太平洋の上空で知らないという事実を知らないことについて語るとき
DALLAS FT WORTH空港へ向かう飛行機の中でこれを書いている。なぜFT WORTHなのか。DALLAS空港ではダメなのか。
僕が海外に出るのは2005年の夏、2008年の秋に続いて3度目だ。
最初の海外は19歳の頃*1で、アメリカ・オハイオ州・クリーブランドの病院に勤める大伯父宅を尋ねた。大伯父さんはニューヨークからナイアガラの滝までいろいろな観光地を車で回ってくれた。日本以外の国を「見る」ことによって僕の認識は大いに広がったが、今にして思えばあまりに受け身すぎたし、時間と資金とその他諸々を僕のために投資してくれた周囲に対する感謝の念というものが足りてなさすぎた。
次の行き先もアメリカ。この渡米話は、iGEM(International Genetically Engineered Machines Competition)と呼ばれる"バイオのロボコン"とでも言うべき国際的なcompetitionに所属大学がたまたま日本代表の一派として参加していたことを、友人経由で知ったあたりまで遡るのであるが、ともかく僕はこのiGEMチームに無理を言って関わらせてもらい*2、"アドバイザー"とは名ばかりの結局ほとんど役に立たなかった木偶の坊ポジションを立派に勤め上げ、ボストン・MITで行われるJamboree*3にちゃっかり参加した。
そして、このとき勝手に師匠などと呼んで慕っているKGCの柴田さんがたまたまアメリカにいたので(いつも世界各国をふらふらしててどこで何やっているのかわからないあたりが素敵)途中で合流して金魚の糞のごとく一緒に行動させてもらった。柴田さんと居るとおもしろいことがありすぎる。たとえばMITで紹介して頂いたYさんという方がいて、Yさんは日本で会社をやっていながら現在MITの生徒としてボストンに滞在しているのだけど、後日Yさんが帰国した際にBBQに誘われて会社まで遊びに行ってみると、実は内定先(センティリオン株式会社)と業務内容がモロ被りだったりと、いやはやあの頃は興味拡散とconnecting dotsの最盛期であったように思う。ゆっくりした結果がこの修論だよ!
そして2010年2月、ジャマイカ。ここまで来るに至った経緯については次回以降の更新に譲るとする。今は、縁とノリと好意に感謝を。というか、僕はどうしてこんなにまで人に恵まれているのか意味が分からない。
んでもって来月はイタリア旅行を予定している。最後の学生生活なので、機会の稀少性を考えてちょっと無理してみた。これは完全自由旅行で、飛行機はもちろんホテルやら観光計画まで自分で考えて彼女さんと一緒に行く計画なのだけど、マイペースの極みである僕のこと、自分勝手な一人旅に比べて色々考える必要があってめんどくさいかなーと思いきや、案外コレが楽しい。妄想族故に、どうすれば喜んでくれるを考えるのが面白いのかもしれない。センスのよいものに関するアンテナは僕よりも彼女の方が圧倒的に高いから、二倍美味しくなりそうな気がするし....まぁ、この旅行もそのうち何らかの形で語られることだろう。
しかし、僕は語ろうとして語らずに終わる経験が多い*4。たいてい語ろうとすると長々と記事を書いてしまうため更新のハードルが高いことが理由なのだが、もうちっと気軽にさっくり長文を書きたいものだ。結局長文は書くのな。
しかし2、こうして海外経験を(純然たる自分語り欲求のために)つらつら書いてみると、「限界を突破せざるを得ない状況に追い込む」などと過激なことを書いているワリに、案外ゆるやかに「自立」しているような気がする。やれやれ。
ちなみに、来年からの同僚であるid:sukekiyo886は今ノルウェーで折り紙を売って生きている。会社の支援を得てこんな無茶が出来る環境、そうそうない。
ノルウェーで折り紙売ってきます! - 八つ墓村より愛をこめて〜The Grateful Crane edition
知らないことについて語るとき
さて、太平洋の上空で今まさに日付変更線を超えつつある僕は、ジャマイカを知らない。一般知識としての情報やストーリーは脳内にあるけれど、純粋な体験として、知らない。
だから僕は、知らない状態で、何を知ることになるかを語ろうと試みる。
世の中には二種類の知らないことがある。知らないという事実を知っていることと、知らないことすら知らないことの二種類だ。
想像が現実を超えるとか、現実を知らない方が画期的な発想が出るとかそういう話じゃない。
知らないという事実を知っている「知らないこと」に関して"知らない""語らない"という形で語ることは可能だが、知らないことすら知らない「知らないこと」を明示的に語ることは出来ない。知らないことすら知らない「知らないこと」を示す方法は、唯一、知っている限りを語り、その輪郭から逆算して「ひょっとしたらこういうことを知らないのではないか」と推測することしかない。
だから僕は記録を重視し、そのとき知っているものごとの一部分でも書き残そうとする。僕の見てきたもの、してきたこと、考えて来たこと、僕の見ているもの、していること、考えていることを形に残すことを好む。そうすることによって、そのとき書き記した自分自身が、それを読んだ他人が、そして将来の自分が「知らないことを知らなかったが、今では気付けるかも知れないものごと」に気付くことを祈っている。
祈りは言葉で出来ている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕たちが祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
