日本語オーディオブックについてそろそろ一言言っておくか
前回からずいぶん間が空いてしまいましたが僕は元気です。おいしい料理作ってれば生きていけます。あ、料理と言えば、角煮の作り方書いて欲しい人いますかね?
早速本題からずれ始めたぞ。ええと。オーディオブックの話です。
今回、yteppeiさん の紹介で、オトバンクの提供するFeBe - オーディオブックのブロガーキャンペーンに誘っていただきました。ありがとうございます。
サンプルに一冊好きなものをいただけるとのことだったので、何にしようかな−、と迷って、
オーディオブック | 『日本史集中講義—点と点が線になる』井沢元彦
これを選んだ。現在キャンペーン中とのことで、この記事から飛んで新規登録*1&1冊購入すると500円分のクーポンプレゼント、だそうです。以下よりどうぞ↓
さてさて本題、オーディオブックについて。
よく言われるのは、アメリカは車社会で通勤中にCDを聞く習慣があるが、日本は移動のインフラが電車なので*2その文化が無かった、という言説。
ゆえに日本でオーディオブックというのは近年(勝間和代氏の起こしたブーム効果もあって)周知されてきたものであるが、まだまだ日が浅く、著者や出版社にも偏りが見られる。今後のタイトルの充実が望まれるところである。まる。
....
つまらん。
当たり障りのないこと書いてもつまらん!うーん。好きに書いていいと言って頂いたことだし、これ以降は好きに書く。主として、僕がオーディオブックを愛用しない理由について。めっちゃ当たり障りそうですが、文責は全て筆者にあります*3。
まぁ、こんなこと書いておきながら意外と数ヶ月後には愛用してたりする性格だからわからんけど(記事を書くに当たって細かく調べてみたら結構面白いものがあったし)。
こんてんつ
- なぜ歴史の本を選んだのか
- 情報原としてのオーディオブック
- 極個人的なリクエスト
- 教科書を朗読して欲しい。
- 「ゴロあわせ合格英単Vワード」シリーズ
- 会計・経営の物語系
- FeBeの改善してほしい点
- UIが悪い
- 倍速版が別売り
- 力を入れているポイントがちょっとズレていないか?
純粋な宣伝記事を書けない病なのでそれなりに考察的な物をやろうかなと思ったら、結構長くなったし、遅くなってしまった。
なぜ歴史の本を選んだのか
枕として、なぜ『歴史』を選んだのか?ということを考えたいと思う。答えは単純で、歴史が嫌いだったからだ。
「だった」と過去形にしたことにも意味がある。御多分に漏れず、僕も中学/高校時代は「歴史は暗記科目で面白くない!」と考え、数学や理科がそれなりに得意だったのでまぁそこまで深く考えることなく理系に進んだクチだったし、社会の授業はどうにも居心地が悪い*4記憶しかなかった。
しかし大学生になって、まぁいろいろな出来事から「歴史は重要だ」と痛感することになった。
というわけで、歴史をちゃんと勉強し直したい。しかし「やるべきこと」も「やりたいこと」もたくさんあって、それらを優先度でリストアップしたとき、歴史の勉強はどうしても下位に来てしまう。...こうして今までほとんど手つかずのままだった。
そこでいい機会だと思って、前述の『日本史集中講義』をいただいたわけである。
情報原としてのオーディオブック
しかし、そうは言ったものの、実は『日本史集中講義』という特定の本であった必要はなく、それどころか実は"歴史"という切り口すらも「たまたま」に過ぎない。歴史の本が何冊かあったから選んだだけである。では僕の判断基準のコアは何だったかというと、
能動的に勉強する場所を机の上から移動させる
というもの。この判断を掘り下げていくと、情報収集・学習一般についての一つの法則が浮かび上がってきた(自分/近しい他人の思考や行動を掘り下げて一般的な法則を考えようとするのは、僕の思考のクセだと思う)。
ところで、僕はAudible.com を使ってて、いくつか洋書をダウンロードして聴いている。
外国語の音声を聞くのは基本的に両極端の姿勢しかないと思っていて、(1)聞き流して「慣れ」ようとするか、(2)内容を理解しようとして前のめりに、能動的に聴くか*5のどちらか。
