今、再び「最近"俺ってスゲー"と思ったことは?」と聞かれたらどう答えるか?
1年半ほど前にこんな記事を書いたことがある。
先日、とあるコンサルの個人面接で珍しい質問をされた。
「じゃあ、最近"俺ってスゲー"と思ったことは?」
思いつかず焦った僕は、最近まとめた去年の読書冊数を伝えた。質問に答えた瞬間社員さんの反応が「微妙」であることを悟り、しかるのち軽薄な自分を恥じた。
コンサルの面接で「74冊読みました」と言ったら「それは何がすごいの?」と返された - ミームの死骸を待ちながら
今日は、現在の僕がこの質問を投げかけられたとしたら、という視点で記事を書いてみる。就活の面接テクニックでもないし、コンサル的なロジカルさもないから、いまひとつスッキリした回答ではないが、とりあえず現在の僕の答えを記録する。
ただ、僕は今回上記の回答に対して記事として練った上で書くわけで、あの面接の時みたいにとっさに質問されたら、またやっぱり軽薄な答えを吐くのかもしれない。だから「今の僕ならどう答えるか」というタイトルはある意味不適切だ。まぁいい。
さて。
僕がシューカツ、もとい就活で学んだ大きなものごとはいくつかあって、そのうちの一つが
「自分の本心からではない言葉を吐くべきではない」
という確信だ。
もちろん、その他大多数の中から自分を浮かび上がらせるためのテクニックとして、レジュメの文章をちょっと工夫するなどという意向はアリだと思うが、面と向かって話す段階になると、これはもう素を出した方が良い*1。
落ちるとこは落ちたけど、ちゃんと素を出した上で落ちた企業は、気持ちよく落とされることができたと思う*2。
そういった前提の元、上述の
「最近"俺ってスゲー"と思ったことは?」
という質問を今受けたと仮定すると、僕の思考は以下の様に働く。
まず素の感情を暴露すると、僕はどうしても自己評価が低い。どうもこいつは性格の根底に根付いている思考であり、引きはがすことは不可能らしい。
という訳で、僕が日常の中で
「俺ってスゲー」
と本心から思うことは、ほとんど無い、と言って良い。
だから「面接においては素を出すことが一番」という前提の元で、あれから1年半経った今の僕が回答できる本音は
「ないです」
という一言で終わってしまう.....ことも有り得る。だって、実際ないのだから。
でもこれではあまりにひどいし、いくら本音とは言えまともな回答ではない。
でもまぁ大丈夫だ(何が。
現在の僕ならば、低い自己評価を晒した上で続く回答を提示することが出来る。そして、それが今回の本筋とも言える部分でもある。
根拠となるのは、他人の評価、しかも僕が尊敬する他人からの評価である。
ここ数ヶ月、(または思い返して)1,2年で、僕が「スゲー」と思っている人から「お前のここはスゴイ」と認められた部分が、いくつかある。
まぁ、そんなところだ。
ひとつ言っておきたいのは、僕自身は上記すべての項目について「ぜんっぜん大したことないです」と確信を持って断言できる。しかし、自己評価の歪んだ僕の視点を殺して他人の評価を冷静に並べてみると、それなりの人が僕に対して「スゲー」部分を認めてくれているらしい。
※もちろんこれらの長所は裏返せば弱みにもなり得る。
幸いにして、僕は人を尊敬することにかけてはなかなか高いレベルを誇っていると思う。
結構、世の中の人は他人を簡単に馬鹿にするし、どうも僕が思っていた以上に「他人の価値を認める」という思考回路を、心の奥の方に仕舞い込んでしまっているらしい。
まぁ、斯く言う僕も聖人君子ではないのですべての人を尊重することなどできない、っつーか「みんなと仲良く」的な事なかれ主義の下で生きるのは真っ平御免であるし、はっきり嫌いと断言できる、可能ならば関わりたくないタイプも存在する。
とはいえ、僕は自分が「凄くない」ことを既に前提として認めてしまっているので、世のあらゆる人は何らかの点で僕よりも優れている、という認識を、すんなりと、抵抗なく、一続きのなだらかな思考に沿って受け入れることが出来る*5。
自己認識上は果てしなく無能な上に何があろうと自分に満足できない性格なので、僕を個人的に評価してくれる他人というのは、本当にありがたい存在である。なんてことは面と向かって言えないので、ここでありがとうする。ありがとう。
さてさて、
僕がこの"他己"評価を、個人的な価値観では認められないにしろ、嫌々ながら、それでいて照れくさい、べ、別に嬉しくなんかないんだからね的なツンデレ精神を以て需要できるようになったということは、
「俺は凄かったのかも知れない」という可能性、
あるいは「別の視点において、僕は凄くなり得るのかもしれない」という"他者の視点の許容"そのものであり、
この些細な、それでいて(僕にとって)絶大なインパクトを持つ概念は、1年半前の僕には決して備わっていなかったものだ。
今僕は4ヶ月目の社会人生活を楽しんでいる所であり、当たり前のことができなくて少々苦労しているが、普通の人には出来ないことを当たり前に実行できる"自我"と"環境"を、僕は既に構築していたらしい。
ところで今回のテーマは何だっけ?
