般論で、その人の一側面を取り出して論じている表面的なレッテル貼りに過ぎない。一人の人間はそんな簡単に理解できるものではない。あたりまえだけど。
あたりまえ。あたりまえで平凡で、見栄えの悪い常識だ。でも、そんなあたりまえの「人間ひとりの複雑性」に直面して思考停止していては、思考が一対一のフィールドから広がることがない。扱える現実の幅が広がらない。10人程度なら一人一人のいろいろな側面を考えながら丁寧な人付き合いが出来るかも知れないが、関わる人が10人そこらで収まるほど、僕らはのっぺりとした世界に生きていない。相手を深く理解できる能力、理解しようとする姿勢それ自体は素晴らしいものだが、しかし、それだけでは価値がない。
そこで僕らは、人間を抽象化する。
抽象化の必要性とその罠
僕らは人間を抽象化する。主としてその理由は、一人一人の内面的多様性まで考えていては選択肢の分岐/考慮すべき情報が多くなりすぎるからだ。
あんな服装の人間はこういうパーソナリティを持っているに違いない、あんな台詞を吐いた彼女はこういった性格に違いない、X大学の学生はこうした人間が多い、Y地方出身の人間はこんな性格だ、etcetc...
また、小説やアニメ、ビジネス書やらハウツーものの書籍でも、人間のキャラクター設定は抽象化されている。経済学なんて抽象化の最たるものだ。学問も"ものがたり"である。
この抽象化によって、より広い思考が可能となる。
抽象化は必要である。しかし抽象化というドラッグはあまりに中毒性が高いので、僕らはほとんど無意識にあらゆるものごとを抽象化する。そして抽象化されるものごとの中には、自分自身の性格/気質も含まれていることが多々ある。
就活のエントリーシート、初対面の相手への自己紹介、所属や肩書き、狭い世界で繰り返される日常。自己を表現するために使うおきまりの単語に慣れ親しんでいると、自分自身を抽象化することに慣れすぎてしまう。
抽象化された人間像・自己認識は「レッテル」として自我にこびりつき、表現するためのものだった言葉達は、逆に自分自身を縛り始める。これが人間性を単純化することによる弊害、抽象化の罠のひとつであると、現在の僕は考えている。
「レッテル」デジタル変化の不可能。
抽象化されたレッテルの元で自分の性格を評価しようとすると、他人と比べて劣った面が目に付いてしまう(((少なくとも僕の性格だとこの傾向が強いというだけの話なので、以下は自己認識のパターンによっては共感できないかも知れない))。「自分はネガティブ思考だからいけない」「怒りっぽいのが直らない」「口下手だから人と話すのが恥ずかしい」...etcetc. 「ネガティブ」も「怒りっぽい」も「口下手」もすべて、抽象化されたレッテルだ。
そして抽象化された「レッテル」という自己認識は、時に、"自己の性格を必要以上に絶対視する"という過ちを誘発する。自己の性格を絶対視し、「自分はこういう性格だ」と思ってしまうと、「悪い気質を根絶しよう」「性格を一新しよう」という考えへと陥りやすい。現状の性格の悪い面だけ見て全否定し、新しい自分とやらに生まれ変わろうとしてみたりする。ところがそいつは無意味なことだ。実際の気質はデジタルに変わるものではないから、試みは失敗に終わることが多い。
実際の気質はデジタルに変わるものではないとしたら、どのようなイメージを持てばよいのか? デジタルの代わりに存在する有り様は、0から100へ至る連続的なグラデーションである。たとえばネガティブ気質を60持つ人は、10の人から見ると「あいつはいつもネガティブだ」となるし、逆に90の人にとっては「明るくてうらやましい」となる。誰もが自分の中に自分独自の基準値を持っており、あらゆる人間の気質評価というものは、ことごとく相対化されている。
性格を追加するということ。
僕らが生きていく上で、多かれ少なかれ大なり小なり「変化の必要性」があることは確実だ。生まれ落ち育て上げられたままの性格で死ぬまで変化せずに貫ける人はよほど世の中と断絶していたか神の如き才能を持っていたかのどちらかだろう。だからどうしようもなく世の中との関連性の中に生きている凡人の僕らは、いつかは「変化の必要性」にぶちあたる。
しかし前述の通り、抽象化されたレッテルにフォーカスを当ててデジタルな変化をおこそうとしてもうまくいかない。ではどうすればよいのか。
もし人間性の変化が起こるとしたら、それは変化を起こそうと思ってのことではなく、人間性を変化させる必要があるから、結果として変化がある。これが基本的なスタンスだ。
このへんで当初の「人間は変わることができるのか」という疑問に答えると、変わることの出来る部分と、決して変わることがない「核」が存在する。というものが僕の考えだ。「核」が形成された理由付けは出来るかも知れないし、出来ないかも知れない*2。それは問題ではない。ともかく、両者を区分することが第一歩だ。