学習において、能動と受動を意識的に使い分けることはかなり重要だと思っている。さて、日本語オーディオブックについてもこの切り口で考えたとき、僕がもっと充実して欲しいと思うのは、
- 【受動】聞き流せるオーディオブック
- 【能動】机に座って行う「勉強」を持ち運ぶ
この2つだ*6。ところが残念ながら、どちらも現在のオーディオブック市場の主流とは言えない。現在は、僕の見たところ紙情報と等価の"情報収集"を想定したものが主流となっている。
どうも、音声ならではの特徴を活かし切っていない印象だ。
極個人的なリクエスト
ところで以上を踏まえた上で、こんな本をオーディオブック化して欲しい、というリクエストをちょっと具体的に書いてみる。
教科書を朗読して欲しい。
僕は教科書を読み込むと言うことをあまりしない。その代わりに全体をぱらぱらながめて、脳内にインデックスを作成する。知識が必要になったら「ああ、あのへんに近いことが書いてあったな」と思い出して参照する。
そのインデックス作成作業を、耳からも行えると便利だろう、と思った。
章ごとに販売してくれたら、試験期間に応じて大学生が買いそう。
とりあえず経済だとマンキュー経済学がお気に入り。生物だと、細胞の分子生物学か、その簡易版のEssential細胞生物学とかどうですか。
各分野の「これだけは外せない」教科書を選定し、それを「教科書」として使えるか否かを検討する過程で、現在のオーディオブックの限界が見えてくる...ような気がする。それがただの"限界"で終わるのか、新しい何かのヒントになるのか、僕にはわからないけれども。
「ゴロあわせ合格英単Vワード」シリーズ
ゴロあわせ合格英単Vワード 必修編 | |
TKOプロジェクト 中経出版 1995-09 売り上げランキング : 68625 おすすめ平均 最高! Amazonで詳しく見る by G-Tools |
大学受験の時にお世話になった、好きな単語本なので。文章が下ネタありでアホくさくて大好き。英単語はこれと単語王2202を使ってたな...。懐かしい。
会計・経営の物語系
ドラマみたいに音声化したら楽しそうだと思うのは以下の3冊。個人的に好き。
FeBeの改善してほしい点
UIが悪い。
まず、カテゴリが結構細かく分かれているんだけど、どんな本がどのカテゴリに入っているのかイメージし辛いので探しにくい。複数のカテゴリに属している本も結構あるが、その基準もやはりわかりにくい。「自己啓発>勉強法」と「学習」、「実用・生活>教育理論・方法」と「自己啓発>コーチング」...うーん。
さらに、カテゴリを選択すると謎の順番で並んでいる。ページ遷移も昔ながらの青と紫のテキストリンクだし、これをぽちぽちやって1ページ1ページ見てると、「...もういいや...」という気分になる。
せめて発売日順、書名順、著者名順、売れている順番などで並び替えしたり、サムネイルで一覧できたりするとかなりアクセスが良くなる気がする。価格比較サイトみたいに何10個も並べてサンプル音声を聞き比べることができれば、本屋でぱらぱらと比べ読みするような感覚だ。オーディオブックを選ぶのも楽しくなる。
とりあえず今のままでは欲しい本が"あるのかないのかわからない"し、それより大きな機会損失として、隠されたニーズの発掘が出来ていないと思う。そもそも欲しい本が音声化されていない確率の方が高いのだから、特定のタイトルを求めて買う、というオーディオブックの買い方は現状で難しい。フラットな選択肢ではない。特定のタイトルが欲しければFeBeを探すよりも通常の書籍を求める。
リアル書店やAmazonでついつい本を買ってしまうのは「あ、こんな本あったんだ」「存在知らんかったけど、こんな本欲しかったんよ」という動機が(少なくとも僕の場合は)多くて、今のサイト構成では、その機会をごっそり失っている感じ。もったいない。
一気に使いやすくしてリニューアルオープン!なんて打ち出すと熱い。気がする。
倍速版が別売り
lifehacking.jpの堀さんも指摘していたことだけど、これは別売りにする意味があまりない気がする。ちょっと「mp3 倍速」でググれば
速聴 みたいな倍速聴きが出来るフリーソフト集!無料ソフトで倍速再生、再生速度変更
こんなのもでてくるし。
力を入れているポイントがちょっとズレていないか?