「最近"俺ってスゲー"と思ったことは?」
....うん。答えになってねー。
ジャマイカ記想録(1)--機会の稀少性を求めて
彼女がブラジルへ行くのはカポエイラの修行のためだと言った。ブラジルにいる師匠の下で1ヶ月間、泊まり込み合宿をするのだそうだ。僕は合気道部を辞めた後にカポエイラをやるかそれともテコンドーにするか、最後まで迷った挙げ句テコンドーを選択した程度には、カポエイラに憧れがある。足技が好きなのだ。
カポエイラ、ダンスみたいですよね。いやいやもっと深いもんだよ。テコンドーも深いよ。僕は弱いけどね。闘ってみる?...名前も知らないまま別の便に乗り、マイアミに向けダラスを発つ。
日本からジャマイカへの直通便はなく、アメリカを経由して乗り継ぐ。アメリカを経由すると言うことはすなわち、例のテロ云々以来強化されたTSAやらESTAやらあのへんごにょごにょする必要があり、多少、面倒くさい。
成田からダラスへと太陽と逆行するように短い夜を抜けた後は、カリブの島々との間で便が発着する、マイアミ空港へと移動する。
係員があくびをする。僕にとっての非日常も、彼らにとっては退屈な日常なのだろう。僕の顔を見て「ジャマイカで何やるんだ。ガンジャ(マリファナ)か」と聞いてくる。計3回くらい聞かれた。僕の顔はそんなにトリップ系か。トリップ系男子。
マイアミからジャマイカの首都、キングストンへ。
(写真は昼のものだが)
夜22時のキングストン空港は、お国柄かそれとも夜だけなのか、入国審査が適当でのんびりしている。
ジャマイカは90%が黒人(アフリカ系)なので、見渡す限り肌の色は真っ黒だ*1。この中に東洋人の黄色い肌が混じると、それはそれは目立つ。
空調の効いた空港から出て「暑い...!」100%夏の夜だ。西田さんと合流し、ピックアップしてもらう。今日はこれでも冷え込んでいる方らしい。なんてことだ。
初対面で宿をお借りする*2という僕の図々しさをやや後ろめたく感じていたが、実際に会うと体操のお兄さん的(文字通り職業が体操のお兄さんなんだけど)さばさばした人で、僕は一発で好感を持った。
空港から宿となる西田ジムへの道すがら「ジャークチキン」というジャマイカ名物料理を狙う。ジャマイカ人はチキンが好きだ。とりわけ、濃いめのどっしりした味付けが好きらしい。
ジャークチキンはジャマイカ料理の特徴が顕著だ。「おいしいジャークチキン売ってる所があるんよー」と案内され、向かった先はどこかの駐車場...店に入るかと思いきや、路上でジュージュー鶏肉焼いてる。これはすごい。
注文すると、でっかい包丁でバッコンバッコン鶏肉を分断して、ケチャップ(?)をぶっかけて食パンに挟んでアルミ箔に包んで、ホラヨと渡される。
ワイルドな。
写真を撮らなかったことが悔やまれる。
そして車に戻ろうとすると、勝手に車の窓を掃除している兄ちゃんがいる。汚れた水をボロ布に含ませて、わしわしと拭いている。そして当然の様にお金を要求。
フリーダムな。
圧倒され、テンションも上がりながら、西田さんの奥さんと同時期にジャマイカに来ていた体操仲間のOさんも加えた4人で、ジャークチキンをつっつく。おお。。。おいしい。
どうやら今は深刻な水不足らしく、生活の水にも事欠く始末。
「いい時期に来たねー」
ええ、僕もそう思いますよ(←トラブル好き
THE 西田ジム。ここをしばらく寝床としてお借りすることになる。
ジャマイカの夜は暑い。しかし蚊が多く、寝るときは長袖を着ないと刺されてしまう。僕は日本だとわりと蚊の好む血らしく、大抵は出血大サービス(文字通り)なのだが、ジャマイカの蚊にはどうも好まれないようであまり刺されなかった。
体操用マットの上で三人が雑魚寝の体制になったとき、僕はようやく、慌ただしく、しかし時差のおかげで間延びした一日を、振り返る時間を得たのだった。
僕がジャマイカに来た理由。 --機会の稀少生
2010年2月。修士論文発表が終わるやいなや京都に逃亡し、その後ぼくは海外に高飛びをキメた。所詮なぁなぁな日本の大学*3、形式を揃えときゃ修了証書を取り漏らすことなどあるまいと高をくくっての暴挙だった(そしてその判断は正解だった)。海外逃亡の第一段がジャマイカであり、その思考の流れは以下のようなものだった。
- 就職する前に貯金をはたいて海外行って来よう
- がんばれば予算的に二回の海外旅行が可能だ*4
- 正統派の「旅行」としてヨーロッパは確定(行ったことないし)
- もう一個はどこにしよう
- アメリカは2回くらい行ったし。
- 中国はどうせ会社が進出するだろう(楽観
- 台湾や韓国なんかは、社会人になってからも短期で行ける
- すると南米かインド、アフリカあたりか...
このへんまで考えていたところ、id:fly-higherさんに軽い感じで「ジャマイカいいよジャマイカ」と勧められ、なにしろno ideaだったものですぐさま飛びつく。
話を聞いたところ、体操の先輩がジャマイカでジムをやっていて、fly-higherさんはそこでしばらく滞在したことがあるらしい。海が綺麗で、ちょっと(?)治安が悪くて、僕にとっては未知の国。「Hashは適当に生きてるジャマイカンを見て、肩の力を抜けば良いと思う」というような事も言われたり。
もしよければ紹介するよとのお言葉に甘え、知り合うことになったのが(冒頭で既に登場した)西田さん、である。
これほど海が似合う男もなかなか居まい
元は青年海外協力隊の体操教師としてジャマイカで子供達を指導していたが、任期が終わった後もジャマイカに残って子供達を指導しているそう。
ジャマイカ滞在中に、他の青年海外協力隊のメンバーとも交流する機会を得るのであるが、僕が今まで見てきた世界とは別次元、それでいて、一続きで等身大な、若い世代がちゃんとその道で生きている。僕の知らない世界。日本から見ていると視界に入らない、日本人。
いろんな道がある。可能性は無限であり、根源的に、その思考において人間は自由だ。思考を行動に投射することを考えなければ。
。。閑話休題。
そもそも僕がここに来たのは、僕の行動原理のひとつ「機会の希少性」を考えた結果だった。
若いうちに何も集めようとしなければ、
年をとってから何を見つけられるだろう?
(エルサレム聖書 シラの書 25章3遍)
「機会の稀少性」を重要視する行動原理は、すなわち、おもしろそうでめったになさそうなことにはリスクが高かろうとも速攻飛びつき、今しか出来ないことには割高であっても集中投資を行う方針だ。
だから田舎の大学に進むのではなく東京を目指した わけだし、空手でも柔道でもなく、カポエイラや合気道やテコンドーを選んだわけだし、生物専攻で会計とプログラミングをかじろうとしたわけだし、10数人のベンチャー企業に入ろうという気にもなるのだ。
ぼくはたぶん、平坦を恐れている。
全てをフラットにどうでもいいものだと認識させる、自分の中の"何か"を恐れている。
その"何か"は強い力を持っている。かつて好きだったものや人は、その力の前にどうでもいいものとなって忘れ去られた。
忘れられることはとても恐ろしく、忘れることはもっと恐ろしい。
白鳥のいた町 - ミームの死骸を待ちながら
故に僕は、まかり間違っても平坦になりようのない、アップダウンの激しい道を好む。
どうしようもなくなったときに引き金を弾く自害用の拳銃みたいに、いつでも全部ゼロになる可能性を、自己を護るものとして側に置いておく。ここに来たのも、無茶をしたかったから、という思考はあるのだろう。
それでも、無茶をやり通せない。アップダウンが激しい道を望みながら、いつでもこうして、少なくとも体操マットの上に、自分自身の寝床を確保してしまうのだ。
...ジャマイカの夜は更ける。
自由と直感の独壇場「ノーガード乱れ撃ち戦略」の敗北について
まぁ僕のような人種が只の一度も躓くことなくしっかりちゃっかり社会人としてやってけるわけねぇだろと思っていたのだけど予想に違わず今まさに、なかなか厄介な壁の前にいる。やっほーみてるー?
