思考を二級品に貶める局所最適解の害悪
ある問題があったとき、個別の問題そのものは絶対的に唯一で、複製不可能で再現不可能な、正しく語ることの出来ない不確実な存在だ。
それにもかかわらず、どうも世の中は耳障りの良い二級品の「局所最適解」で満足されている概念で溢れかえっているように思える。
最も愚かな思考停止はそもそも考えようとしないことだが、最も危険な思考停止は少し考えた後に見えてくる局所最適解に辿り着いて満足し、それ以上思考を深めることがない、というものだ。
その解を見つけたときは局所最適解であるという意識はないことがほとんどで、これで良いと納得してしまう。そこで解決したつもりになっていて、より厄介な状況にぶち当たった後で「全然分かってなかった。あのときもっと考えとくべきだった」と反省することが多々あるのだが、よく見てみると、陥りやすい局所最適解には幾つかのパターンがあることに気が付いた。
そのパターンと、なぜその局所最適解が悪影響をもたらすのかという点、そしてどうすればそれらの悪影響を回避できると(僕が)考えているか、を書く。
こんてんつ
- 「ケースバイケース」という判断基準の害悪
- 「バランスが大事」というスタンスの害悪
- 「誰でも同じ」という一般化の害悪
- 「自分に合った○○」という丸投げの害悪
- 「現状はダメだ」という理想主義の害悪
「ケースバイケース」という判断基準の害悪
これは非常に便利な言葉で、汎用的に使える。そして一般的に正しいように見える言葉でもある。
「ケースバイケース」の何が悪いのか?確かに、マニュアル通りの対応しかできない人よりも、臨機応変に行動を変えられる人の方がトータルのパフォーマンスが高いことも事実だ。
しかし、行動ベースではなく、判断/行動基準が問題となっている時にこの言葉を使うことは、危険である。なぜなら、「ケースバイケース」という基準を示すことによって、達観した視点を持っているように"見せかける"ことが出来るからだ。
「ケースバイケースで判断する」と言うだけでは、臨機応変な判断基準を示しているようでいて、実際は何も決定しないことに同義である。
そこには条件分岐の事例が欠落している。
つまり、不完全な「ケースバイケース」の使い方においては、「入力がN個あって、出力は1個じゃなくてM個あるんだよ」と言っているに過ぎない。リアルな条件分岐の判断基準がブラックボックス化されていて、外側から窺い知ることは出来ない。
一方、あるべき「ケースバイケース」は、条件分岐すなわち「入力の条件がこうなっているときはこの出力」と言う決まり事を可能な限り明確にしようとする。
条件分岐がブラックボックス化されているか否かを見抜くようにすれば、"見せかけ"であるか否の判別はさほど困難でない。
回避するには
この汎用的でありふれてそれでも価値を減じることのない僕らのフレーズを効果的に使うためには、「それはケースバイケースだね」と言った後に、いくつかの具体例を示すことだと思う。
もしこう来たらどうする?別の可能性が持ち上がったらどう対応する?他の危険性は?別の対応策は?...こうして具体的な考えを突き詰めていれば、「それは場合によるね」で終わりようがない。
ここで終わってしまうということは、何のことはない、残念ながらそもそもイメージトレーニングが甘かった、というだけの話だ。
「バランスが大事」というスタンスの害悪
これも本当によく見かける不完全な局所最適解で、僕自身、よくここで止まってしまう。自分で使った後に「あーあ、下らんこと言ったな」と自己嫌悪に陥る。
「バランスが大事」または「ほどほどが一番」という、極端の反対、マイルドなそこそこを好むスタンス。これもまた、ただの言葉では現実世界において全く意味を持たない。
ひとつ確認しておきたいのは、そもそも世の中にバランスが大事ではないものごとなど存在しない、という点。
なんであれ極端が解となることはあり得ない。必ず、0か1ではなく微妙な最適バランスがあって、そこを探す過程こそがいわば本命、一番難しい作業である。
「バランスが大事」というスタンスは(少なくとも僕の考えでは)明らかな事実を言っているだけで、新しい情報量はゼロだ。その上にどのような過程でバランスを模索して、何をゴールとして、いかにしてあるべきバランスに到達するか、すなわち、過程部分に議論と思考と行動を集中すべきなのだ。
回避するには
これまた「ケースバイケース」の事例と同じく、バランスが大事、という姿勢を示した後にいくつかの具体例を続ける事だと思う。
僕の狭い観測範囲によると、バランスを取ることを許されない固定化した状況に長く居た人や、アンバランスを「良し」とする文化に浸ってきた人が、思考の自由に触れた後に「バランスが大事」という答えに辿り着いて満足してしまうことが多いように思う。
"バランス"の関わる話はいろんな人の価値観がモロに出たりするので、僕と同じ問題に直面した他人がどこにプライオリティを置いて何を目指してバランスを取ろうとしたのか、という貴重な情報を得ることが出来る。要は、抽象論で止まらなければそれなりに収穫はあるわけだ。
局所最適解を経由して個々人の真実に近づけるので、僕はわりと好きだったりする。
(欲を言えば、ここで自分のバランスの取り方を相手にうまく伝えられるスキルが欲しい...)
