「計画は無駄」ただひとつ大学新入生の自分に叩き込みたいこと
ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がする。前回のブログ更新を見ると2月末とのことで、まるまる1ヶ月以上放置していたことになる。期間として考えると決して長いとは言えないが、その間に起こったイベントの濃厚さを考えると、もっと昔のような気がしてくる。
ジャマイカに行ってきた。イタリアにも行ってきた。人と生活を共有した。跡を濁して大学院を卒業し*1、引越して環境が変わり、社会人として働き始めた。
というわけでただいま。更新を待つ人がいるのか居ないのか、ソロモンよ私は帰ってきた。ほんのちょっとでも楽しみに待っていてくれた人が居たら嬉しいのだけど。
ここに来るまでの1ヶ月少々で僕に起こった変化は大きかったと思う。見たもの感じたもの、新しく知ったこと、失敗したことや成功したこと、失ったものや獲得したもの、既に失っていた/持っていたことに気付いたもの。そうしたものごとを僕は貴重だと思う。大切に感じる。しかし、それらが僕の精神と思考にもたらした影響を語るには、もう少し時間が必要だ。徐々に言葉にしていこうと思う。言葉の力は恐ろしい。
ひょっとすると「遠くまで来たと感じる」のも今だけで、しばらくすると慣れてしまい、ただ日々の生活に追われるのだろうか。徐々に言葉にしようと思っていたら、学生の自分と今との間に断絶があったことすら忘れてしまったりするのだろうか。環境に適応すること自体は決してマイナスなものではないけど、そういった日々には埋もれたくないと思う。
だから「過去からの距離」を痛切に感じる今、まさに比較対象になっている大学新入生の頃の自分に言いたいことはただ一つ。
計画は無駄。
これに尽きる。
僕は、自己啓発系の本を読んで、5年計画だの人生計画だのを立てて見たことがある。そこに書かれた理想と現状のギャップを測定して、それをシステマティックに埋めていくことで夢を実現できる...という触れ込みだ。先日行った外部のビジネスマナー研修でも同じことを言われた*2ので、案外社会のそこここにあふれており、それなりに信奉者を持つ概念ではあるのだろう。
さてそこで、何度か立てた長期計画を眺めてみる。(新年を迎えてヒマだったりして)状況が大きく変わるごとに立てたものがいくつかあるんだけど、全く以て計画通りに進んでいない。アメリカへの留学も、博士号の取得も、プログラマーとしての学部就職も、卒業後の高飛びも*3、現実のものとはならなかった。
その理由は、前提としていた状況が崩れたとか自分の嗜好ががらりと変わったとか出会いやら別れやらによって人間関係に変化があったとかもっと魅力的な選択肢に出会ったからだとか、まぁいろいろだけど、一番重要なことは、紙の上で立てた計画の斜め上を行く面白い状態にジャンプアップし続けて、いまここに来ているという事実だ。
まぁ、20歳かそこらの未熟な想像の範囲内に収まらないNonlinearな学生生活であったというのは、誇って良いことだと僕は思う。
しかしここまで徹底的に完膚無きまでに計画通りにならないと、逆に面白くなってくる。もういい、計画なんて捨てろ。どうせ思った通りにならない。そんでもって、思い通りにならない方が、後から見て面白い。
ちなみに少々脱線すると、計画は無駄だからと言って、将来を見通そうとする努力までも無駄というわけではないので、念のため。これはこれで重要な知見となるし、自分の現在地を確認して地に足を付けていることは、いつだって大切だ。それに、そもそもLinearな数値目標や継続目標には、むしろ計画を立てた方がうまくいくだろうと思う。問題はLinearじゃないものにまで、「計画」を適用しようとするその姿勢にあるのだろう。
さらに脱線すると、僕は「ストーリー」を重視する。現在とは異なる前提条件に立っていた自分が描いた「ストーリー」を後から見直すことは、それはそれで楽しみの一つになっている*4。まぁ、半分趣味かもしれない。脱線修了終了(プログラム的にはbreak;?)。
まぁ、こういった「計画の無意味性」はここ1,2年でうすうす感じては居たのだけど「想像力が足りないのではないか」「もっとこまめに分析修正すればちゃんとした計画が立てられるんじゃないか」とか思って足掻いてて、今回「学生→社会人」という変化を経験して*5、そのギャップの大きさに「こりゃそもそも予測不可能だろ」「ってことは今まで計画がうまく行かなかったのも...」となったのであるが、しかしまぁ、
あと何回、大きな変化を乗り越えることになるのだろうか。
人はその時その時で"限界"を持っており、その限界を超えるプロセスを繰り返して行く。
半端な優秀さを蝕むM2病の症状と、それにかこつけて吐き出される悶々とした何か - ミームの死骸を待ちながら
と自分でも書いたけど、"限界"の次の世界が今と違いすぎて、体力と精神力を喰う。強靱であるか、もしくは柔軟でなければ乗り越えてゆけない。
人生は長すぎる。いや、短いんだけど、厚すぎる。重厚すぎる。あまりにも先が存在し過ぎる。何が存在しているのかはわからないが、存在し過ぎていると感じる。そして道が長い事が予測できても、やはりどうしようもなく人間一人の認識の枠は越えられないから、僕は地道に進む(...ふりをしながら、ショートカットを見極めようと試みる)ことしかできない。
いつの間にか遠い所に行ってしまいそうな人間がそのように見えるのは実際に何回も何かから遠ざかることを繰り返して今そこに来ているからであって。
自分の無能力と常識のなさを痛感する毎日で、飲み会でハジケられない性格は相変わらずで、電話で社内の人に「さん」を付けてしまうし、彼女と会えなくて寂しかったりする。それでも仕事は楽しい*6。吸収することがたくさんあって、良い先輩/上司がいるし、任される(というか投げられる)仕事を見て、とっとと使える人間にならないと、と強く思う。どうやら僕の会社選択は間違ってなかったようだ。
今持っているものを手放さずに先に進めるかどうかわからないが、覚悟してやってみるしかない。なんかもう色々足りねーし困ったもんだけど。
決断、個性、自由意思。そういったものが守られていさえすれば僕は大抵の困難は歓迎したいし、幾分かの不条理も容認したいし、極稀に破滅に向かうことも辞さない。嘘だけど。計画なんて立てなくても瞬間をコントロール出来さえすれば、地球の裏側にだって行けてしまう。
願わくは先に存在する未来も非線形なものであることを。