少なくとも僕の意見を言えば、今の方向で日本語オーディオブックがどんどん充実していってもあまり嬉しくないし、今後もずっと興味が無く疎遠なままだろうと思う。主な理由は、母国語において、情報...とりわけ知識を増やす/理解を深めるためのそれに関しては、音声でinputしても文字でinputしてもさほど違いがない、という風に考えているからだ。
これは、日本人が英語のオーディオブックを聴く時の姿勢とは異なる。
言語化しない"なんとなく"レベルであれ、僕のように感じている人が市場の一角を占めているとするならばオーディオブックという文化は、下手すると遠からぬ未来、低迷して破綻しかねない。変化の早い現代のこと。Kindleや電子ペーパーが現実の物となった今だから、何があるかわからない。
感じ方は人それぞれだし僕は専門家(何の?)でもないのだが、僕がどこに問題を感じているかと言えば
「力を入れているポイントがちょっとズレていないか?」
という事だ。
たとえば、主力商品のベストセラー・自己啓発書・ビジネス書の類。これらは本屋へ行ってぱらぱら読めばいいし、それで手元に置いて起きたい本と判断したならば、買えばいい。頭出しの出来ないトロトロした音声ファイルよりも、素早くカンマ1秒単位で1ページ1ページ検索できる書籍の方が何百倍も効率的であるのは明らかだ。
著者本人が読んだ、という触れ込みがたまにあるけど、どうでもいい。果てしなくどうでもいいのに、出演/契約コストだけ嵩みそうなこだわりである。読み方の微妙な差異、重要度や込められた情緒の判断なんてリスナーの脳で勝手にやるからさ。「YouTubeは画質が悪いので流行らないだろう」という、何年か前に尤もらしく叫ばれていた主張を思い出す。ポイントを外している、と僕は考える。
また、情報収集の効率性とは別軸でもう一点語ることもできる。
FeBeを運営するオトバンクは、元々視力に問題を抱える人のために本を朗読するNPO法人が母体になって設立されたと聞く。
果たして、目の見えない彼らにオトバンクが真に提供するべきなのは、昨今のうすっぺらいビジネス書なのだろうか。書籍の洪水の中から取得選択して音声化した厳選コンテンツが、自己啓発書やシリーズ物の英語学習本で良いのだろうか。
「あったらいいな」ではなく「これが必要」と言われる仕事だろうか。
日本だけでも1日に100冊だか1000冊だか出版される本をすべて音声化することは不可能だから、どこかに集中しなければならない。資源の集中投下を行わなければならない。
僕の視点で見ると、そのへんの戦略に哲学を感じない。
極めて偉そうだけど、偉そうにならなければ言えないことだったので、あえて自己棚で書いてみた。もちろん、今は生活に取り入れてはいないものの、日本語のオーディオブックというものに少なからぬ興味と期待があるからこそ*7わざわざ戯言を書くのだ、ということを宣言しておきたい。
この戯言が、ごく僅かでも良い方向に響くことを願って。
*1:話はズレるけど登録にクレジットカード情報が必要なのが結構ハードル高い気がする。身の回りで日常的にクレカ使っている人は案外少ないので
*2:まぁこれは都会の話で、実家あたりだと車で1時間かけて通勤、というのが普通だし、事実僕の父は現在もそうしている
*3:一回使ってみたかった
*4:授業中に睡眠を取って家で受験勉強するというスタイルだったため、一部の先生からは評判が悪かった
*5:前のめりに聞かなくても理解できるなら、それはinputに関して言えば母国語とほとんど同じとみなしていいと思う
*6:ちなみに後者は先ほど『日本史集中講義』の選択理由として挙げたが、次で前者の具体例を挙げる
*7:こうした予防線を張りたくなるあたり、僕も歳をとったなという感じですかね。ちがいますね。
否定されることを恐れるな、否定することを恐れるな。拒絶によってそこに輪郭が生まれる
ども、あけましておめでとうございます。年が明けても相変わらずな感じで行きますが、今回は珍しく続き物です。続き物というか、相も変わらず戯言です。戯言というか、論理を放棄し、言葉の断片をちぎっては投げちぎっては投げ、という様相を呈しております。どうでもいいね。ゆるふわでいくぜ。