おそらくこの壁は僕にとって学生と社会人の違いであり、認識ギャップであり重みという断絶でもあり、同時に、僕に長年つきまとう弱みの発露である。
この年になってまで戦う相手が未だ自分自身とは、実に笑止千万である。
こんてんつ
- 意志として身軽であること
- 「好きなことだけやる」生き方の弊害
- 責任負わずリカバリー要らず
- リスク回避について意識を変える必要がある
- 仕事verの性格を「追加する」
- 空を見上げるか空を飛ぶ
意志として身軽であること
どうやら僕は、なんというか、ノーガードで生きてきたらしい。
ガードする必要はなかった。
裸一貫で突入してもなんとかなるし、なんとかならなきゃ撤退するまで。撤退は僕にとって、僕自身の選択である限りは決して「負け」ではなかった。
根回し、保身、計算、予定調和とテンプレート思考、そういったものをひっくるめてめんどくせぇと見なして低く扱ってきた。
ガードを行わず周囲にも会わせないことによりフットワークは軽くなり*1、その結果として、"直感"という名の短期的自由意志に従った選択肢を取りやすくなった。
幼少期にカルト宗教による思考の不自由を経験 し、ようやく開放された僕にとって、他ならぬ自分自身の「自由意志」は、他のあらゆるものごとを足し合わせても敵わぬ程の価値を有していた。
付き合いが深くなるとよく言われた「こんな自己中な人とは思わなかった」という言葉は、僕にとってはどっからどう聞いても褒め言葉であり、自己の肯定を促した。
不自由から自由礼賛へと大きく振れた僕の振り子は、もしかすると表面的にはそのつもりがなくても、押しつけられたものごとに必死になる隣の人間をせせら笑いながら、俺はお前らとは違う自分自身の行動を自ら選択しているという傲岸不遜な精神を醸成したのかも知れない。
「好きなことだけやる」生き方の弊害
ガードしなくてもいい理由は、自由意志礼賛思考の他に、もうひとつあった。
「乱れ撃ち」戦略の成功、である。
僕はガードをしない代わりに、手数を増やして「うまくいくところ」からヒット&アウェイで稼ぐようなイメージで日々を重ねてきた。
一点を「突破する」よりも、一歩引いてふらふら眺めて、あーここなら僕でも突破できそうだなーというところを発見してちょっかいを出してみる。攻め落とせるならもっと突っ込むし、予想以上に防御が厚かったりするとさっさと手を引く、という戦略である。
この「乱れ撃ち」戦略は、時には"ひっかかるもの"もあったが、個人的にそれなりに満足する結果が得られたため、根本的には自分の"気分"や"直感"に従って生きてもまったく問題はない、と信じ込んだ。実際に、大した問題はなかった。
確信を深めた学生時代の僕は「興味拡散系」を自称し、実際、僕にとっての真実であるその思想に従って行動してきた。幅広くいろんなものに手を出して、そのうち一つが成功すれば儲けものと考えた。趣味でも勉強でも人間関係でもまんべんなく乱れ撃ちを重ねて、感触の良いものだけを選別し、選択した。
うまくいく所だけ拾い集める。let it be、好きなことをやり、やれることをやる。気の合う人とだけ付き合う*2。
一方、うまくいかないものはうまくいかないままにしてしまう。その結果、状況は
- (1)放置して塩漬け状態になるか、それとも
- (2)自ら状況を切り捨てるか、
の2通りに帰着する。
責任負わずリカバリ要らず
そしてノーガード乱れ撃ち戦略は、基本的に「修復」を必要としない。ガードがゼロであるため、大抵の傷は致命傷となることが原因である。救いようが無くなった状況は、外科手術によって目の前から切り捨てる。葬り去る。
この志向性は少しずつ、しかし確実に、傷ついた「信頼・期待・イメージ・計画 etc」のリカバリーにすこぶる弱い性質を作り上げた。
そんなわけで僕は一度軌道を外れたものを修正するのが苦手だ*3。仕事にしろ環境にしろ人間関係にしろ、とにかく軌道を外れたらそれを「失敗事例」としてリセットしたり切り離したりしてきたので、リカバリーが超へたくそなのだ。
先に「ひっかかるものもあったがそれなりに満足する結果を得た」と書いた。ところが、いま問題を噴出しているのは、まさにこの「ひっかかって」いたポイントであるらしい。ひっかかっていた"もの"は僕の中では単一のイメージとして存在しているのだけど、いくつかの単語でそのイメージをあぶり出すことを試みると、
「責任・完遂・継続・誠実・集中」
こんな風になる。
顔を背けてきた弱みがまたしても自分の前に立ちふさがった。人生におけるその遭遇頻度から考えるといいかげん対応を学習しても良さそうなものだが、過度に「自己の選択/決断」を重視する僕は、「撤退/失敗の苦い経験から学んで次からはガードを固める」という学習プロセスを経てこなかった。
ところが。会社に所属し給与で生計を立てる"サラリーマン"という道を選択した以上、僕はもはやノーガードで進むわけにはいかない、という単純極まりない事実に気が付いた。
そして最近僕が目の前に見上げるこの「壁」も、原因を辿るとその一つは「ガードの甘さ」に帰結するのではないか、と考えている。
要は、僕はまともに責任というものを背負ったことがなかった。
リスク回避について意識を変える必要がある
社会人として任される仕事は(個人レベルで躓くのはしょうがないが)組織として失敗してはならない。基本的に。
失敗しないためには、行き当たりばったりではなく、予測を立てて、起こりうる危険を想定して、早め早めに対処する*4。つまり、ガードを固める必要がある。
僕のやり方では、爆発する姿が容易に目に浮かぶ。
ガードを固めずに突き進み、失敗したらハイそれまでよとするフリーダム無責任思考は、もはや通用しない。
そして、ホイホイ受けてうまくいったものだけ成果として計上するという「乱れ撃ち戦略」は、会社において極めて大きなリスクとなり得る。
僕はどうやらリスク回避について意識を変える必要がある。
会社としての危険を回避し、降りかかるリスクを軽減させるために、僕はもっと臆病である必要がある。 そのためには僕個人の「ノーガード」気質とは別に*5、会社で働く人間として(誤読される危険を承知で言葉を選択すると)「保身」と「言い訳」の概念を身につける必要があるのではないか、と考えている。
「言い訳を身につける」と言うと悪いイメージを持ちかねないが、会社がリスクを回避するために用意しておく「既成事実/正論」のようなものだ。これを「会社が言い訳するための下準備」。
ちゃんと仕事をやろうとしていても、根回しが悪くて悪者にされてしまっては、どうしようもない。この価値基準は倫理的な善悪とは別軸で成立しうるものだと僕は信じる*6。会社視点で考えないといけない。
そして、僕は、楽観的な予想をしてふらふら好き勝手にやってきたから、状況をシビアに見積もる習慣がない。事実を我が事として切実さを以て捉え、具体的なアクションに落とし込むまでにひどく時間がかかる。時間がかかってもアクションに落とし込めばまだいい方で、たいていの場合、備え忘れて失敗する。
ここでつらつらと失敗の数々を列挙しようかと思ったけどまだ対策が自分の身に染みついていないので、やめた。、
