コンサルの面接で「74冊読みました」と言ったら「それは何がすごいの?」と返された
タイトル通りなわけだが。先日、とあるコンサルの個人面接で珍しい質問をされた。
「じゃあ、最近"俺ってスゲー"と思ったことは?」
思いつかず焦った僕は、最近まとめた去年の読書冊数を伝えた。質問に答えた瞬間社員さんの反応が「微妙」であることを悟り、しかるのち軽薄な自分を恥じた。
全然すごくねーよアホ。
コンサルティング、とりわけ戦略コンサルティングという仕事はインプット量が半端ない。なにしろ経験のない事業について、その事業の専門家にアドバイスせねばならないのだから、生半可な情報インプットではまともに会話すらできない。
具体的にその社員さんが何冊くらい読むのかは聞けなかったが、というか恥ずかしくてそれ以降ろくな受け答えが出来なかった*1のだが、明らかに僕は、勝負を仕掛けるフィ−ルドを間違えたのだろう。反省することしきりである。
それぞれのインプット・スタイル
僕程度の読書家はごろごろいる。上を見るときりがないが、たとえば有名どころで言うと、
勝間和代さんなどは一ヶ月で50-100冊は読むというから、僕の一年の知識インプット量は勝間さんの一ヶ月に等しい。
また、立花隆氏はひとつのテーマについて本を書くとき、500冊の本に眼を通すという。
明治維新後の日本海軍の基礎をほとんど一人で作り上げた秋山真之も、乱読家であった。幼少のころから「要点集中」の思考法を身につけていた秋山は、"気ちがいじみた"量の本を読み、そのなかから要点だけを記憶し、自分の血肉と化した。読んだ本は捨て、蔵書をほとんど持たなかった。
「それが戦争屋よ。海戦をするのに本をみながらはできまい」
「憶えておくのか」
「数行だぜ。その事柄、つまりあし (私) の場合は海軍作戦だが、それに関心さえ強烈ならたれでも自然とおぼえられる。ただ、名文句にぶつかることがある。これは本の内容とはべつに、書き抜いておく。もっとも書き抜きの手帳を紛失することがあって参考にはならんが、まあ憶えちゃいる」
坂の上の雲〈2〉 (文春文庫), p.306
これに、著者である司馬遼太郎は「新鮮な方法とはいえないが、文章のリズムを体に容れるには案外いい方法かもしれない」とコメントをつけている。
自分の中でその本を読む目的、あるいはあらゆるものに対する「ものの見方」すなわち個人的な関心ごとを強く意識していれば、おのずと必要な箇所のみが心に残る。超多読家に共通するこの能力*2は、フォトリーディングの「アファメーションaffirmation」に近いものがある。
結果的に処理できる情報量がふえることになるのだろう。
しかし
ここで考えたいのは
「読む」
ということばの定義だ。
間違いなく、ひとそれぞれ異なる知的行為を「読む」と称している。本の読み方というのは知識インプットの基礎をなすもので、さまざまな人の読書スタイルとライフスタイルを見比べてみると面白い。
知的生活の方法 (講談社現代新書 436)の著者である渡部昇一氏は、逆に、たいへんな精読家だ。幼少のころから気に入った本を何度も何度も繰りかえし読み、"自分の古典"を作った。
あなたの古典がないならば、あなたがいくら本を広く、多く読んでも私は読書家とは考えたくない。
知的生活の方法 (講談社現代新書 436), p.67
とまで言っている。
文体の質とか、文章に現れたものの背後にある理念のようなものを感じ取れるようになるには、どうしても再読・三読・四読・五読・六読しなければならないと思う。何かを「感じ取る」ためには反復によるセンスの練磨しかないらしいのである。
知的生活の方法 (講談社現代新書 436), p.59
あきらかに渡部氏は「読む」ということばを、知識のインプットではなく、文章そのものを味わう、行間を読む、心にしみこませる...そういった意図で使っている。三色ボールペンの斉藤氏もこれに近い。
まとめてみよう。
「多読家の読み方」と「精読家の読み方」は同じ「読む」という名で呼ばれており、ともすれば、二種類の「読む」という行為が混ざってしまう。そこに、同じ土俵で語れない難しさが生まれてしまう。
結局は、その人が読書に何を求めているか、という話になる。「知識か知恵か」と言ってしまうと暴論かな。「テキストブックとテキスト」でもいいかもしれない。
勝間さんも、彼女自身の座右の書である史上最強の人生戦略マニュアル や スマイルズの世界的名著 自助論 知的生きかた文庫 に、なにもフォトリーディングで一回読んだだけで惚れ込んでいるわけではあるまい。繰り返し読み、"古典"としているはずだ。
どちらが正しくどちらが間違い、というわけではない。ただ、区別して考えないと、知的生活は破綻するように思う。
自身の読書を省みて
さて僕はどうなのか。74冊とか調子に乗ってるが、乱読家を自称するわりに通常読書速度は所詮2000-3000文字/分という「ちょっと速い」程度で、かといって繰り返し読むわけでもない。
もちろん利己的な遺伝子 <増補新装版> や 7つの習慣―成功には原則があった!といった座右の書は半年に一回くらいのペースでここ五年くらい繰り返し繰り返し読んでいるが、普通の本、つまりAmazonや書店で買って知識を仕入れる用途の本のうち大多数は、線を引いて読んで、満足してしまうのである。
すなわち志向としては多読家、スタイルとしてはやや精読家。
しかし量は多くなく、精読の極め度合いも大したことがない。
つまり中途半端なのである。これはまずい。
どうすべきか。
志向が多読・速読なのだから、スタイルもそれにあわせるよう矯正すべきだ。
いまこの矯正を阻害している要因はただ一つ。
(出展: 要は、勇気がないんでしょ? - Attribute=51)*3
「捨てる勇気」がない。
"収集心"が第一位であるぼくの性格は(参考: 僕の脳回路はこのように繋がっている: 『さあ、才能に目覚めよう』ストレングス・ファインダーの結果と読後感 - ミームの死骸を待ちながら)、情報の可能性を無視することを許してくれず、本をフォトリーディングしてそれに「読んだ」というタグをつける行為は、まるで上質な料理をたべかけのままゴミ袋に落とし込んでいるような錯覚を覚える。「おのこししたらゆるしまへんで」である。
秋山真之がそうであったように、無意識的に、またより効果的なことには意識的に、自分なりの"認識の窓"を設定してさえいれば、何を見ても重要なものごとが瞬時にわかる。
それは必然的に取りこぼしを許す読書となるが、自分にとって大事なものを、広範な情報群のなかからすばやくスキャンすることを可能とする読書でもある。
「捨てないと拾えない」
これを念頭において、過剰な情報をスルー、スキャン、あるいはディッピングするような情報処理スタイルを確立しないと、僕は自分の性格と志向の狭間で限界に達してしまいそうな気がしている。