前回の記事、世界はROMで出来ている。 のラストで、以下のような言葉を投げておいた。
不要なフィールドでまで戦わなくて良い。相手の挑発をことごとく買ってやる必要はない。全ての問題に立ち向かわなくて良い。捨てるべきものは捨ててやれ。肩の荷を下ろして、自分の持っているもの、本当に取り組むべき問題に目を向けてやれば、それでいい。当事者でないことは必ずしも罪ではない。あなたも私もROM上等、世界はROMでできている。
世界はROMで出来ている。 - ミームの死骸を待ちながら
否定されることを恐れる必要はないし、否定することに後ろめたさを感じることもない。拒絶することによってはじめてそこに輪郭が生まれるからだ。
ところが、この類の問題はリクツでは理解できても、感情的に反発があることが少なくない。
否定されるということ
自分を否定される経験は、気持ちの良いものでは決してない。
よく「指導の方法」的なマニュアルや育児書なんかで*1「人を叱るときは人格を否定するのではなく、行為を否定する」という原則が挙げられているのを目にするけど、
裏を返せば、人格に通じる部分を否定されることは、誰でもかなりのダメージを伴う、ということを示している。
世の中の全ての人が育児書を読んでいるはずはない。みんな育児書を読もう!僕のオススメは...という流れにはならないので安心して欲しい。
ずいぶん前になるが、僕はid:nakamurabashiさんの書いた記事にとても共感した覚えがある。今該当箇所を探し出した*2
ブクマのページは俺にとって鬼門だった。ここのところはわりと200とか300とか平然とブクマついたりして、そのなかには俺に対する好意的な意見もあるのだろうし、おそらくは参考になることも書いてあるだろう。けれど俺はネガコメが怖い。その怖がりかたは、おそらく病的なレベルのものだと思う。
はてなダイアリー
傍観者であるROMは、非傍観者すなわち当事者に対し、いつでも好きなときに牙をむくことが出来る。そしてたいていの場合、ROMは戦いのフィールドに降りてくる必要もない。そうした一方的な"否定"の最たるものが、はてブのネガコメだ。
誰にだって苦手なタイプの人間がいるが、そいつに対してイライラしたりビクビクしたりするほど非生産的なことはない。ところがインターネッツというやつは、視界に入れたくない相手を可視化してしまう。
僕も極度にネガコメを恐れていた頃があったんだけど、これまたえむけーつーさんと同じく、今となってはさほど気にしてはいない。もう少し引用を続けてみる。
これは俺の文章の書きかたに問題がある。はてなの多くの人、特に有名な人は、基本的に論説として文章を書いている。しかし俺は常に「自分という物語」について書いてきた。つまり、文章には常に俺自身がいる。いってみればそれは、俺自身について書かれた一人称の小説のようなものであり、同時に「俺」という人間について書かれたノンフィクションでもある。
(中略)
こんな俺にとって、ネガコメとは「俺という存在の否定」を意味する。多かれ少なかれ、だれにとってもネガコメというのは気分のいいものではないだろうが、俺にとっては、それは死刑宣告だ。この傾向はいまに始まったことではない。文章の書きかたが昔から変わらない以上、いつでも同じことで、俺は、ネット上で自分の文章に対する否定的な意見を見るたびに、常に全力でネットから逃亡してきた。自分を否定する存在がいるということは、いつか「殺される」ということを意味するからだ。
はてなダイアリー
似ている、と思った。
僕はこの方法でしか文章を書けない。自分という物語を通すことでしか語れない。自分の思考や感情を文章化することは、生を実感する重要な方法の一つであり、自分を客観化する行為であり、それが故に、唯一の確実なものであった。
だから日記帳を初めて開いた小学校高学年の頃から、自分の書いた文章というものを後生大事に抱えてきた。ところが、最初はただの作業ログ/メモの場所だったブログと、個人の思考/感情を記録していた紙の日記との境界線が少し崩れて、自分の思考を書くようになり、...今に至る。
閑話休題。
長い目で見ると、否定されることは、人間の人格形成のために必要な経験でもある。人格形成などと大上段に構えなくとも、何にでも言えることだ。否定され、それを受け入れ、消化し昇華する必要がある。