今僕は、怖れることと備えることは別種の哲学に基づくと考え、実践しようとしている。難しいけど。
仕事verの性格を「追加する」
ビジネス世界の入り口では敗北してしまった「ノーガード乱れ撃ち戦略」だが、僕はこれを完全に捨て去るつもりはない。かといって、学生時代の自分流で貫き通せないことは目に見えている。
経験が使えないなら学習するしかない。以前自分でもブログに書いた様に、ノーガードで進めないならば、局地戦用兵装を身につけるしかない。
抽象化された「レッテル」という自己認識は、時に、"自己の性格を必要以上に絶対視する"という過ちを誘発する。自己の性格を絶対視し、「自分はこういう性格だ」と思ってしまうと、「悪い気質を根絶しよう」「性格を一新しよう」という考えへと陥りやすい。現状の性格の悪い面だけ見て全否定し、新しい自分とやらに生まれ変わろうとしてみたりする。ところがそいつは無意味なことだ。実際の気質はデジタルに変わるものではないから、試みは失敗に終わることが多い。
性格は変える/直すのではなく「追加する」 - ミームの死骸を待ちながら
単純な話だ。単純な話なのだけど、乗り越えられそうで、ちょっと難しそうな、絶妙な感覚。
おまけ的な。
コミュニケーションの型を身につけるように努力してみようと、実践を心がけると共に色々と本も読んでみているのだが、他の人にも一番薦められるなぁと思ったのがこれ。
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前回のエントリで紹介した世界一わかりやすいプロジェクト・マネジメント 【第2版】よりも、僕は先にこちらを読むべき。
空を見上げるか空を飛ぶ
閑話休題。
仕事楽しいよ。できないけど、楽しい。楽しさが顔に出ないタチだけど。まだまだがんばれる。
最初に「僕のような人種が躓くことなく社会人としてやってけるわけねぇだろと自分でも思っていた」と書いたが、同時に「飽き性の僕が仕事に打ち込めるかどうかわからん」という、より悲観的な予測も立てていた。
後者については、まだ2,3ヶ月の段階で判断するのも早いかも知れないが、完全に外れたと思う。
研究に向いてないと判断して社会に出て、そこでも箸にも棒にもかからないとなると、空を見上げるか空を飛ぶか(身投げ的な意味で)しかねぇと思っていた過去の自分よ、祝え。
幸いにして、ぼくは地に足を付けてやって行けそうだ。
FREEとiPadとBookScan、情報収集四方山話
最近話題のフリービジネス。フリービジネスってなんなのさ。
会社でただ働きに近い作業を「フリービジネス」などと言って笑っているが(笑ってる場合じゃねぇ)、真面目に考えるために件のベストセラーを手に取り読んでみたのは1ヶ月前くらいの話。結論。"FREE"という切り口で以てして古典的な経済学ではカバーできない現象を説明するその手腕が秀逸であるが、記載されている物事はさほど新しくない。
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FREEでは、フリービジネスモデルを4種類に分類している。
そのうちふたつは古くからあるが、進化したもので、残りのふたつはデジタル経済と共に登場したものだ。それらを見ていく前に、四つのフリーを一歩下がってみてみれば、それが同じひとつの事象のさまざまなバリエーションに過ぎないことが分かる -- つまり、商品から商品への、人から人へのお金の移動、現在と将来のあいだでのお金の移動、あるいは非貨幣経済の市場に入ってまた出て行くことだ。経済学者はそれらを「内部相互補助(他の収益でカバーすること)」と呼ぶ。
(p.30)
(1)直接的内部相互補助: Direct cross subsidies
(2)三者間市場: The three-party market
(3)フリーミアム: Freemium
(4)非貨幣市場: Nonmonetary markets
(3)はキャッチーだけどイメージが付きにくい言葉だし、それ以外は訳書のセンスがお堅すぎて漢字だらけだったので、僕はこれを以下のように解釈した。自分用メモの意味も込めて、つらつらとまとめておく*1。
(1)宣伝/餌として「フリー」使うよ派
(2)要するに広告モデル。二面性あるよ派
(3)大半無料で一部が払う。割合の問題だよ派
(4)世の中の価値は金銭だけじゃねぇ!派
(1)は無料で何かをばらまいてその周りにある有料の何かを買わせるもので、マーケティング戦略の一種と言えるかも知れない。
(2)は要するにテレビやラジオの広告モデルだ。誰かが金を出して提供したものを、他の誰かが無料で受け取る構図。
(3)の"フリーミアム"とはフレッド・ウィルソンの造語らしい。まるで新しい概念のように思える響きだが、なんのことはない。mixiやニコ動やはてなの有料会員、アレと同じだ。無料で大量に人をかき集め、その一部がお金を払ってくれることを期待する。母数が多ければ多いほど、入ってくるお金が増えることが期待される*2。
Vectorや窓の杜でソフトをダウンロードしていた90年代からあるのではないかな。例として劇場に"子供無料日"を設定することにより増える客層から大人分の料金を獲得する、というモデルも紹介されている。(このように、ソフトウェア/Webの範囲を超えて再定義した点がうまいと思う。)
無料ではないにしろ映画のレディースデイも似たようなもので、値引きすることによって、女性客が彼氏か友達を連れてくることを期待している(そして男達はなにか納得できないものを感じながら正規料金で興味のない映画を見る)。
(4)はそれについて書いたとしたら本が一冊出来るテーマであり、おもしろい。しかしフリーのテーマである「無料からいかにしてお金を稼ぐか」からは外れているため、サブ的な扱いだ。
(2)と(3)の違いは、無料客が有料客へ転換する構造をそもそも含んでいるか否かであり、
(1)と(4)の違いは、金銭のやりとりが発生することを期待しているか否かである。
これまたバズワードくさいのだが、"FREE"という概念は経済のリアルな形を示す切り口として秀逸、ではある。だが行動ベースで考えた時、「フリービジネスは...」とか「無料の時代に成功するには...」などという議論が見受けられるが、これは違う、と考えている。
「無料」は切り口に過ぎない。アクションを起こすとき着目すべきは「無料」ではなく、人々の心理だ。
この本が面白いのは、行動経済学が絡んでくる所だ。「無料」は特異点であり、異端であり、トリックスターでもある。人間心理に、巧妙に働きかける。そこが面白い。
行動心理学と言えば有名な本あったなー、と思って探して、まだ読んでなかったので↓を買った。お金はないがAmazonギフト券は山とあるのだ。
予想どおりに不合理―行動経済学が明かす「あなたがそれを選ぶわけ」 | |
熊谷 淳子 おすすめ平均 行動経済学の入門書 価値観の由来 苦労がしのばれる実験の数々に支えられた行動経済学論 この本の要約 「ヤバい経済学」と読み比べてみた Amazonで詳しく見る by G-Tools |
