世界はROMで出来ている。
僕がここで語りかけるのは、このブログを読んでいるが僕にそのことについて語ろうとはしない...ただ読んでいるだけである研究室のアイツであり、とある血縁であり、故郷にいた頃からの友人であり、かつて絶縁したあなたであり、一時だけ関わったあの人であり、そして、名も知らぬ読者のひとりであるかもしれず、あるいはそれが故に、誰に対するものでもない独白とも言える。
世界はROMで出来ている。
うすうす感じていたこの感覚を具体的な言葉で肉付けするきっかけとなったのは、後輩の一人からもらったメールだった。彼は僕のTwitterを見ているというのだが、アカウントを取ってFollowするのではなく、ブックマークに入れてちょくちょく閲覧しているらしい。確かにプロテクトにしていないからそういった見方も可能だ。Twitterの使い方は自由だが、僕はそうした使い方があるものかと少々驚いた。
それに加えて、先月自分の知名度が思っていたより高いことに気づかされたこともある。
ブログで内定先イベントの告知を行ったところ予想以上に人数が集まり*1、定員の2,3倍に達したため、予定を変更して二回開催することになり、しかも生まれて初めてサインを求められるという体験をした。
いやいや僕は何者でもありませんがな、と言いつつも、嬉しくないと言えば嘘になる。
このブログは純粋なアクセス数なら平常時で1000pv/日、ホッテントリに上がるとだいたい10-20倍になるが、果たしてコメントを通じて僕と対話してくれる人やSBMに「見た」記録を残す人は、いったい全体読者の何%なのか。
僕の仮説をここで述べるならば、おそらくその割合は極めて低い。あまりに非ROM層の割合が小さいため、「すべてがROMである」と表現した方がむしろ実際に近いはずだ。そして、ネットに限らないその他の物事についても、分布の大多数を占めるROM...すなわち見えない傍観者が、それぞれの世界を満たしているのではないかと思うのだ。
こんてんつ
- 世界はROMで出来ている。
- 「当事者」と「ROM」をかき混ぜる
- 「ROMの可視化」と「ハードルを下げる」こと
- それでも僕らがROMであるべき理由
世界はROMで出来ている。
ROM - 傍観者は、非傍観者すなわち当事者に対して決定的な強みを持っている。それは「相手は自分に触れることは出来ない」という、防御の絶対性だ。そしてそれでいて、いつでも目に見える攻撃者として*2当事者に牙をむくことが出来る。
たまに「情報収集目的で(Twitterを/mixiを)使っている」という人がいるが、見られている側からすれば一方的に搾取されているみたいでいい気持ちがしないし、正直に言えば僕自身も、受信するだけの人間を同じフィールドに立つ存在として考えていない。
だからと言って僕がROMに対して否定的な考えを持っているわけではない、少なくとも理性的には否定的であることを抑えよう、と考えている。これには少し説明が必要だろう。以下説明を試みるが、一言で言えば
- 「ROMの存在は必然であり、僕はROMを可視化することに興味がある」
となろうか。
「当事者」と「ROM」をかき混ぜる
確かに、ROMでいることはある意味でもったいない、とは思う。
情報を発信することで効率的に情報が集まってくるから、という利己的な理由もあるが、それより大きな理由に「くだらないことだと思っても、体裁を整えて広く問うてみると、分布の大多数を占めるROM、傍観者、門外漢、初心者たちにとって、勉強になる内容が含まれている」ことが多々あるから、という経験則がある。
たとえば、この夏TeXについてのエントリ を書いたところかなりの反響があった。その記事を書いた少し後にid:sotarok & id:blanc_et_noir(通称黒猫)と飲んだ時、黒猫さんは
- 「うちのラボではTexを使うのが当たり前だったので、あんなにブクマされるとは思わなかった」
という旨のことを感想として述べていた*3。彼女は、僕と同じM2として語るのが申し訳なくなるほど優秀*4ということもあるけど、ともかく、黒猫さんにとってそれは「当たり前」だった。
しかし、Texというツール(?)の存在を知りつつ局所最適解(たとえばMS Word)に落ち着いている人がたくさんいることを僕は知っていた。そして、自分の経験を元にそれらの層に響く記事を書けるのではないかと考えた。
ある人には「当たり前」のことが、多くの人にとってはそうではない。ここに認識のギャップがある。
「当たり前に行っている当事者」と「ROM」...それらは普段交わることはなく、一種の安定状態に達している。そして、僕はその安定状態をひっかきまわしてやることに喜びを感じる気質であるらしい。
「ROMの可視化」と「ハードルを下げる」こと
繰り返しになるが、僕が(広義の)ROMに関して興味があるのは、見えないROM層を可視化すること。そして、そのために「ハードルを下げること」だ。この興味は僕の行動の結構な割合を理由付けることができる。上でTex記事を一つの例としてあげたが、他の具体例については、今後意識的に書いてみようと思う。
さて、今まではネットにおけるROMの話をしてきたが、僕はネットに限らず「興味はあるけど、でも行動を起こさない(あるいは「起こせない」)人」=「広義のROM層」が、かなりの人数で存在していることを知っている。なぜなら多くの世界において、僕自身がそのタイプに他ならないからだ。