逆に何も壁にぶつからないまま、利害と感情の対立に悩むことのないまま時間だけを積み重ねてしまうと、人間として薄っぺらくなってしまう。そんな気がする。
極普通の人間関係の中で生きていれば、必ず自分を否定する人の存在に気がつく。また、自分で自分を否定せざるを得ない事もある。そうしないと、次へ進めないような時がある。
ここで否定を受け入れるためには、一定量の肯定を蓄積してある必要がある。ダメージを和らげるためのバッファを準備しておく必要がある。
そして、逆説的だが、他人あるいは自分自身に自己を肯定させるためには、自ら何かを否定しているのだという「自覚」を持っていなければならない、と僕は考える。
否定するということ
「自覚」と呼んだものは、この文脈では「輪郭」と読み替えてもいい。
あるものを受け入れる一方であるものを否定し、好き嫌いをはっきりさせることではじめて形が見え、明確なラインが浮き上がってくる。否定することでそこに輪郭が生まれる。
逆に、全てを重視すること、何も拒絶しないこと、そこにあるものを無批判に受け入れることは、何一つとして希望を持たないことに等しい。
失敗しても反省して復活し、恥をかいても割り切って次に進む、そんな柔軟な強さはすべて「なんとかなる」という確信に基づくものだ。そしてその確信の根拠は「自分自身が否定すべきものを否定して、選択の結果ここに立っている」という自信だと考えている。
ちょいと前に、こんなエントリが話題になった。
ところで僕はid:Chikirinさんの記事がかなり好きなのだけど、その理由はなんじゃろなと考えてみたところ、どうやら、扱うテーマがどうこうというよりは、好き嫌いがはっきりしてさばさばした書き口だから、であるようだ。なんというか、輪郭がはっきりしていて好感が持てる。
まぁそれはともかく。
早めに「人生の天井」を知る。
人生は早めに諦めよう! - Chikirinの日記
そういうことを中学生くらいで知ることを不幸と思う人もいるのだろうが、ちきりんは「40才まで分からないよりは、中学生くらいで分かった方が幸せでは?」と思う。
いつまでもいつまでも「頑張ればやれる」などと思ったまま大人になるのは、本当に幸せなことなのか?
(中略)
それより、若い時にいろいろ諦めておいたら違う人生が開けてくるんじゃないかな。
これはつまり、他人と自分を混同することを早くやめてしまえ、という主張だと僕は解釈した*3。他人を自分とは違う存在として「否定」する、そこが等身大の歩みのスタートである。と読めた。
自分の立っている土俵に上がっていないから卑怯だ、と誰かを攻めるのはお門違いで、世の中には勝負する必要すらない、ROMであるべきものごとが世界の大半を占めている。これは前回のエントリでも書いたことだ。
何かを否定することと何かを望むことは表裏一体の等価な行為で、何かが嫌いな人は、その何かとは異なる(正反対、とは限らない)何かを好いている。価値観の違い、重要視するものの違い。人はそれぞれ違ったものを見ているという事実を認めることさえ出来れば、人間関係の不和がどれだけ解消されるか知れない*4。
他人との視野の違いを許容できなければ独りよがりに生きていけばいい。
世界の大半はきっとどうでもいいことだ。
世界の大半はきっとどうでもいいことだ。その大切な視点を僕は幼少期に教えてもらわなかったし、自分でも長らく気がつかなかった。
そして世界の大半を否定すること、「諦め」てしまうことは、必ずしもネガティブな意味ばかりではない。以前の僕はこれを理解していなかった。僕は何も望んでいないのではないか、何に対しても本気になれないのではないかという不安に苛まれることがあった。四半世紀にも満たない*5自分の人生を振り返るに、僕は、極端なまでに否定されることを恐れて来たのだと思う。少なくとも20歳の頃までは。
不必要なまでに考えすぎる僕ではあるが、今の僕はこの問題に対する解決策を手中に納めている、と思っている。
まぁ、否定を極端に恐れていた昔とは打って変わって現在は振り子が逆に振れ過ぎており、少々困ったことになっているのだけど....それはまた別の話。