コンビニ受け取りにしたから仕事で遅くなってもOKなんだぜ。便利な時代だ。
情報の奔流と波乗りのメソッド
4ヶ月前、2月くらいに書いた文章を載せる。この頃は修論に明け暮れて(?)情報収集が疎かになり、その閉じた感覚がさらに気分を沈ませ内向きになる...というエンドレスループが起こっていた。
自分の周囲にしか目がいかなくなっている。こんな時、全部壊したくなるのが悪い癖だ。
現状の幸福、メリット、繋がりを全て断ち切って、まったく別の物事を始めたい、と感じる。停滞したら終わりだ、という危機感がある。かといって、「壊すこと」は停滞を裁ち切るものの、それそのものは進歩ではない、ような気もする。
情報感度が落ちまくっている。Google Readerはもはや読まなくなった。テレビは元々家にない。
Twitterに籠もっている。最近はTwitterもインフラになり、珍しくもなくなった。僕はコミュニティに価値を感じている。蓄積したネットワークに価値がある、と思っている。しかし良い面には悪い面が同席している。価値ある/心地よいネットワークが構築されているということは、裏を返せば世界が閉じてきた、ということになる。そこだけで完結している、面白くない世界だ。
Blip.fm, last.fm, foursquare, friendfeed, Brightkite, flickr, facebook, radiko....こんなのは自然にやらないと意味がない、というのが僕の主義なんだけど、どうも新しいものに飛びつく以前の勢いが失われてきた様に感じる。
はてなブロガーHashは死んだんだよ。
ジャマイカ、イタリア。世界は広い*3。戻ってきて、どういう視点で物事を見るようになるのだろうか。その先には就職が待っている。さてさて。
最近は流石に危機感を感じて日経新聞Web版を契約してみたり(案外使い勝手が良い。特に携帯版)。でもGoogle Readerは再構成中だ。情報が多すぎて破綻して、今は遺跡状態になっている。これを再構築するのは、なかなか興味深い作業だ。
現在ぼくは仕事で「情報に翻弄されている(上司談)」ようなので、何かここにヒントがないかと思って、指に考えさせてみるとする。思考筆記、というやつだ。昔20分間筆記をやって案外面白かったのを思い出す。
あたらしいものと言えば、iPad。「新しいもの」がいろんな文脈で登場するこの社会。みんな、新しくありたい、と思っているのだろう。それはそれで面白い価値観かもしれない。
iPad、触ってみた。サクサク度合いが半端ない。Sでない3GのiPhoneとは比べものにならない。予想以上に大画面で快適だ。
しかしやはり僕は使い所がイメージ付かない。なくてはならないもの、というレベルまでは浸透しない様な気がするのだ。あの微妙に持ち運びしにくいサイズ。少なくとも僕にはイメージできない。
電子書籍の波を狙うには、少々早すぎる。
いや、早すぎるくらいでちょうど良いのか。
電子書籍と言えば、書籍のスキャンサービスが日本でも出て来た。
- BOOKSCAN(ブックスキャン) 本・蔵書電子書籍化サービス - 大和印刷
- 元祖?リアルタイム進行状況が見れたりと面白い。
- スキャンサービス(廃棄処理まで)のスキャポン| 本の電子書籍化、紙文書(書類)のスキャニング
- なんとなくうさんくさい(クリップアートっぽい絵とか、明らかに競争を挑んでる価格設定とか)
ほぼ無料と言っていいほどの低価格。どうやって稼いでるのかねぇ。
と思ったら、中身は純粋な肉体労働・単純作業・人海戦術。
あえて泥臭い部分を請け負うことで、新しいものを支える。僕には彼らが「サヤ取り」をしているように思える。先端を切り取って、マジョリティに投げ渡す。
普通の人はやらない「サヤ取り」を、あえて、率先してやる人は、新たな世界を拓く可能性にカケている。地図に画期的な意味を与えたGoogle StreetViewの裏には、地道なGoogle Carによる絨毯爆撃的撮影作業があったように。
スキャンに戻ると、僕自身は「スキャンは自分で行うが、裁断機は所有していない」半自炊派*4だ。大学生&院生時代に溜まった教科書類は、研究棟に置いてあった裁断機を利用してザクザク分解し、自宅のscansnapでPDF化してHDDに眠っている。まぁ、今のところ生物学やら有機化学の教科書を紐解く機会には出会っていない。
それにしてもTLで話題になっていたから思い出してパラパラ読んでみたけど、化学の新研究は神参考書ですね
化学I・IIの新研究―理系大学受験 | |
おすすめ平均 おすすめの本 これはおすすめです 受験化学の辞書としては最高の一冊 今までの参考書の中でかなりいいかも。 素晴らしい本だが注意! Amazonで詳しく見る by G-Tools |
そして脈絡もなく終わる記事。
ベンチャー新卒入社2ヶ月で僕が学んだ"仕事の進め方"
生物工学の大学院を修了し、金融系Web屋として働き始めて2ヶ月が経過した。
社長曰く「こいつは社会に適合できるのか心配だった」とのことであるが、まぁマイペースに日々の仕事を楽しんでいる。だっておもろいぜ。新しく知ることばっかやしな。
以前の記事でも書いたように、僕は「人間は誰であろうとも自前の意識/認識/記憶の枠から出ることは不可能」という(僕にとっての)真実*1を、言葉を変えながら繰り返している。
というわけで今日は、新入社員2ヶ月の時点でなんとなく見えてきた僕なりの仕事の"法則性"というか"核心"...の、鍵となるのではないかと思うものを書いてみる。
なるべく広く見渡そうとしても、限界がある。なにしろまだ2ヶ月で、そして僕はなかなかの阿呆である。そこで、ブログに書き留めていろんな人に見てもらう、というのが僕の取り得る方法の一つであると考え、不完全を自覚したままここに晒す。
まぁ、要するにいつもの戯言でありますゆえ、ごゆるりと。
こんてんつ
- 与えられる前提が不完全
- ブラックボックスの解体
- とりあえずそのゴミクズを晒せ
与えられる前提が不完全
生き延びるためには、与えられる情報を信用してはならない。それが入社して僕の学んだ核心の一つである(←やさぐれてるわけではない)
仕事が発生する。仕事を任される。
個別の作業をスタートする時、目的を達成するために必要な情報やリソースが最初から与えられると思ったら大間違いで、前提条件はいつでも不完全である。
これはひょっとしたらウチのようなドの付くベンチャーに特有なのかも知れない*2が、「さあやってね」と言われた時点では材料はスカスカだ。
ここが、あらかじめ答えの与えられている試験やらゲームと違うところであって、とにかく「その通り」にやってるだけでは破滅へ一直線に進む。
「さっき言われた作業やってたんですけど、ここだけうまくいかなくて」「あ、ごめん。ここは普通とは違う仕様なんだよ」
「これ必要だと思うんですけど...」「あれ、渡してなかったっけ」
個人的にはこれが面白い、と思うんだけどな。考えない単純作業よりも、考えるプロセスが入った方がいい。面白いと思うんだけど、哀しいかな、まだ"不完全な前提条件"の元で効率よく仕事を回すコツが掴めていない。