ほとんどの物事において僕は「できない側」に立っている。速く走れない。絵も描けない。歌もうまくない。蕩々と演説することができないし、対面でもひどく話下手だ。お世辞にも優秀な学生とは言えないし、実用に足るレベルのプログラムを書くことが出来ない。そしてある世界における無能力は、どうしようもなく、ただの傍観者、搾取者、ROMへの傾倒を促す。
そういう人間だと自覚しているから、「ハードルを下げる」ために何が出来るか?ということについて、僕はよく考える。
なぜなら、自分自身であろうと他人であろうと、ROMから脱却するためには、活性化エネルギーである「ハードル」の高さを考える必要があるからだ。そして、行動原理の大部分が「面倒か否か」で動いている僕の視点*5で考えると、一つ一つの変化の「ハードル」の高さは死活問題だ。
現状を変えようとするならば、一つ一つの「変化」のハードルを下げることを考えなければならない。
勝負で絶対に負けない秘訣は、勝負をしないことだ。勝負に先立って、真正面からぶつかって打ち勝つための能力を有していることは稀だ。だから準備をする。十分な準備をしておけば、あとは自動的に結果が出力される。状況はあるべき結論へと転がり落ちるしかない。
自分の認識を変えればいいだけで済むこともあれば、他人を変化させる必要があることもある。どちらにしろ「その変化には何が必要か」を考えて、そのための状況を整える。準備してやる。ハードルを、下げる。これらを自分自身の手で行っているというコントロール感が、当事者になったという証左になる。
それでも「当事者」が善であり「ROM」が悪という単純な二元論では捕らえきれない所に問題の複雑さがあり、同時に、世界への関わり方の本質が見え隠れしている、と僕は考える。
それでも僕らがROMであるべき理由
朝起きてから夜寝るまで、僕らは傍観者に囲まれて生きている。そして同時に、僕ら自身もほとんどの時間を傍観者として過ごしている。
たとえば適切な例かどうかは微妙だが、僕は珈琲が好きで、ちょっとおいしく飲みたいからインスタントを卒業して豆から挽いて淹れてみたり、いろんな豆を飲み比べてみたり、作業場としてスタバに陣取ることがよくある。ただの珈琲好きといえばそうだ。
ここで視点を変えてみる。珈琲の世界に深く踏み入れている人から見れば、この時の僕は傍観者だ。本質を理解せずして上澄みだけ搾取する、おいしいとこ取りのROMに過ぎない。
そしてこれは、どうしようもないことでもある。
情報だけが恐ろしい速度で流入してくる世界に生きていると、すべての物事に関わらなければならないという義務感に駆られることがある。完璧主義、真面目、心配性。自分のことをそういった形容詞で表せる人は、とくにこの罠にかかりやすい。
僕自身も「なるべく多くの選択肢を目の前に並べて、自分の手で選択したい」と思う人間であるため、可能な限り手を広げようとする傾向がある。
しかしここで、時間と空間の中での個人の有限性、というものが効いてくる。小難しく言うのをやめれば「時間は全人類1日24時間」であり「誰しも当事者として経験することができるのは人間一人の等身大が限界」という、ごく当たり前のことに過ぎない。以前書いた記事から似たような主張を引用する。
ポジティブシンキング的な意味ではもちろん「何でもできる」と思うことは大切なのだけど、可能性が無限であることと無限の物事を達成可能であることは、決して等価ではない。
戦略のない人間は"失敗"の自覚がないまま幸福感に包まれて死ぬ - ミームの死骸を待ちながら
何かをするということはそれ以外のすべてをしないことに同義であって、いくら可能性が無限に広がっていようが実現される現実は常に一つだ。
話の拡張をストップしてネットの話に戻れば、ROMに徹している人がROMであることを善しとするのは、ROMという言葉を使う人々とは重視する価値観が異なっているからだ*6。
小さく追記しておくと、悪者みたいに扱ってしまった冒頭の後輩にしたって、彼が僕をTwitterでROMっていようが、実は大して問題にしていない。僕は彼の価値観を(部分的ではあるが)知っているからだ。
彼は研究者である。学部生ながらきちんとした問題意識を持ち、具体的な研究内容を聞いてみても驚くほど詳しく語れる知識があるし、何日も泊まり込みで実験する根性も持ち合わせている。あれほど強い決意を以て研究に望む人はかなりレアだと思っていて、その意味で、尊敬していさえする。だから別に、ネット弁慶の僕と同じような価値観でもってネットに付き合え!とは押しつけるべきではないし、むしろそれは、僕が最も嫌悪する行動の一つですらある。
つまりはこういうことだ。
不要なフィールドでまで戦わなくて良い。相手の挑発をことごとく買ってやる必要はない。全ての問題に立ち向かわなくて良い。捨てるべきものは捨ててやれ。肩の荷を下ろして、自分の持っているもの、本当に取り組むべき問題に目を向けてやれば、それでいい。当事者でないことは必ずしも罪ではない。あなたも私もROM上等、世界はROMでできている。
この記事は何を言いたいのか?...別に何が言いたいわけでもない。最初に挙げたROM達に変わって欲しいわけでもなし、自分の中に何らかの焦燥感があるわけでもなしのstaticな記事であり、このままでいいと思っている。僕が最初に「誰に対するものでもない独白」と銘打った理由はそんな所だ。
...せっかくの年末、久しぶりに答えのない、答える必要のないものごとを、つらつらと考えたっていいじゃないか。好きなんだから。