ミームの死骸を待ちながら

We are built as gene machines and cultured as meme machines, but we have the power to turn against our creators. We, alone on earth, can rebel against the tyranny of the selfish replicators. - Richard Dawkins "Selfish Gene"

We are built as gene machines and cultured as meme machines, but we have the power to turn against our creators.
We, alone on earth, can rebel against the tyranny of the selfish replicators.
- Richard Dawkins "Selfish Gene"

性格は変える/直すのではなく「追加する」


シューカツに染まって自分を見失っていく行くあいつに。自分に自信が持てず身動きの取れないあなたに。自己規定から抜けられないあの人に。視野が広がり、変わることを恐れているあの子に。


人間は変わることができるのか、それともどうあがいても変わることは不可能なのか。そういったことについて僕の考えを書いてみたい。これは決してオリジナルのものではないし、僕自身が完全に習得しているわけでもないが*1、現在の僕が「こうなんじゃないか」と考えるイメージを言語化してここに残すものである。


けだし、性格というものは「変える」「直す」よりも「追加する」という認識で見た方がいい。...これが僕の言いたいことの全てであり、この時点で「ああ、なるほど」と思った人はこれ以降の文章は読む必要はないんじゃないかと思う。


こんてんつ

  • 設問の不完全。
  • 抽象化の必要性とその罠。
  • 「レッテル」デジタル変化の不可能。
  • 性格を追加するということ。
  • 消え去らない「核」との付き合い方。
  • 用意された結論。

設問の不完全。


まず「人間は変わることができるのか」という設問自体が不完全であると、僕は考える。「人間」をあたかもそれ以上断片化することのできない固定的な存在として見てしまっているためだ。


「あの人は頑固で自分の意見を曲げない」「あいつには芯がない」「あいつはDQNだから」...それらはすべて極論で、思考停止の一般論で、その人の一側面を取り出して論じている表面的なレッテル貼りに過ぎない。一人の人間はそんな簡単に理解できるものではない。あたりまえだけど。

あたりまえ。あたりまえで平凡で、見栄えの悪い常識だ。でも、そんなあたりまえの「人間ひとりの複雑性」に直面して思考停止していては、思考が一対一のフィールドから広がることがない。扱える現実の幅が広がらない。10人程度なら一人一人のいろいろな側面を考えながら丁寧な人付き合いが出来るかも知れないが、関わる人が10人そこらで収まるほど、僕らはのっぺりとした世界に生きていない。相手を深く理解できる能力、理解しようとする姿勢それ自体は素晴らしいものだが、しかし、それだけでは価値がない。


そこで僕らは、人間を抽象化する。


抽象化の必要性とその罠


僕らは人間を抽象化する。主としてその理由は、一人一人の内面的多様性まで考えていては選択肢の分岐/考慮すべき情報が多くなりすぎるからだ。
あんな服装の人間はこういうパーソナリティを持っているに違いない、あんな台詞を吐いた彼女はこういった性格に違いない、X大学の学生はこうした人間が多い、Y地方出身の人間はこんな性格だ、etcetc...
また、小説やアニメ、ビジネス書やらハウツーものの書籍でも、人間のキャラクター設定は抽象化されている。経済学なんて抽象化の最たるものだ。学問も"ものがたり"である。
この抽象化によって、より広い思考が可能となる。


抽象化は必要である。しかし抽象化というドラッグはあまりに中毒性が高いので、僕らはほとんど無意識にあらゆるものごとを抽象化する。そして抽象化されるものごとの中には、自分自身の性格/気質も含まれていることが多々ある。
就活のエントリーシート、初対面の相手への自己紹介、所属や肩書き、狭い世界で繰り返される日常。自己を表現するために使うおきまりの単語に慣れ親しんでいると、自分自身を抽象化することに慣れすぎてしまう。


抽象化された人間像・自己認識は「レッテル」として自我にこびりつき、表現するためのものだった言葉達は、逆に自分自身を縛り始める。これが人間性を単純化することによる弊害、抽象化の罠のひとつであると、現在の僕は考えている。