ブラックボックスの解体
さて。先の「前提条件は不完全」であるという事実から必然的に導かれるのは、仕事の全体像を最初から見渡すことは(僕ら新人にとって)不可能である、という悲しい現実だ。
簡単だと思ったPJが全く簡単じゃない。すぐできると思った作業に丸一日かかる。こーゆー時、めっちゃ悔しい。
僕はこの原因を「作業内容が具体的に見えていないまま作業時間を見積もってしまう」ことにあると考えており、この問題を解決する唯一の手段は、単純に、具体的になっていない作業を具体的にすることだ。
格好良く言うと"WBS"...Work Breakdown Structureとでもなるのだろうが、僕は、「中身が見えない仕事をぶちまける→どえらいものがたくさん出てくる」という個人的な経験/イメージから「ブラックボックスの解体」と呼んでいる。
ブラックボックスを渡されたとき、表面的にはとても簡単に見える事がある。そこで「簡単そうだから後でやろう」と置いておくと、いざ取りかかろうとして箱を空けたときにタスクがあふれ出し、期限内にとても終わらないことがその段階になって判明し、結果として破滅する。
だからブラックボックスが手元にあるなら、とっとと解体してしまうことが一番。具体的に落とし込んでから、対応を決めるのが安全だ。
ところが、どうしても、何を聞いても、いくら考えても、ブラックボックスをうまく解体できない仕事があったりして困っている。解体に時間がかかって、作業が進まない。アウトプットだけ見たとき、何も仕事していないように見えてしまう。
解体の方法がよく分かっていないのは「経験というストックが不足している」からなのか「考え方がそもそも違っている」からなのか。
「なんでそんな所まで見渡せるんですか」という疑問には、上司からは「純粋に経験だよ」という答えが返ってくる。確かにその通りなのかも知れない。しかし、もし仮に純粋な経験問題だとしても、ただ年を重ねるだけで*3同じものごとが見えるようになるのだろうか?そうではない、と僕は思う。同じ年数だけ社会人として働いた人間が、全く同じ能力を持っているかどうか、少し見渡して考えてみるとすぐ分かることだ。
とりあえずそのゴミクズを晒せ
「純粋な経験量の問題」である問題に対して、先人の知恵を借りればすぐ分かるのに自分で頑張りすぎて結局効率が悪い、という罠がある。副社長曰く「理系にありがちな完璧主義」であり、僕がよくハマる部分でもある。
先日、同僚であるところのid:rindai87と電話してて言われたこと。
Hashは簡単なことを知らないがために詰まってる、というパターンが多い。
一つヒントもらえば解決するとこかもしれん。
俺らはどうしても引き出し少ないんやから、ポッと誰かに聞いてみるといい。そもそも進む方向がわかってないとどうしようもない。
進む方向的なモノは、やはり先輩に聞かないとわからない。
僕は車輪の再発明が大好きなようだし、他人の考えた結論を分解してもう一回再構築しないと使えない人間なのかもしれないが、実際そんなことしてると仕事の文脈ではふつーに無能。
自分でゼロから考える、という性格の価値はそれなりにあると思っているのだが、上司の言葉を借りれば「仕事には制限時間がある」ため、自分なりにやってみてあるポイントで切り上げて先輩や上司に質問、という流れが一番効率が良い。
それほどまでコストをかけられない/価値を見出していない問題や、思考を深めるだけの材料を未だ持っていない問題に直面している時は、"パッケージ品"を利用すると良い。
思考を二級品に貶める局所最適解の害悪 - ミームの死骸を待ちながら
※ここでのパッケージ品=先人の知恵/経験/蓄積。
言い換えると「さっさと(議論の叩き台になる)β版提出しろや」ということになり、僕もこの法則性自体は自覚しているんだけど、"切り上げ所"を判断するのがどうも苦手らしい。
その要因として、僕がβ版として"ゴミクズ"しか準備できないことがある。加えて、僕は妙に(自分に対する)期待値が高いからか、ゴミクズを先輩/上司に「これ作ってみたんですけど...」と提出することに抵抗感がある。
そしてこの間、β版としてゴミクズを提出することができないまま本番に挑んで爆死するという失敗をした。本末転倒である。
その日、僕は「いざその場に臨むと自分がゴミしか準備してない/ポイントを外していることがよくわかる」のに、「じゃあそれを防ぐためにどう準備すればいいのか」がわかってない、ということに気が付いて愕然とした。なにもわかっていない。
どうも自分の中で設定している「β版」のハードルを、想定よりも大幅に下げる必要がありそうである。それほど僕は無能なのである。悲しいことに。
入社初日に「学生時代に覚えたことは忘れろ。仕事じゃ使えねえから」と言った上司の言葉が、今になってじわじわ来る。
そんなこんなでひとしきり落ち込んだ後「先人の知恵を取り込む割合を今より増やす」方針で努力し直す決断したのは、まだ今週のことだ。
発展途上も良いところ。途上はいいけど、どこかに繋がってんのかね僕は。
いじょ。
最初に「僕なりの仕事の"法則性"というか"核心"」を書くと言ったけども、いざ書いてみると新人ならではの不安が結構漏れ出ている。
まぁ、先が見えずに不安になることもあるが、僕に必要なのは、地面を確かに踏みしめて進んでいることを確認したら、後はとにかく日々を無駄にしないことだ。
いま見ているものをよく観察し、いま経験していることをよく記憶し、活かし、なんとしても次に繋げることだ。
発展途上の意志にとって迷いや不安が不可分なものだとするならば、僕に出来る最良のものごとはそういうことになる。
知恵の最後の結論はこういうことになる。およそ自由も生活も、日毎にこれを闘い取ってこそ、それを教授するに値する人間と言えるのだ、と。
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思考を二級品に貶める局所最適解の害悪
ある問題があったとき、個別の問題そのものは絶対的に唯一で、複製不可能で再現不可能な、正しく語ることの出来ない不確実な存在だ。
それにもかかわらず、どうも世の中は耳障りの良い二級品の「局所最適解」で満足されている概念で溢れかえっているように思える。
最も愚かな思考停止はそもそも考えようとしないことだが、最も危険な思考停止は少し考えた後に見えてくる局所最適解に辿り着いて満足し、それ以上思考を深めることがない、というものだ。
その解を見つけたときは局所最適解であるという意識はないことがほとんどで、これで良いと納得してしまう。そこで解決したつもりになっていて、より厄介な状況にぶち当たった後で「全然分かってなかった。あのときもっと考えとくべきだった」と反省することが多々あるのだが、よく見てみると、陥りやすい局所最適解には幾つかのパターンがあることに気が付いた。
そのパターンと、なぜその局所最適解が悪影響をもたらすのかという点、そしてどうすればそれらの悪影響を回避できると(僕が)考えているか、を書く。
こんてんつ
- 「ケースバイケース」という判断基準の害悪
- 「バランスが大事」というスタンスの害悪
