24歳の僕が掛け値なしの真実だと考える、人間と世の中に関するふたつの"核"(はてな最後の記事)(たぶん)
"ミームの死骸を待ちながら" が、第一期ライブドアブログ奨学生に選定された。
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今月から1年間、月々X万円*1が給付され、返済の必要はない。既に学生支援機構さんに200万ほど借金があるので、さらに借金を増やす必要がないのはありがたい。
そして、ライブドアブログへの移設が受給条件のひとつであるため、ブログ奨学金の札束でほっぺた叩かれt理念に強く共感した僕はこの記事を最後にはてなブログの更新を終える予定である。今までお世話になりました。逃げ出す僕を刺さないでください。
さて、これを一つの節目として、いま時点での明確なLogを残したいと考え、大仰なタイトルをぶち上げてみたが、僕の信念なるものは既に要所要所でブログ記事に漏れ出していたらしい、、というわけで過去記事を引用しながらの展開となる。
まぁ、僕は何をどう考えているのかという誰の得にもならないオレオレテーマの元、可能な限り「客観的に主観をまとめ」ようと試みた本記事は、その無意味さと戯言加減において、赤裸々な*2死骸の最期に相応しいと言えるかもしれない。
こんてんつ
- 人間は誰であろうとも自前の意識/認識/記憶の枠から出ることは不可能
- それが故に(1): 記憶はただの記録にすぎない
- それが故に(2): 世界はROMでできている
- 世の中の大抵の物事はグレーゾーンに着地する
- それが故に(3): 自覚された目的と哲学が全てを決める
人間は誰であろうとも自前の意識/認識/記憶の枠から出ることは不可能
人間は各々独自の認識に基づいて生きており、他人の認識をトレースすることは不可能だ。赤子も大人も男も女も右も左も、比喩的な意味ではなく、見る世界そのものが違っている。
どのような道を辿って今ここに立っているのか。何に興味を持っているのか。何を重要視し、何を目的としているのか。何に怯えて何を切望し、何を糧に日々を生きているのか。
この積み重ねは年を重ねれば重ねるほど差が開いていくもので、実におもしろい。
ところでいきなり話が逸れて申し訳ないなんて思わないどころかこれがスタイルだ文句あっか的な態度で語るけど、僕は、人はその年齢、世代によって知っている/知ることのできる認識レベルというのは、ある程度決まってくると考えている*3。そういえば僕の好きなid:nakamurabashiさんのブログでわりと懐かしい話題が持ち上がっていた。元ネタは結構前の話なので何故今のタイミングで反応したのかは謎だが、22歳の自分に教えてあげる云々、というヤツだ。
僕も2年前に(このときはリアルで22歳なわけだが)感想記事のようなものを書いている。こういった類の(他人の書いた)記事は、いつ見てもおもしろい。"年齢"という万人に共通の尺度と個人間の差異が交差するからだと思う。
閑話休題。
人は人、オレはオレというある種の"悟り"があれば、誰かの「ありえない」行動や考えに目くじら立ててもどうしようもない(名も知らぬ赤の他人ならなおさらだ)と思えるし、周りがなんと言おうがまぁ自分はこう考える、というマイペースを貫く理由にもなる*4。
他人と自分を異なるものとして区別し、その前提の上で必要に応じてコミュニケーションを図るもよし、無関係と受け流すもよし。防御にも攻撃にも使える万能の思考基盤であるわけだ。
もうひとつ。自分自身の認識がそれ以上広がらないと言うことは、人間一人、等身大の存在としての限界が誰にとっても存在するという事実にも繋がる。同時に複数箇所に存在することも、1日を24時間以上に引き延ばすこともできない。
可能性が無限であることと無限の物事を達成可能であることは、決して等価ではない。
戦略のない人間は"失敗"の自覚がないまま幸福感に包まれて死ぬ - ミームの死骸を待ちながら
何かをするということはそれ以外のすべてをしないことに同義であって、いくら可能性が無限に広がっていようが実現される現実は常に一つだ。
地道に地べたを這っていくしかあるまい。
「人それぞれ」...いざ文字にして書いてみると「そんなの当然じゃん」レベルの話なんだが、なかなかどうして、この大前提がよく無視される。ふと気付くと、人に理解されることが当たり前のように考えていたり、他人も自分と同じように考えているはずだという無意識の思い込みが、思考の片隅に居座っている。
そういうわけで(?)、「人間は誰であろうとも自前の意識/認識/記憶の枠から出ることは不可能」という理解は、個々人の自意識を保つための最終防衛ラインであり、当然至極の大前提として据え置くべき真実だと(少なくとも今の僕は)思っている。
記憶はただの記録にすぎない
先に、他人との間に存在する意識/認識/記憶の不一致を取り上げた。ところが、こと記憶に関して(ともすると意識や認識まで)は、同じ個人の中にも永続性があるとは限らない。
というか僕は記憶を信頼していない。僕は幼少期にウイルス性の髄膜炎だとかで脳が炎症を起こし記憶喪失になった経験があったりもして、わりかしこの辺のテーマについては興味を持って調べてきた。
記憶は所詮"揮発性のメモリ"に過ぎないと思っている。
