Twitterの先にある「いまここにいること」の価値
誰の話だったか忘れたが、靴磨きがどの株を買えばいいかという話題を持ち出したのを見て、バブル崩壊を予期して市場から手を引いた、という逸話がある。
Twitterの話だ。かなり大衆化が進んだと思う。もうそろそろいいかな、という感じがする。radikoを試しに聞いてみたらいきなりTwitterの話題だし、ドラマにも取り上げられ、「ジャンプ」にも登場するようになり、ろくに使ったこともない人が利用方法を議論している。Twitterビジネス?頑張って下さい。
それでも僕がTLを去れないのはそこで形成された他人とのネットワークに価値を見いだしているからであり、そこには好きな人たちがたくさんいるからなんだけど、残念ながらTwitterそのものは僕にとって既に魅力的なツールではなくなってしまった。みんなやってることをやって何が面白いんだ(本音)。
後付けを百も承知で言ってしまえば、Twitterは新しい概念でも何でもなく、ある意味で「コンテンツの可視化」が極限に達したものではないかと思う。
可視化の極限。
コンテンツとは要するに、人の頭の中から出て来たなにものか、である。
かつて、コンテンツを具現化するためには大きなハードルがいくつも存在していた。自らの脳内に存在するコンテンツ(=ミーム)を広く世に問うためには発言力がなければならず、電波に乗らなければならず、その地位を獲得できる層はまさに選ばれた人間で構成されていた。
そして今更ながら、陳腐ではあるが、先の議論のために僕はここでそれらのハードルを壊した物のひとつとしてインターネットを取り上げる。ネット上に書いた日記やCGI掲示板に始まるテキストベースの思考の流出、それに次ぐ(主として技術の発達に伴う)リッチなコンテンツの増加、まぁこのへんは大してものを知らない僕が書く迄もないだろうから省略する。
そして脳の中のミームが流出してコンテンツとなる方向性の中、ひとつの概念を突き詰めたものが、Twitterなど*1の志向した、「極端に短い思考の断片の集合体」をそれらしく見せる・まとめる・アレンジするフィールドではないかと考える。
140字という濃縮されたコンテンツ*2をこれ以上断片化することは不可能の領域に近いし、まぁ実際の所、可能ではあるが意味はない(もう名前も忘れた*3が、140字ではなく"14字"制限のサービスが一時期出たが、その本質は何らTwitterと違えるところがなかった)。
コンテンツがこれ以上断片化できないならばどうするか。個人的にはさらに"正当"な方向性を突き詰めて、コンテンツが構成される脳内の過程・言語化される前の要素、といった部分を狙うと面白いと思う。言葉に表せない人間の直感とか、ふとした瞬間の感情とか、測定観測不可能な、それでいて確かに存在するなにか。そういったレベルまでフォーカスを絞って行くと、すげー面白い世界になると思う。...のだけど、こいつは少なくとも今の時点ではSF以外の何者でもない。
そうして夢想を諦めた僕が最近なんとなーく「これ面白いなぁ」と思っているいろいろなもの、それらをひとくくりに表現する言葉が見つかった。
「いまここにいること」、というフレーズがそれだ。
いまあなたがそこにいること、いま僕がここにいること。未だ決して崩れることのない大前提、どんなに見える世界が広がろうと、ひとりひとりはせいぜい2mそこそこの人間サイズの存在であり、各自の認識の枠はどう足掻いても人一人のアタマから出ることはないという限界。
逆説的ではあるが、人間の存在をどこまでも希薄にすることの可能な潮流の中、そういったものの持つ「価値」が浮き彫りになる。
ちょっと脇道に逸れると、「いまここにいること」の反対は「ここにいないこと」「ここではないどこか」という概念で、その最たる物はネットゲームであると思う。ラグナロクオンラインとかFF11とかのアレだ。ネットゲームでは、いま自分自身がどこに居ようと、全く同じ世界へとアクセスできる。現実の世界からほぼ完全に切り離された世界にログインする。仮想世界の中における自身の価値を高めるために存在しており、いま現実のユーザーがどこにいるか、という情報が全く考慮されない。
本題に戻る。「いまここにいること」というフレーズは、人間一人にフォーカスを当てるものである。
回線が強化されデバイスが発達し、視覚聴覚嗅覚触覚もろもろの神経と電気回路との距離が徐々に縮まり*4「どこにいても同じ」という志向が強くなればなるほど、「いまそこにいること」に価値が生まれるようになる。
なぜならば「どこにいても同じ」であればあるほど、どうしても、絶対的に、物理的に理論的に「そこにいなければできないこと」が特別なものとなって行き、世界のフラット化が進めば進むほど「いまここにいること」に対する価値が高まると考えるからだ(このへんはもっと議論したいところ)。
「いまここにいること」というフレーズを抽出するに至った、僕が「おもろいなぁ」と感じたいくつかのサービスは、「まちつく」などの位置ゲーであり、「Foursquare」であり「BrightKite」である。(まだあったような気がする。思い出したらまた追加するかも知れない)これらのサービスはその人個人にフォーカスを当てており、今どこにいるか、その人がどんな人間であるか、そういったファジーな情報をなんとかフォーマットに乗せようとしている面白い試みであるように、僕には見えたからだ。
どんなに戯言を吐こうが、どんなに虚勢を張ろうが、どんなに理論で武装しようが、結局人間はどうしようもなく認識の枠に閉じ込められている。
だったらそれを逆に価値にする。これは新しい概念でも何でもない。購入履歴を分析して個人ユーザーに特化したオススメ商品をレコメンド、なんて昔からある。新しくもないものを新しい新しいと騒ぎ立てるのは、その方面に無知な人を乗せるためには有効ではあるが*5、お世辞にも本質的であるとは言えない。
もう一度言うが新しい考え方でも何でもない。けれど、無限の可能性があるように見える*6世の中を生きるに当たって、僕にとっては腑に落ちた切り口だったので、こうしてどうにか言語化を試みた次第だ。なにぶん時間がない中、ダーッと勢いで書いてしまったので、記事の反応などを見てまた考えを深める機会を持てたらいいなと思う。
さていつものように戯言をまとめる。
妄想をふくらませて広く見てみると、Twitterの大流行は、「コンテンツのミクロ化」を極限まで推し進めたことによる時代の徒花のように見える。その命がつきる瞬間にひときわ大きく輝く、最後の灯火のように思える。バブルが崩壊する直前のお祭り騒ぎに感じる。
このTwitterの波に乗るのも達観するのもガン無視するのもその人の自由で、僕はまぁ、結構初期から使ってるんだけどなー、と、小学生の時から目を付けていた女の子が成人して美人になってそらみたことかと、周りにちやほやされている様子がなんとなく気にくわないようなそんな感覚もあるけれど、まぁ、この流れを"おもしろい"と感じている。最初に言ったようにTwitterそのものに魅力は感じなくなってしまったが。
この先に何があるのか分からないし、ひょっとすると何もないのかも知れないが、僕はTwitterの先を知りたいと思う。おもしろいことを知りたいと思える僕は、まだ生きていると実感できる。