「レッテル」デジタル変化の不可能。


抽象化されたレッテルの元で自分の性格を評価しようとすると、他人と比べて劣った面が目に付いてしまう(((少なくとも僕の性格だとこの傾向が強いというだけの話なので、以下は自己認識のパターンによっては共感できないかも知れない))。「自分はネガティブ思考だからいけない」「怒りっぽいのが直らない」「口下手だから人と話すのが恥ずかしい」...etcetc. 「ネガティブ」も「怒りっぽい」も「口下手」もすべて、抽象化されたレッテルだ。


そして抽象化された「レッテル」という自己認識は、時に、"自己の性格を必要以上に絶対視する"という過ちを誘発する。自己の性格を絶対視し、「自分はこういう性格だ」と思ってしまうと、「悪い気質を根絶しよう」「性格を一新しよう」という考えへと陥りやすい。現状の性格の悪い面だけ見て全否定し、新しい自分とやらに生まれ変わろうとしてみたりする。ところがそいつは無意味なことだ。実際の気質はデジタルに変わるものではないから、試みは失敗に終わることが多い。


実際の気質はデジタルに変わるものではないとしたら、どのようなイメージを持てばよいのか? デジタルの代わりに存在する有り様は、0から100へ至る連続的なグラデーションである。たとえばネガティブ気質を60持つ人は、10の人から見ると「あいつはいつもネガティブだ」となるし、逆に90の人にとっては「明るくてうらやましい」となる。誰もが自分の中に自分独自の基準値を持っており、あらゆる人間の気質評価というものは、ことごとく相対化されている。


性格を追加するということ。


僕らが生きていく上で、多かれ少なかれ大なり小なり「変化の必要性」があることは確実だ。生まれ落ち育て上げられたままの性格で死ぬまで変化せずに貫ける人はよほど世の中と断絶していたか神の如き才能を持っていたかのどちらかだろう。だからどうしようもなく世の中との関連性の中に生きている凡人の僕らは、いつかは「変化の必要性」にぶちあたる。
しかし前述の通り、抽象化されたレッテルにフォーカスを当ててデジタルな変化をおこそうとしてもうまくいかない。ではどうすればよいのか。


もし人間性の変化が起こるとしたら、それは変化を起こそうと思ってのことではなく、人間性を変化させる必要があるから、結果として変化がある。これが基本的なスタンスだ。


このへんで当初の「人間は変わることができるのか」という疑問に答えると、変わることの出来る部分と、決して変わることがない「核」が存在する。というものが僕の考えだ。「核」が形成された理由付けは出来るかも知れないし、出来ないかも知れない*2。それは問題ではない。ともかく、両者を区分することが第一歩だ。


必要な気質が「核」に入っていれば、それは素晴らしいことだ。でも、必要な/望ましい気質が「核」にプリインストールされているとは限らない。「核」が変えられないとするならば、どのようにして「変化の必要性」に対応すればよいのか。


「核」の上に個別の気質を「追加」すべきだと、僕は考えている。いわば「核」の部分がOSで、それ以外の追加される気質/性格はアプリケーションだ。
たとえば僕は「シューカツモード」なる性格へと、必要に応じて切り替えるようにしている。

研修の概要を聞いて、なるほどグループワークのようなものか、と、久しぶりに脳味噌をシューカツモードに切り替えてみた。シューカツ脳の特徴は

  • 自重せず積極的に質問、参加して撃沈する(黙っているよりずっといい)
  • 歯の浮く言葉使い、テンプレート通りの予定調和に対する嫌悪感センサーをOFFにする

これが正しいのかどうかは知らないが、もとより内定者に正しくある事など期待されていないだろう。

内定式(?)で入社前に予習した仕事のエッセンスが感動的だった件 - ミームの死骸を待ちながら


他にありうる追加気質は、たとえば「人と楽しくおしゃべりできる」「人前でもあがらない」「異性と仲良くなれる」「ものすごい集中力を発揮できる」「大量の情報を扱うのが得意」...などなど*3。求められる性格ってのは、状況によって実に多種多様だ。
ちなみにこれらのアプリケーションは、その気質を「核」として持っている周囲の人間を観察してラーニングするのが得策だ。天然タラシ君を観察して「異性と仲良くなれる」気質を使えるようになる、といった具合に。