- 「誰でも同じ」という一般化の害悪
- 「自分に合った○○」という丸投げの害悪
- 「現状はダメだ」という理想主義の害悪
「ケースバイケース」という判断基準の害悪
これは非常に便利な言葉で、汎用的に使える。そして一般的に正しいように見える言葉でもある。
「ケースバイケース」の何が悪いのか?確かに、マニュアル通りの対応しかできない人よりも、臨機応変に行動を変えられる人の方がトータルのパフォーマンスが高いことも事実だ。
しかし、行動ベースではなく、判断/行動基準が問題となっている時にこの言葉を使うことは、危険である。なぜなら、「ケースバイケース」という基準を示すことによって、達観した視点を持っているように"見せかける"ことが出来るからだ。
「ケースバイケースで判断する」と言うだけでは、臨機応変な判断基準を示しているようでいて、実際は何も決定しないことに同義である。
そこには条件分岐の事例が欠落している。
つまり、不完全な「ケースバイケース」の使い方においては、「入力がN個あって、出力は1個じゃなくてM個あるんだよ」と言っているに過ぎない。リアルな条件分岐の判断基準がブラックボックス化されていて、外側から窺い知ることは出来ない。
一方、あるべき「ケースバイケース」は、条件分岐すなわち「入力の条件がこうなっているときはこの出力」と言う決まり事を可能な限り明確にしようとする。
条件分岐がブラックボックス化されているか否かを見抜くようにすれば、"見せかけ"であるか否の判別はさほど困難でない。
回避するには
この汎用的でありふれてそれでも価値を減じることのない僕らのフレーズを効果的に使うためには、「それはケースバイケースだね」と言った後に、いくつかの具体例を示すことだと思う。
もしこう来たらどうする?別の可能性が持ち上がったらどう対応する?他の危険性は?別の対応策は?...こうして具体的な考えを突き詰めていれば、「それは場合によるね」で終わりようがない。
ここで終わってしまうということは、何のことはない、残念ながらそもそもイメージトレーニングが甘かった、というだけの話だ。
「バランスが大事」というスタンスの害悪
これも本当によく見かける不完全な局所最適解で、僕自身、よくここで止まってしまう。自分で使った後に「あーあ、下らんこと言ったな」と自己嫌悪に陥る。
「バランスが大事」または「ほどほどが一番」という、極端の反対、マイルドなそこそこを好むスタンス。これもまた、ただの言葉では現実世界において全く意味を持たない。
ひとつ確認しておきたいのは、そもそも世の中にバランスが大事ではないものごとなど存在しない、という点。
なんであれ極端が解となることはあり得ない。必ず、0か1ではなく微妙な最適バランスがあって、そこを探す過程こそがいわば本命、一番難しい作業である。
「バランスが大事」というスタンスは(少なくとも僕の考えでは)明らかな事実を言っているだけで、新しい情報量はゼロだ。その上にどのような過程でバランスを模索して、何をゴールとして、いかにしてあるべきバランスに到達するか、すなわち、過程部分に議論と思考と行動を集中すべきなのだ。
回避するには
これまた「ケースバイケース」の事例と同じく、バランスが大事、という姿勢を示した後にいくつかの具体例を続ける事だと思う。
僕の狭い観測範囲によると、バランスを取ることを許されない固定化した状況に長く居た人や、アンバランスを「良し」とする文化に浸ってきた人が、思考の自由に触れた後に「バランスが大事」という答えに辿り着いて満足してしまうことが多いように思う。
"バランス"の関わる話はいろんな人の価値観がモロに出たりするので、僕と同じ問題に直面した他人がどこにプライオリティを置いて何を目指してバランスを取ろうとしたのか、という貴重な情報を得ることが出来る。要は、抽象論で止まらなければそれなりに収穫はあるわけだ。
局所最適解を経由して個々人の真実に近づけるので、僕はわりと好きだったりする。
(欲を言えば、ここで自分のバランスの取り方を相手にうまく伝えられるスキルが欲しい...)
「誰でも同じ」という一般化の害悪
天が下に新しきものなし。
事実として、たいがいの事は先に誰かが経験しているものだし、前例を知ることで先人と同じ轍を踏まずに済んだり、より広い視野で物事を捉えるきっかけを与えることが出来る。一般化/抽象化によるメリットである。
しかし、「君の直面している事象はまったく特別ではなく、誰でも経験するよくある事である」という事実を突きつけることで、「だからどうした?いまは自分の話をしてるんだ」と、苛立ちを募らせてしまう。いや、別に気分を悪くする程度ならまだいいのだけど、先へ進むモチベーション自体を失わせる危険がある。
現時点の自分の視点が絶対であるかのように語ることほど馬鹿らしいことはないし、ましてや自分の認識を基準とし、「上の世界」に未だ気付かずにいる他者を見下すことは唾棄すべき愚行だ。
半端な優秀さを蝕むM2病の症状と、それにかこつけて吐き出される悶々とした何か - ミームの死骸を待ちながら
他人との視野の差異を許容できなきゃ一人で生きてろ。
比較的人生経験の豊富な人が、比較的人生経験の浅い人に対して語る言葉の中に「それは誰でも同じ」というニュアンスを込めることがある。
どんな文脈でも適切な具体例が出せる語り手は個人的に尊敬するのだが、あまりポンポン例を出しすぎるのも考え物で「それはわかるけど、今は自分の話をしたいんだけどな...」という"親父に説教される中学生モード"に入られてしまうと元も子もない。
悪意を持って言ってるわけじゃないなら、受け入れやすい雰囲気を作った上で伝える、というのもこみゅにけーしょんスキルの一つ、かもしれない。僕は偉そうなこと言えないけどな。
回避するには
僕自身、部活をバリバリやってきたり、バイト漬けの学生生活を送ったような同世代と比べて*1、下世代とうまく付き合う術を十分学んでいるとは言えないから、たまーに後輩や年下が問題に直面している場面を目撃したり、アドバイスを求められたりすると、この不適切な一般化をやってしまう。
失敗しがちな人間として反省を込めつつ、一般化をされた側の経験もある立場として考えてみると、まず、相手はその時初めての経験をしているわけだからその感情を尊重することが必要かと思う。
...と、ここまで書いた時点でもっと適切な一節を思い出したので引用しておく。
たいていの場合、人は外からの助言など必要ない。相手は本当に心の中を打ち明けることができさえすれば、自分の問題を自分なりに整理し、その過程で解決策も明確になってくる。
また一方で、他の人の助言や協力が必要な場合もある。鍵になるのは、相手の利益を考え、感情移入の傾聴をし、相手の立場で問題を理解し、その解決策を一緒に探すことである。玉ねぎの皮を一枚一枚剥くように、徐々に、柔らかい内なる核に近づいていくのである。7つの習慣, p.375
毒は、場合によっては薬として使える。「特別な経験を薄める」効果を逆に利用し、身の上に降りかかったイベントを重苦しく考えすぎているときに「そんなの誰でもあることだよ」と一声かけるだけで、だいぶ気持ちが楽になる。それで何度救われたことか。