好き好き大好き超愛してる。
話を戻そう。僕がジャマイカで何を知ることになるのかは(前情報からいくつかの予測は立てられるものの)わからない。わからないが、なんとなく期待している「気付き」のイメージはある。
みんな大好きストレングス・ファインダーの結果によれば僕の"強み"第二位は「内省」である*5、とのことなのだが、最近はどうもこの内省志向が強く出過ぎているような気がする。
ここ1,2ヶ月の記事を見て見ると
- 半端な優秀さを蝕むM2病の症状と、それにかこつけて吐き出される悶々とした何か - ミームの死骸を待ちながら
- 性格は変える/直すのではなく「追加する」 - ミームの死骸を待ちながら
- 否定されることを恐れるな、否定することを恐れるな。拒絶によってそこに輪郭が生まれる - ミームの死骸を待ちながら
- 世界はROMで出来ている。 - ミームの死骸を待ちながら
この通りだ。自分の内面から何かを語ろうとしたり、何らかの思想上のスタンスを説明することを試みる記事を、戯言という防護壁で包みながら書き記している。ま、修論で好き勝手に動けず鬱々としていたのかも知れないが。
ストレングス・ファインダーによれば「内省」という資質は次のように説明されている。
あなたは考えることが好きです。(中略)内省という資質は、あなたが何を考えているかというところまで影響するわけではありません。単に、あなたは考えることが好きだということを意味しているだけです。(中略)この内省という資質により、あなたは実際に行っていることと頭の中で考えて検討したことと比べた時、若干不満を覚えるかもしれません。(中略)それがどの方向にあなたを導くにしても、この頭の中でのやりとりはあなたの人生で変わらぬものの一つです。
考えることが好きな僕の気質はある意味で長所でもあるが、別の面から見ると弱みでもある。内省に偏りすぎるのは良くない。だから、このジャマイカ訪問が、内省側に触れすぎた僕の振り子を大きく逆側に振ってくれるのではないか、という期待をしている。
頭じゃわかってはいるんだけど、身体に定期的にすり込まないと、経験は僕の頭からほわほわと抜けていく。いや、経験は消費されていくイメージが近いかもしれない。身体を使って得た体験は僕にとって思考の燃料のようなもので、いろいろなものを見聞きした後はそれをネタにして思考することが僕の常であったし、これからもそうであろうと思う。たとえその思考が的外れで無意味であったとしてもだ。
「日々を楽しく生きればいいやー」というスタンスは潔しと思うし嫌いじゃない、むしろそういうさっぱりした人にはどちらかというと好感を覚えるのだけど、幸か不幸か...否、ただ単に、僕はそういうふうには出来ていない。それがどんな経験であっても僕は意味を見つけたいと願うし、嘘でも良いから答えのようなものが欲しいと祈る。答えがないと分かっていても、たぶんこの欲求を抑えることは不可能だろう。
「経験」という燃料が無くなると、僕の中の「内省」という怪物は、自分自身/自我やら他人やら世界やら、そういったメタメタメタなものごとを食いつぶすように思考の炎を燃やして行く。その光は今まで光の当たっていなかった自分の姿を明らかにするかも知れないし、自分が世の中についてどう考えているかを文章として明確化するきっかけを与えるかも知れない。それらを以前の姿と比較して差分を取り、なるほど確かに変化していると確認し、悦に入るかもしれない。
しかし燃やしているのは自分自身や、メタメタメタ的な状況に過ぎない。それらは燃やされるべきではない。燃やし尽くされるべきではない。少なくとも、そう頻繁に思考の対象としてはいけないものごとなのだ。
だから僕は燃料を仕入れに行く。こう書くと静的なイメージになってしまうか。
prepaired mindのみが、刺激による思考の変化を可能とする。僕は何に対して準備が出来ていて、何を見過ごしてしまうのだろうか。どんな「知らないことを知っていた」ものごとに出会い、どんな「知らないことすら知らなかった」ものごとを発見するのだろうか。
僕のために労力を割いてくれる人の好意や、帰国を待ってくれる人の存在とか、先週帰郷して食った讃岐うどんがうまかったなーとか、上のようなぐたぐだ思考をキーボードに打ち込む今この瞬間とか、春からの社会人生活が楽しみでしょうがないとか、新居の契約・投げっぱなしにしてきた研究室のタスクといった、僕が実在の人間として生きているが故に生じるリアルなものごとや、そういった全てを含めて、なんつーか「良い」と思うし、「おもしろい」。変わる気質もあるけど変わらない「核」も相変わらずで、ともかく、それが今の僕の思考だ。
宗教の悟りじゃないけどな。
悟りと言えば。飛行機の窓からみた風景は素晴らしかった。雲が物質として存在することを僕自身の目で確かめられた。飛び降りたら着地できそうな実在感を持って、いつもは頭の上にある雲が、眼下に広々と存在していた。太陽が遠く"雲平線"まで赤い光を残しながら沈んで行く光景は、これを目の前にポンと広げられ、さてこの世には神が存在しますと言われればはいそうでしょうねと信じそうな荘厳さを備えていた。
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さて。上の文章自体は飛行機の中で書かれた物だが、僕は今ジャマイカからこの記事を更新している。
今僕が確実に言えるのは、
水がない。
学校のプールの水を使って手動水洗便所や!...ちょいと蛇口をひねると水が出る日本って素晴らしい。。。内省とかいってる場合じゃないですね。素晴らしい。