必要な気質が「核」に入っていれば、それは素晴らしいことだ。でも、必要な/望ましい気質が「核」にプリインストールされているとは限らない。「核」が変えられないとするならば、どのようにして「変化の必要性」に対応すればよいのか。
「核」の上に個別の気質を「追加」すべきだと、僕は考えている。いわば「核」の部分がOSで、それ以外の追加される気質/性格はアプリケーションだ。
たとえば僕は「シューカツモード」なる性格へと、必要に応じて切り替えるようにしている。
研修の概要を聞いて、なるほどグループワークのようなものか、と、久しぶりに脳味噌をシューカツモードに切り替えてみた。シューカツ脳の特徴は
- 自重せず積極的に質問、参加して撃沈する(黙っているよりずっといい)
- 歯の浮く言葉使い、テンプレート通りの予定調和に対する嫌悪感センサーをOFFにする
これが正しいのかどうかは知らないが、もとより内定者に正しくある事など期待されていないだろう。
内定式(?)で入社前に予習した仕事のエッセンスが感動的だった件 - ミームの死骸を待ちながら
他にありうる追加気質は、たとえば「人と楽しくおしゃべりできる」「人前でもあがらない」「異性と仲良くなれる」「ものすごい集中力を発揮できる」「大量の情報を扱うのが得意」...などなど*3。求められる性格ってのは、状況によって実に多種多様だ。
ちなみにこれらのアプリケーションは、その気質を「核」として持っている周囲の人間を観察してラーニングするのが得策だ。天然タラシ君を観察して「異性と仲良くなれる」気質を使えるようになる、といった具合に。
消え去らない「核」との付き合い方。
10数年だか20年だか*4生きて来たのだから、どーしても変えられない部分、そこを外してしまうと自己としての同一性を失ってしまうようなアイデンティティそのもの、それ以外がどれだけ変わろうとも決して変わらないポイントが、誰にでも必ず存在する。
その「核」は一般的に見ると好ましくないかも知れない。怠惰だったり悲観的だったり短期だったり攻撃的だったり自虐的だったり自信がなかったりするかも知れない。自分自身でその「核」を憎むことすらあるかも知れない。
しかしそのような気質が「核」に含まれているとしたら、その定義からして変えることは出来ない。うまく付き合っていくしかない。
「核」は決して消えることはない。ふとしたきっかけで垣間見えたり、好ましくない「核」に捕らわれて抜け出せなくなるかもしれない。それでも「昔の自分に戻ってしまった。やっぱり僕はもうだめだ」と絶望するのではなく、また弱みを補う性格を「核」の上に乗せ直すことだ。何度インストールしてもいいし、地道にアプリケーションをバージョンアップしていけば、OSの欠陥を補う能力は徐々に向上していく。
こうしてうまく切り替えていると、望ましくない「核」は出てくる頻度が低くなる。何かを忘れるために最も必要な行動は、その何かに触れる時間を極力減らすことである。
たとえば僕は、12歳あたりから病的なまでの*5自虐思考と加害/被害妄想があって、今も完治してるわけじゃないんだけど、性格を「追加」して別の性格になることもできたし*6、そうこうしているうちに自己破壊的な性格はだんだんと薄れているように思える。
用意された結論。
用意された結論へと戯言を収斂させよう。
追加する性格を設定しさえすれば、後は自己暗示と吹っ切りだけの問題だ。"基本的には"、どんな人格になることもできる。
ここで"基本的には"と書いたことにはもちろん意味があって、人間の可能性が無限であることと、無限の性格を実装可能であることは決して等価ではない。
「核」にうまく融合しない性格を無理矢理インストールすると不都合が発生することは目に見えている。どうしても追加する必要があるものだけ、さらに言えば自分が追加したいものだけ、そして重要なことに現実的に追加できるものだけ、追加すればいい。
新しい性格を試す時、他者の目が気になるかもしれない。「あいつあんなキャラじゃねーだろwww」と影で笑われていないか、過剰な自意識でもって気にしすぎるタイプの人もいる。僕がそうだが、自覚しているがゆえに、二年前に書いた記事*7の中で既に解決策を見いだしていた。
「誰もお前の事なんて気にしない」
オフ会とかやったことないもので - ミームの死骸を待ちながら
と考え、周囲を無駄に意識するのを辞めることだ。誰だって一番関心があるのは自分自身の事だ。良くも悪くも。そーゆーもんだ。
とりあえず試してみて、そのあとしっくり来る形を模索すればいい。馴染むようならそのまま居座らせればいいし、どうにも合わない気質はアンインストールだ。最も悪いのは「核」に合わない気質を無理に装い続ける事。これは精神が破滅するし、周囲にも悪い影響を及ぼす。
一度愛して手に入れたものを自意識のために捨てるのは愚か者さ。自己像を修正することにそれほどの価値はない。
舞城王太郎『九十九十九』
現状の自分を破壊せず、まるっきり他人になるでもない。効果的で継続的、自然体の変化を志向したい。