「誰でも同じ」という一般化の害悪
天が下に新しきものなし。
事実として、たいがいの事は先に誰かが経験しているものだし、前例を知ることで先人と同じ轍を踏まずに済んだり、より広い視野で物事を捉えるきっかけを与えることが出来る。一般化/抽象化によるメリットである。
しかし、「君の直面している事象はまったく特別ではなく、誰でも経験するよくある事である」という事実を突きつけることで、「だからどうした?いまは自分の話をしてるんだ」と、苛立ちを募らせてしまう。いや、別に気分を悪くする程度ならまだいいのだけど、先へ進むモチベーション自体を失わせる危険がある。
現時点の自分の視点が絶対であるかのように語ることほど馬鹿らしいことはないし、ましてや自分の認識を基準とし、「上の世界」に未だ気付かずにいる他者を見下すことは唾棄すべき愚行だ。
半端な優秀さを蝕むM2病の症状と、それにかこつけて吐き出される悶々とした何か - ミームの死骸を待ちながら
他人との視野の差異を許容できなきゃ一人で生きてろ。
比較的人生経験の豊富な人が、比較的人生経験の浅い人に対して語る言葉の中に「それは誰でも同じ」というニュアンスを込めることがある。
どんな文脈でも適切な具体例が出せる語り手は個人的に尊敬するのだが、あまりポンポン例を出しすぎるのも考え物で「それはわかるけど、今は自分の話をしたいんだけどな...」という"親父に説教される中学生モード"に入られてしまうと元も子もない。
悪意を持って言ってるわけじゃないなら、受け入れやすい雰囲気を作った上で伝える、というのもこみゅにけーしょんスキルの一つ、かもしれない。僕は偉そうなこと言えないけどな。
回避するには
僕自身、部活をバリバリやってきたり、バイト漬けの学生生活を送ったような同世代と比べて*1、下世代とうまく付き合う術を十分学んでいるとは言えないから、たまーに後輩や年下が問題に直面している場面を目撃したり、アドバイスを求められたりすると、この不適切な一般化をやってしまう。
失敗しがちな人間として反省を込めつつ、一般化をされた側の経験もある立場として考えてみると、まず、相手はその時初めての経験をしているわけだからその感情を尊重することが必要かと思う。
...と、ここまで書いた時点でもっと適切な一節を思い出したので引用しておく。
たいていの場合、人は外からの助言など必要ない。相手は本当に心の中を打ち明けることができさえすれば、自分の問題を自分なりに整理し、その過程で解決策も明確になってくる。
また一方で、他の人の助言や協力が必要な場合もある。鍵になるのは、相手の利益を考え、感情移入の傾聴をし、相手の立場で問題を理解し、その解決策を一緒に探すことである。玉ねぎの皮を一枚一枚剥くように、徐々に、柔らかい内なる核に近づいていくのである。7つの習慣, p.375
毒は、場合によっては薬として使える。「特別な経験を薄める」効果を逆に利用し、身の上に降りかかったイベントを重苦しく考えすぎているときに「そんなの誰でもあることだよ」と一声かけるだけで、だいぶ気持ちが楽になる。それで何度救われたことか。
「自分に合った○○」という丸投げの害悪
これまた一見正しい。
自分に合った投資プランを考えましょうとか、自分に合った仕事に就きなさいとか、自分に合った人と付き合うべきだとか...世に溢れている正論だ。まぁ確かにざっくり言って、オーダーメイドの方がパッケージより質が良いし、しっくり馴染むに決まってる。
確立された手法やコピー可能な事例といった"パッケージ品"が有用な場面は後述するとして、オーダーメイドが害悪となり得る危険性について少し語りたい。
まとめてざっくり言ってしまえば、世の中には「パッケージ化/ROM化へ向かう圧力」と「オリジナル/オーダーメイド礼賛文化」が同時に存在しているのである。そしてそれらはあるひとつの人間心理のもと、心の中に植え付けられている。
僕は、世の中にはオーダーメイド礼賛の文化が存在すると思っている。自分オリジナルのもの、特別なもの、フォーカスを絞ったものこそが素晴らしい、本当に価値がある、とする文化だ。ちょっと意識して周りを見てみると良い。良いこと言ってそうに見えても、オーダーメイドを褒めちぎって結論としている場合が案外あるから。