ロシアだかどっかの話で、生まれてから見聞きしたものを寸分違わず記憶してしまい、忘れることができないという能力の持ち主がいたらしい。彼の人生の結末は忘れたが(ひょっとすると今も元気に生きてるのかも知れない)、あまりに記憶が鮮やかすぎて記憶と今経験している現実の区別が付かない、という一説が印象に残っている。完璧すぎる記憶は現在を蝕む。これはもはや能力ではなく、傷害 - disability、と表現した方が適切だ。
だから本来、記憶は揮発して然るべきものだと考える。問題は、やはり後述するように自覚しているかどうかだろう。故に僕は先月の"内定者"に向けたエントリ で、今を記録しておけと主張したわけだ*5。
さらに余談。記憶と認識の"あてにならなさっぷり"を語らせたら、オリバー・サックスの右に出るものはいない。万人にお勧めできる読み物なので、機会があれば是非手にとってみてほしい
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また、V.S.ラマチャンドランの脳のなかの幽霊シリーズも、この系統では非常におもしろい。サックスより"今風"で、僕はどちらかというとラマチャンドランの方が好みだったりする。
まぁ、やりすぎると自我ってなんじゃろね的な話になってくるのでこれ以上突っ込まないけども、案外他人と自分の境界線なるものは、思われているよりも脆い壁なんじゃないかと考えたりもする。延長されたミームの表現型、ってな感じだ。
世界はROMでできている
根本的に他人と認識を共有できない上、多種多様な認識が入り交じった結果、僕らの身の回りで不可避的に引き起こされるのはROMの氾濫だ。いや、この世におけるスタンダードはROMである、と断言した方がいい。
そして、ROMである大衆は、絶望的なほど力を持たない。というよりも、持とうとしない。
あたかも一人一人が意志を持った行使者であるという前提の元に「一般の人々にもっと意識を高めてもらうことが云々」なんて書いてる論説(社会系のテーマに関する啓蒙文章に多い)をよく見かけるけど、ぶっちゃけてしまうと阿呆のROMどもにそんなことは不可能なわけで。阿呆などと他人事のように書いているが、こうして棚上に乗っかっているかのように見える僕自身も、ROM化の魔の手からは逃れられない、つーか大半ROMとして生きてる。
不要なフィールドでまで戦わなくて良い。相手の挑発をことごとく買ってやる必要はない。全ての問題に立ち向かわなくて良い。捨てるべきものは捨ててやれ。肩の荷を下ろして、自分の持っているもの、本当に取り組むべき問題に目を向けてやれば、それでいい。当事者でないことは必ずしも罪ではない。あなたも私もROM上等、世界はROMでできている。
世界はROMで出来ている。 - ミームの死骸を待ちながら
一定のレベル、ROMであることは仕方ない。ところが「仕方ない」レベルを超えて意識的にROMであり続けることは"傍観者"を生み出す。
かつて僕は傍観者になりたかった。利害関係の絡まない安全地点で、すべてを俯瞰して生きていくことに憧れた。そんな傍観者志向は臆病さの裏返しで、何の能力も持たない自分から目をそらすための防御壁に過ぎないことに気がついたのは、そう遠い昔ではない。
戯言も理想論も通用しない、結果と行動だけが意味を持つリアルな世界で覚悟を決めるためには、それ以前にまず、自分自身の無力や無知と向き合わないといけないのだ。(略)
"中二病"の通用しない、行動と結果だけが意味を持つ世界 - ミームの死骸を待ちながら
現状肯定の自己正当化と、綺麗事だらけの理想論。戯言からは何も得られない。ただ行動と、目に見えるその「結果」だけが意味を持つ。行動して、他人の目に見える成果を残すしかない。手間のかかることだ。
とりあえず僕のやりたいことの大半は傍観者じゃとても実現できないことがわかったので、無能を認めて行使者として足掻いている。熱い精神論は嫌いだが、まぁ仕方ない。傍観者の悪い癖が何度頭を擡げてきても、とにかくやるしかないわけだ。やれやれ。
世の中の大抵の物事はグレーゾーンに着地する
さて、僕は、「世の中の大半の物事にはグレーゾーンがあるだけで、完全な○×は存在しない」という立場に立つ人間でもある。
世のほとんどの問題と同じくこの主張は白から黒へのグラデーションになっていて、ここまではOKだけどここからはNG、といった明確で一般的な線引きなど不可能であることを追記しておきたい(どうせタイトルしか読まない人もいるけど)。
精神の救済を宗教に求めるのは勝手だが、それを他人に押し付ける奴は滅びろ - ミームの死骸を待ちながら
「世の中に完全に正しいことなどない」なんて書き方すりゃどっかのラノベだが、僕が強調したいのは「完全性の不在」ではなく、むしろ完全性の代わりにあらゆる事象に付随してくる"グレーゾーン"の存在の方だ。こちらを意識する方がずっと重要であり、非現実的な"完全性"と比べて、身近であるが故によりいっそうデリケートな扱いを要求する。
グレーゾーンをどう扱うか?まずその悪い扱い方、"中途半端を結論とする"ケースを見てみよう。"局所最適解"の記事でも書いたように「中途半端」は害悪となる場合が多く、とりわけ無自覚のうちに中途半端に留まっている議論は非常にタチが悪い。たとえば以下のような内容だ。
「問題XにはAという側面もあるし、Bという側面もある。多面的に/よく考えて結論を下さなければならない」
この種の禅問答を「結論」だと思ってる人のいかに多いことか! バーローオメーそりゃスタート地点だ!