世界はROMで出来ている。
僕がここで語りかけるのは、このブログを読んでいるが僕にそのことについて語ろうとはしない...ただ読んでいるだけである研究室のアイツであり、とある血縁であり、故郷にいた頃からの友人であり、かつて絶縁したあなたであり、一時だけ関わったあの人であり、そして、名も知らぬ読者のひとりであるかもしれず、あるいはそれが故に、誰に対するものでもない独白とも言える。
世界はROMで出来ている。
うすうす感じていたこの感覚を具体的な言葉で肉付けするきっかけとなったのは、後輩の一人からもらったメールだった。彼は僕のTwitterを見ているというのだが、アカウントを取ってFollowするのではなく、ブックマークに入れてちょくちょく閲覧しているらしい。確かにプロテクトにしていないからそういった見方も可能だ。Twitterの使い方は自由だが、僕はそうした使い方があるものかと少々驚いた。
それに加えて、先月自分の知名度が思っていたより高いことに気づかされたこともある。
ブログで内定先イベントの告知を行ったところ予想以上に人数が集まり*1、定員の2,3倍に達したため、予定を変更して二回開催することになり、しかも生まれて初めてサインを求められるという体験をした。
いやいや僕は何者でもありませんがな、と言いつつも、嬉しくないと言えば嘘になる。
このブログは純粋なアクセス数なら平常時で1000pv/日、ホッテントリに上がるとだいたい10-20倍になるが、果たしてコメントを通じて僕と対話してくれる人やSBMに「見た」記録を残す人は、いったい全体読者の何%なのか。
僕の仮説をここで述べるならば、おそらくその割合は極めて低い。あまりに非ROM層の割合が小さいため、「すべてがROMである」と表現した方がむしろ実際に近いはずだ。そして、ネットに限らないその他の物事についても、分布の大多数を占めるROM...すなわち見えない傍観者が、それぞれの世界を満たしているのではないかと思うのだ。
こんてんつ
- 世界はROMで出来ている。
- 「当事者」と「ROM」をかき混ぜる
- 「ROMの可視化」と「ハードルを下げる」こと
- それでも僕らがROMであるべき理由
世界はROMで出来ている。
ROM - 傍観者は、非傍観者すなわち当事者に対して決定的な強みを持っている。それは「相手は自分に触れることは出来ない」という、防御の絶対性だ。そしてそれでいて、いつでも目に見える攻撃者として*2当事者に牙をむくことが出来る。
たまに「情報収集目的で(Twitterを/mixiを)使っている」という人がいるが、見られている側からすれば一方的に搾取されているみたいでいい気持ちがしないし、正直に言えば僕自身も、受信するだけの人間を同じフィールドに立つ存在として考えていない。
だからと言って僕がROMに対して否定的な考えを持っているわけではない、少なくとも理性的には否定的であることを抑えよう、と考えている。これには少し説明が必要だろう。以下説明を試みるが、一言で言えば
- 「ROMの存在は必然であり、僕はROMを可視化することに興味がある」
となろうか。
「当事者」と「ROM」をかき混ぜる
確かに、ROMでいることはある意味でもったいない、とは思う。
情報を発信することで効率的に情報が集まってくるから、という利己的な理由もあるが、それより大きな理由に「くだらないことだと思っても、体裁を整えて広く問うてみると、分布の大多数を占めるROM、傍観者、門外漢、初心者たちにとって、勉強になる内容が含まれている」ことが多々あるから、という経験則がある。
たとえば、この夏TeXについてのエントリ を書いたところかなりの反響があった。その記事を書いた少し後にid:sotarok & id:blanc_et_noir(通称黒猫)と飲んだ時、黒猫さんは
- 「うちのラボではTexを使うのが当たり前だったので、あんなにブクマされるとは思わなかった」
という旨のことを感想として述べていた*3。彼女は、僕と同じM2として語るのが申し訳なくなるほど優秀*4ということもあるけど、ともかく、黒猫さんにとってそれは「当たり前」だった。