そのありきたりな結論に辿り着いた(あるいは文章や言葉を介して結論を与えられた)後に「ああなるほど、自分に合っていないと駄目なんだなぁ」などとわかった気になって、そこで満足してしまう。これでは実は何も得るものがない。
この悲劇が何に基づくものかと言えば、
自分に合った○○をゼロから組み立てる(時間/思考)コストを完全に無視している点
、である。
何であれ"ゼロから作る"という作業には、ものすごく手間がかかるものなのだ。
なんでもいいんだけど、僕の苦手なファッションを例として挙げてみてもだな。オシャレな人ってのは「自分に似合う服を着ればいいじゃん」などと軽く言う*2。いやそれがわかんねぇんだよ!!!(逆ギレ
いまざっと分解するだけでも、"自分に合う"ものを具体化するためには
- 前提や文脈を知らなければならない。
- 「合う」の定義を知らなければならない
- 自分が何を好むのか自覚していなければならない
これだけある。それなりの回答を見つけ出すのは簡単なことではない。
パッケージ品に溢れた世界で自分オリジナルの世界を構築することの難しさ/大変さは、想像を絶するものだと思う。オリジナルに辿り着くコストを無視して「自分に合った○○を見つけましょう」などと投げ捨てて結論としてしまう態度は、不誠実/不親切と言わざるを得ない。
逆に言うと、だからこそ僕は何であれ独自の世界感を持ってる人を尊敬するのだけど。
回避するには
とは言うものの、僕の考えでは「自分に合った」という切り口は実はかなり良い線まで行っていて、その後の具体的な思考を詰める手間を惜しまず、足と手を動かして経験を重ねる労を厭わなければ、本当の意味で「自分に合ったもの」すなわち個人的真実に突き当たる事がある。
その一方で、それほどまでコストをかけられない/価値を見出していない問題や、思考を深めるだけの材料を未だ持っていない問題に直面している時は、"パッケージ品"を利用すると良い。
前者は以下のフレーズが主張しようとすることとほとんど同じだ。
不要なフィールドでまで戦わなくて良い。相手の挑発をことごとく買ってやる必要はない。全ての問題に立ち向かわなくて良い。捨てるべきものは捨ててやれ。肩の荷を下ろして、自分の持っているもの、本当に取り組むべき問題に目を向けてやれば、それでいい。当事者でないことは必ずしも罪ではない。あなたも私もROM上等、世界はROMでできている。
世界はROMで出来ている。 - ミームの死骸を待ちながら
そして後者「思考を深めるだけの材料を未だ持っていない」状態とは、今までの積み重ねが使えない"初めて"のことを指している。"初"体験に対し、過去の経験から「自分なりの解答」を見つけ出すことは残念ながら土台無理な話だ。
仮説として使う分には悪くないが、試行錯誤なしに解答にたどり着けると思わない方が良い。というのも、社会人になって仕事をやってると、まったく"初めて"のことばかりで、経験の中から何か使えるものを探すよりも、外部にある「既存の解答/先人の知恵」を求めた方が圧倒的に早いのだ。
僕は自由意志や決定や裁量を重視する価値観の下に生きている...つもりであるが、"初めて"の環境下において、自分の価値観・判断を過度に信頼することは、それはそれで問題を引き起こすのだろう。そこで、パッケージが重宝されるわけだ。
「現状はダメだ」という理想主義の害悪
「理想の○○」は「自分に合った○○」よりも現実味のないものだ。というよりも、「理想の○○」は現実には存在し得ない。
法則も人間も組織も社会もシステムも、完璧な状態を理想として語ることは出来ても、実際はどこかに綻び/矛盾/誤りを内包している。不完全な世界。
そうした前提の下に「何かの批判点をあげつらう」ことは、お手軽かつそれなりに気持ちよくなれる特効薬だ。仲間と一体感を得るための効果的な方法にすらなり得る。
しかし生産的とは言えない。