ひとつ確認しておきたいのは、そもそも世の中にバランスが大事ではないものごとなど存在しない、という点。なんであれ極端が解となることはあり得ない。必ず、0か1ではなく微妙な最適バランスがあって、そこを探す過程こそがいわば本命、一番難しい作業である。
「バランスが大事」というスタンスは(少なくとも僕の考えでは)明らかな事実を言っているだけで、新しい情報量はゼロだ。その上にどのような過程でバランスを模索して、何をゴールとして、いかにしてあるべきバランスに到達するか、すなわち、過程部分に議論と思考と行動を集中すべきなのだ。
思考を二級品に貶める局所最適解の害悪 - ミームの死骸を待ちながら
具体的に、グレーゾーンの「どのポイント」に腰を落ち着けるのか、立場を明確にしないといけない。さもなくばただの「考えてない人間」か、よくて「理想主義者」になってしまう。
自覚された目的と哲学が全てを決める
では着地点を明確にするためにはどうすればよいかと言うと、僕の観点では、自分自身の「目的」と、個々の事象を捌いていく際に基準となる独自の「哲学」を自覚しているかどうかが分かれ目となる。
「言ってみたまえ。生産的であるとはいったいどういう意味なんだね」ジョナはゲートをくぐりながら再び質問してきた。
「何かを成し遂げることでも意味しているんでしょうか」
「そのとおり。でも、どういう観点で成し遂げたかどうかを測ったらいいと思うかね」
「目標(Goal)...でしょうか」私は答えた。
「そのとおり」ジョナが言った。彼はセーターの下に着ているシャツのポケットに手を入れ、葉巻を取り出して私に手渡した。
「私からのご褒美だ。生産的であるということは、自己の目標と照らし合わせて何かを達成したということなんだよ。違うかい」from: ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か
状況にただ流されているだけなら問題だが、目的さえ明確であれば、妥協点を探ることもできるし、不合理にも耐えられる。周囲にあふれる事象から関連する事項をある程度定量的に考慮できるようになる。
グレーゾーンのどこを着地点とするかは、目的によって異なる。その目的は余所から与えられたぼんやりしたものではなく、自覚された目的でなければならない。
目的と哲学、この二つは見失わないように、たとえ変化したとしても必ず手元に置いておくようにしたい。
これからの「正義」の話をしよう -- いまを生き延びるための哲学 | |
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いじょ。
ざっくりわけると二個に絞られる僕の現時点での認識は、ある種の一続きの価値観に基づいており、そう簡単に揺らぐことはない思考のベースになっている。
ところが僕の"信念"はトートロジー的な蟻地獄にはまっていたり、物事を広く捕らえすぎたが故の悲観論(ニヒリストというわけでもないが)に帰着していることも事実だ。
たとえばもっと瞬間的な快楽を追い求めるとか目の前にある価値観に没頭するなどしてシンプルに生きればラクなのかも知れないが、僕にとっては土台無理な話である。
人間はものごとの正しさを追い求めている風を装って、その実、自己の正当化、優越感、存在証明、他者からの受容や評価を切実に探し求めているケースがかなりの割合で存在する。この事実を他人から隠し、自分でも気付いてないふりをすると、悲劇が起こる。
思考を二級品に貶める局所最適解の害悪 - ミームの死骸を待ちながら
「人は...」とか「世の中は...」とか、物事をメタに捕らえる視点に確かに一片の正しさはあるのだろうが、それがすべてではないし、メタでは何も実現されない。多様性の先に救いはなく、曖昧さの中に解答は存在しない。
抜け出せるのかそれとも死ぬまで憑いて回るのか、よくわからんね。
戯れ言の続きは
ライブドアブログ*6にて。開設したものの、まだ過去記事を完全にインポートしてなかったり、デザイン調整中だったりするけど。
では、また。
relics
What you don't remember was never actually exist.
Memory is merely a record. You just need to rewrite that record.
*1:※これだけで生活できるというわけじゃないが、社会人一年生が生活していく分にはひじょーに助かる額
*2:先日ある人に「よくあそこまで自分の考えていることを赤裸々に書けますね」と言われたばかりだ
*3:だから若さがあれば何でもできる的な安易な可能性論者は嫌いだったりする
*4:もちろんこれは程度問題
*5:何度も書いてる話だけど、もし物語を読むのが好きなら、定期的に自分の生活と感情を書き起こして、数年後に読み直すことをオススメする(僕はブログとは別に日記帳に書いている)。少し昔の自分の文字は、まるで初めて読むストーリーのような新鮮さを持っていて、それでいて登場人物は他ならぬあなた自身なのだから、これ以上おもしろい読み物はない。