しかし、Texというツール(?)の存在を知りつつ局所最適解(たとえばMS Word)に落ち着いている人がたくさんいることを僕は知っていた。そして、自分の経験を元にそれらの層に響く記事を書けるのではないかと考えた。
ある人には「当たり前」のことが、多くの人にとってはそうではない。ここに認識のギャップがある。
「当たり前に行っている当事者」と「ROM」...それらは普段交わることはなく、一種の安定状態に達している。そして、僕はその安定状態をひっかきまわしてやることに喜びを感じる気質であるらしい。
「ROMの可視化」と「ハードルを下げる」こと
繰り返しになるが、僕が(広義の)ROMに関して興味があるのは、見えないROM層を可視化すること。そして、そのために「ハードルを下げること」だ。この興味は僕の行動の結構な割合を理由付けることができる。上でTex記事を一つの例としてあげたが、他の具体例については、今後意識的に書いてみようと思う。
さて、今まではネットにおけるROMの話をしてきたが、僕はネットに限らず「興味はあるけど、でも行動を起こさない(あるいは「起こせない」)人」=「広義のROM層」が、かなりの人数で存在していることを知っている。なぜなら多くの世界において、僕自身がそのタイプに他ならないからだ。
ほとんどの物事において僕は「できない側」に立っている。速く走れない。絵も描けない。歌もうまくない。蕩々と演説することができないし、対面でもひどく話下手だ。お世辞にも優秀な学生とは言えないし、実用に足るレベルのプログラムを書くことが出来ない。そしてある世界における無能力は、どうしようもなく、ただの傍観者、搾取者、ROMへの傾倒を促す。
そういう人間だと自覚しているから、「ハードルを下げる」ために何が出来るか?ということについて、僕はよく考える。
なぜなら、自分自身であろうと他人であろうと、ROMから脱却するためには、活性化エネルギーである「ハードル」の高さを考える必要があるからだ。そして、行動原理の大部分が「面倒か否か」で動いている僕の視点*5で考えると、一つ一つの変化の「ハードル」の高さは死活問題だ。
現状を変えようとするならば、一つ一つの「変化」のハードルを下げることを考えなければならない。
勝負で絶対に負けない秘訣は、勝負をしないことだ。勝負に先立って、真正面からぶつかって打ち勝つための能力を有していることは稀だ。だから準備をする。十分な準備をしておけば、あとは自動的に結果が出力される。状況はあるべき結論へと転がり落ちるしかない。
自分の認識を変えればいいだけで済むこともあれば、他人を変化させる必要があることもある。どちらにしろ「その変化には何が必要か」を考えて、そのための状況を整える。準備してやる。ハードルを、下げる。これらを自分自身の手で行っているというコントロール感が、当事者になったという証左になる。
それでも「当事者」が善であり「ROM」が悪という単純な二元論では捕らえきれない所に問題の複雑さがあり、同時に、世界への関わり方の本質が見え隠れしている、と僕は考える。
それでも僕らがROMであるべき理由
朝起きてから夜寝るまで、僕らは傍観者に囲まれて生きている。そして同時に、僕ら自身もほとんどの時間を傍観者として過ごしている。
たとえば適切な例かどうかは微妙だが、僕は珈琲が好きで、ちょっとおいしく飲みたいからインスタントを卒業して豆から挽いて淹れてみたり、いろんな豆を飲み比べてみたり、作業場としてスタバに陣取ることがよくある。ただの珈琲好きといえばそうだ。
ここで視点を変えてみる。珈琲の世界に深く踏み入れている人から見れば、この時の僕は傍観者だ。本質を理解せずして上澄みだけ搾取する、おいしいとこ取りのROMに過ぎない。
そしてこれは、どうしようもないことでもある。
情報だけが恐ろしい速度で流入してくる世界に生きていると、すべての物事に関わらなければならないという義務感に駆られることがある。完璧主義、真面目、心配性。自分のことをそういった形容詞で表せる人は、とくにこの罠にかかりやすい。
僕自身も「なるべく多くの選択肢を目の前に並べて、自分の手で選択したい」と思う人間であるため、可能な限り手を広げようとする傾向がある。