消え去らない「核」との付き合い方。


10数年だか20年だか*4生きて来たのだから、どーしても変えられない部分、そこを外してしまうと自己としての同一性を失ってしまうようなアイデンティティそのもの、それ以外がどれだけ変わろうとも決して変わらないポイントが、誰にでも必ず存在する。


その「核」は一般的に見ると好ましくないかも知れない。怠惰だったり悲観的だったり短期だったり攻撃的だったり自虐的だったり自信がなかったりするかも知れない。自分自身でその「核」を憎むことすらあるかも知れない。
しかしそのような気質が「核」に含まれているとしたら、その定義からして変えることは出来ない。うまく付き合っていくしかない。


「核」は決して消えることはない。ふとしたきっかけで垣間見えたり、好ましくない「核」に捕らわれて抜け出せなくなるかもしれない。それでも「昔の自分に戻ってしまった。やっぱり僕はもうだめだ」と絶望するのではなく、また弱みを補う性格を「核」の上に乗せ直すことだ。何度インストールしてもいいし、地道にアプリケーションをバージョンアップしていけば、OSの欠陥を補う能力は徐々に向上していく。


こうしてうまく切り替えていると、望ましくない「核」は出てくる頻度が低くなる。何かを忘れるために最も必要な行動は、その何かに触れる時間を極力減らすことである。

たとえば僕は、12歳あたりから病的なまでの*5自虐思考と加害/被害妄想があって、今も完治してるわけじゃないんだけど、性格を「追加」して別の性格になることもできたし*6、そうこうしているうちに自己破壊的な性格はだんだんと薄れているように思える。


用意された結論。


用意された結論へと戯言を収斂させよう。


追加する性格を設定しさえすれば、後は自己暗示と吹っ切りだけの問題だ。"基本的には"、どんな人格になることもできる。
ここで"基本的には"と書いたことにはもちろん意味があって、人間の可能性が無限であることと、無限の性格を実装可能であることは決して等価ではない。
「核」にうまく融合しない性格を無理矢理インストールすると不都合が発生することは目に見えている。どうしても追加する必要があるものだけ、さらに言えば自分が追加したいものだけ、そして重要なことに現実的に追加できるものだけ、追加すればいい。



新しい性格を試す時、他者の目が気になるかもしれない。「あいつあんなキャラじゃねーだろwww」と影で笑われていないか、過剰な自意識でもって気にしすぎるタイプの人もいる。僕がそうだが、自覚しているがゆえに、二年前に書いた記事*7の中で既に解決策を見いだしていた。

「誰もお前の事なんて気にしない」

オフ会とかやったことないもので - ミームの死骸を待ちながら

と考え、周囲を無駄に意識するのを辞めることだ。誰だって一番関心があるのは自分自身の事だ。良くも悪くも。そーゆーもんだ。


とりあえず試してみて、そのあとしっくり来る形を模索すればいい。馴染むようならそのまま居座らせればいいし、どうにも合わない気質はアンインストールだ。最も悪いのは「核」に合わない気質を無理に装い続ける事。これは精神が破滅するし、周囲にも悪い影響を及ぼす。

一度愛して手に入れたものを自意識のために捨てるのは愚か者さ。自己像を修正することにそれほどの価値はない。
舞城王太郎九十九十九


現状の自分を破壊せず、まるっきり他人になるでもない。効果的で継続的、自然体の変化を志向したい。

*1:僕の書く戯言カテゴリ記事はたいていそうだけど

*2:家庭環境、遺伝etc

*3:別に僕が使えるものを挙げたわけではない

*4:自分で書いてみて想定読者層がここで初めて明らかになった

*5:とはいえ、本当に"病気"と見なされるレベルまでは行かないのでこれはただの形容詞

*6:まぁ基本的に外面的には大人しい人間であることがほとんどなんだけど、性格の「追加」は、外界の刺激をどう認識するか、というフィルタリングの層に影響があるように思う

*7:この頃は記事が短かった!