まぁ生産的な否かであらゆる行動をばっさり切ってしまうつもりはサラサラないが、なんでも悪い点をあげつらうことは簡単で、良い点を見つける方がよっぽど難しいものなのだ。他人をせせら笑うのは誰でも出来る。問題は他人を見て自分がどうするか、という所に集約されるべきである。
「簡単な行動/思考に流れる」という性質は、局所最適解に吸い込まれて動こうとしない人間の性の本質を成すものであり、その意味でこれは最も局所最適解らしい局所最適解である、とも言える。
回避するには
理想の人間に見えても必ず欠点がある。理想の環境だと思っても必ずズレが生じる。まずはその覚悟を持っておくことだ。これが大前提。とりあえず変動幅...予測値からどれだけ下がる可能性があるかな、という幅を見込んでおきさえすれば、ショックは少ない。
理想というのは考えているとテンション上がるし楽しくなってくるものなので、ついつい現実もそのままの勢いで具体化するんじゃねーの!?という期待を持ってしまう。そしてそこに辿り着かないと、ガックリ来てしまう*3。
しかしここまで徹底的に完膚無きまでに計画通りにならないと、逆に面白くなってくる。もういい、計画なんて捨てろ。どうせ思った通りにならない。そんでもって、思い通りにならない方が、後から見て面白い。
「計画は無駄」ただひとつ大学新入生の自分に叩き込みたいこと - ミームの死骸を待ちながら
現状が理想や想像と違う場合にはリセットしてしまえ、とする思考がある。現状が駄目だからリセットして最初から別の道を選んでみよう、とする行動方針だ。選択をやり直す。人間関係を切り捨てる。僕はこの思考をスーファミのリセットボタンから学んだ(学ぶな)。
しかし最近は、リセット思考はあまりよろしくないな、と思う。実際は現実に直面してみないとわからないものだし、"詰み"に思えても案外道は先に続いていたりして、どうもリアルな生活というものはTVゲームと違って、ゲームオーバーになった後に別のゲームが開始されるようである。どうしようもない現実に直面したとき、どう反応するか。それが、リアルな価値を決定するに違いないのだろう。
いじょ。
人は安易な局所最適解に捕らわれやすい。そういう風にできている。
ここまで挙げた局所最適解は、基本的に正しいからこそ厄介だ。
考え方として間違ってはいない。間違ってはいないものの、"結論"と見なしてしまうと"不足している"...そんな微妙な概念たちである。一般論・極論・虚言を弄した戯言。すべて不確実を不確実のまま許容できない人間の創り出した局所最適解だ。
別に僕も、いつでもどこでも考え尽くさないと気が済まない人間というわけでもない。だからてきとーに話すときはてきとーに話す。これらの局所最適解は中途半端に正しく、それ故に、てきとーに話を合わせたいときは便利だ。
また、局所最適解の存在をフィルターとして使うことも出来る。僕は文章*4を読むとき、リズムが心地よいと内容にかかわらず引き込まれてしまうんだけど、それは別として、まず結論が当たり障りのないものに収まっていないかを気にする。
結論部分に前述の"局所最適解"と見られる記述がある場合、どうせ無難な内容しか書かれていまい。知っておくべき情報がなければ、ざっと目を通して終わり、にすることが多い。
ただ、中途半端な達観や悟りは、未熟さの裏返しの強みとして存在する"不確実性"を薄めてしまう。
結局の所、僕は「人間は誰であろうとも自前の意識/認識/記憶の枠から出ることは不可能」という(僕にとっての)真実を、言葉を変えながら繰り返しているようであるが、かといってそれに絶望しているわけでもない。
人間はものごとの正しさを追い求めている風を装って、その実、自己の正当化、優越感、存在証明、他者からの受容や評価を切実に探し求めているケースがかなりの割合で存在する。この事実を他人から隠し、自分でも気付いてないふりをすると、悲劇が起こる。
個別具体的な問題に対しては、個別具体的な解答によってのみ、出口を見出すことが可能である。
局所最適解に留まらず個別具体的な解答を追い求めることを意識していると、「答えは人の数だけある」という言葉の深さ/存在感が、今までとは違った意味を持って浮き上がって来るような気がする。