しかしここで、時間と空間の中での個人の有限性、というものが効いてくる。小難しく言うのをやめれば「時間は全人類1日24時間」であり「誰しも当事者として経験することができるのは人間一人の等身大が限界」という、ごく当たり前のことに過ぎない。以前書いた記事から似たような主張を引用する。
ポジティブシンキング的な意味ではもちろん「何でもできる」と思うことは大切なのだけど、可能性が無限であることと無限の物事を達成可能であることは、決して等価ではない。
戦略のない人間は"失敗"の自覚がないまま幸福感に包まれて死ぬ - ミームの死骸を待ちながら
何かをするということはそれ以外のすべてをしないことに同義であって、いくら可能性が無限に広がっていようが実現される現実は常に一つだ。
話の拡張をストップしてネットの話に戻れば、ROMに徹している人がROMであることを善しとするのは、ROMという言葉を使う人々とは重視する価値観が異なっているからだ*6。
小さく追記しておくと、悪者みたいに扱ってしまった冒頭の後輩にしたって、彼が僕をTwitterでROMっていようが、実は大して問題にしていない。僕は彼の価値観を(部分的ではあるが)知っているからだ。
彼は研究者である。学部生ながらきちんとした問題意識を持ち、具体的な研究内容を聞いてみても驚くほど詳しく語れる知識があるし、何日も泊まり込みで実験する根性も持ち合わせている。あれほど強い決意を以て研究に望む人はかなりレアだと思っていて、その意味で、尊敬していさえする。だから別に、ネット弁慶の僕と同じような価値観でもってネットに付き合え!とは押しつけるべきではないし、むしろそれは、僕が最も嫌悪する行動の一つですらある。
つまりはこういうことだ。
不要なフィールドでまで戦わなくて良い。相手の挑発をことごとく買ってやる必要はない。全ての問題に立ち向かわなくて良い。捨てるべきものは捨ててやれ。肩の荷を下ろして、自分の持っているもの、本当に取り組むべき問題に目を向けてやれば、それでいい。当事者でないことは必ずしも罪ではない。あなたも私もROM上等、世界はROMでできている。
この記事は何を言いたいのか?...別に何が言いたいわけでもない。最初に挙げたROM達に変わって欲しいわけでもなし、自分の中に何らかの焦燥感があるわけでもなしのstaticな記事であり、このままでいいと思っている。僕が最初に「誰に対するものでもない独白」と銘打った理由はそんな所だ。
...せっかくの年末、久しぶりに答えのない、答える必要のないものごとを、つらつらと考えたっていいじゃないか。好きなんだから。
はあちゅうが色々凄いので同年代として負けるわけには
読書というものは、人生におけるどのステージで、どんな環境で、どんな精神状態で、直近にどんな出来事を経験してきたか...そういった、その時の動的なバックグラウンドに大きく左右される。今日は、わたしは、なぜタダで70日間世界一周できたのか?を読んで考えた事などを書いてみようと思う。
と言いつつ読んだのは結構前なんだけど、これはいい本だと思って記事を書こうとしつつ、随分先延ばしになっていた。先日渋谷で10人程度が集まった謎のランチが開催され、そこではあちゅうと久々に会ったのをきっかけに、重い腰を上げたわけだ。
あ、本の裏表紙にサインもらったよ!サイン*1。
続きを読む
やるべきこと、やりたいこと、できること、全部ばらばらだから絶望する
爽やかな秋晴れの朝には抽象的な話をしよう。
「やるべきこと」「やりたいこと」「できること」
この三要素を一致させることはとても難しいし、厳密に言うと不可能であるかもしれない。しかし、三要素がどんな関係にあるかによって、精神安定度や日々の満足感、アウトプットの質が違って来るのではないかという考えを持っている。考え方の問題だ。ちょっと説明を加えるなら、
- 「やるべきこと=今の環境で自分の果たすべき役割」
- 「やりたいこと=理屈ではなく感情的に自分が望む事」
- 「できること=いまの自分の経験や能力から実行可能なこと」
となるし、拙い英語力でおっかなびっくり訳してみると、それぞれ"what you should do", "what you want to do", "what you can do"となろうか。
続きを読む