「自分に合った○○」という丸投げの害悪
これまた一見正しい。
自分に合った投資プランを考えましょうとか、自分に合った仕事に就きなさいとか、自分に合った人と付き合うべきだとか...世に溢れている正論だ。まぁ確かにざっくり言って、オーダーメイドの方がパッケージより質が良いし、しっくり馴染むに決まってる。
確立された手法やコピー可能な事例といった"パッケージ品"が有用な場面は後述するとして、オーダーメイドが害悪となり得る危険性について少し語りたい。
まとめてざっくり言ってしまえば、世の中には「パッケージ化/ROM化へ向かう圧力」と「オリジナル/オーダーメイド礼賛文化」が同時に存在しているのである。そしてそれらはあるひとつの人間心理のもと、心の中に植え付けられている。
僕は、世の中にはオーダーメイド礼賛の文化が存在すると思っている。自分オリジナルのもの、特別なもの、フォーカスを絞ったものこそが素晴らしい、本当に価値がある、とする文化だ。ちょっと意識して周りを見てみると良い。良いこと言ってそうに見えても、オーダーメイドを褒めちぎって結論としている場合が案外あるから。
そのありきたりな結論に辿り着いた(あるいは文章や言葉を介して結論を与えられた)後に「ああなるほど、自分に合っていないと駄目なんだなぁ」などとわかった気になって、そこで満足してしまう。これでは実は何も得るものがない。
この悲劇が何に基づくものかと言えば、
自分に合った○○をゼロから組み立てる(時間/思考)コストを完全に無視している点
、である。
何であれ"ゼロから作る"という作業には、ものすごく手間がかかるものなのだ。
なんでもいいんだけど、僕の苦手なファッションを例として挙げてみてもだな。オシャレな人ってのは「自分に似合う服を着ればいいじゃん」などと軽く言う*2。いやそれがわかんねぇんだよ!!!(逆ギレ
いまざっと分解するだけでも、"自分に合う"ものを具体化するためには
- 前提や文脈を知らなければならない。
- 「合う」の定義を知らなければならない
- 自分が何を好むのか自覚していなければならない
これだけある。それなりの回答を見つけ出すのは簡単なことではない。
パッケージ品に溢れた世界で自分オリジナルの世界を構築することの難しさ/大変さは、想像を絶するものだと思う。オリジナルに辿り着くコストを無視して「自分に合った○○を見つけましょう」などと投げ捨てて結論としてしまう態度は、不誠実/不親切と言わざるを得ない。
逆に言うと、だからこそ僕は何であれ独自の世界感を持ってる人を尊敬するのだけど。
回避するには
とは言うものの、僕の考えでは「自分に合った」という切り口は実はかなり良い線まで行っていて、その後の具体的な思考を詰める手間を惜しまず、足と手を動かして経験を重ねる労を厭わなければ、本当の意味で「自分に合ったもの」すなわち個人的真実に突き当たる事がある。
その一方で、それほどまでコストをかけられない/価値を見出していない問題や、思考を深めるだけの材料を未だ持っていない問題に直面している時は、"パッケージ品"を利用すると良い。
前者は以下のフレーズが主張しようとすることとほとんど同じだ。
不要なフィールドでまで戦わなくて良い。相手の挑発をことごとく買ってやる必要はない。全ての問題に立ち向かわなくて良い。捨てるべきものは捨ててやれ。肩の荷を下ろして、自分の持っているもの、本当に取り組むべき問題に目を向けてやれば、それでいい。当事者でないことは必ずしも罪ではない。あなたも私もROM上等、世界はROMでできている。
世界はROMで出来ている。 - ミームの死骸を待ちながら
そして後者「思考を深めるだけの材料を未だ持っていない」状態とは、今までの積み重ねが使えない"初めて"のことを指している。"初"体験に対し、過去の経験から「自分なりの解答」を見つけ出すことは残念ながら土台無理な話だ。
仮説として使う分には悪くないが、試行錯誤なしに解答にたどり着けると思わない方が良い。というのも、社会人になって仕事をやってると、まったく"初めて"のことばかりで、経験の中から何か使えるものを探すよりも、外部にある「既存の解答/先人の知恵」を求めた方が圧倒的に早いのだ。
僕は自由意志や決定や裁量を重視する価値観の下に生きている...つもりであるが、"初めて"の環境下において、自分の価値観・判断を過度に信頼することは、それはそれで問題を引き起こすのだろう。そこで、パッケージが重宝されるわけだ。
「現状はダメだ」という理想主義の害悪
「理想の○○」は「自分に合った○○」よりも現実味のないものだ。というよりも、「理想の○○」は現実には存在し得ない。
法則も人間も組織も社会もシステムも、完璧な状態を理想として語ることは出来ても、実際はどこかに綻び/矛盾/誤りを内包している。不完全な世界。
そうした前提の下に「何かの批判点をあげつらう」ことは、お手軽かつそれなりに気持ちよくなれる特効薬だ。仲間と一体感を得るための効果的な方法にすらなり得る。
しかし生産的とは言えない。
まぁ生産的な否かであらゆる行動をばっさり切ってしまうつもりはサラサラないが、なんでも悪い点をあげつらうことは簡単で、良い点を見つける方がよっぽど難しいものなのだ。他人をせせら笑うのは誰でも出来る。問題は他人を見て自分がどうするか、という所に集約されるべきである。
「簡単な行動/思考に流れる」という性質は、局所最適解に吸い込まれて動こうとしない人間の性の本質を成すものであり、その意味でこれは最も局所最適解らしい局所最適解である、とも言える。
回避するには
理想の人間に見えても必ず欠点がある。理想の環境だと思っても必ずズレが生じる。まずはその覚悟を持っておくことだ。これが大前提。とりあえず変動幅...予測値からどれだけ下がる可能性があるかな、という幅を見込んでおきさえすれば、ショックは少ない。
理想というのは考えているとテンション上がるし楽しくなってくるものなので、ついつい現実もそのままの勢いで具体化するんじゃねーの!?という期待を持ってしまう。そしてそこに辿り着かないと、ガックリ来てしまう*3。
しかしここまで徹底的に完膚無きまでに計画通りにならないと、逆に面白くなってくる。もういい、計画なんて捨てろ。どうせ思った通りにならない。そんでもって、思い通りにならない方が、後から見て面白い。
「計画は無駄」ただひとつ大学新入生の自分に叩き込みたいこと - ミームの死骸を待ちながら
現状が理想や想像と違う場合にはリセットしてしまえ、とする思考がある。現状が駄目だからリセットして最初から別の道を選んでみよう、とする行動方針だ。選択をやり直す。人間関係を切り捨てる。僕はこの思考をスーファミのリセットボタンから学んだ(学ぶな)。
しかし最近は、リセット思考はあまりよろしくないな、と思う。実際は現実に直面してみないとわからないものだし、"詰み"に思えても案外道は先に続いていたりして、どうもリアルな生活というものはTVゲームと違って、ゲームオーバーになった後に別のゲームが開始されるようである。どうしようもない現実に直面したとき、どう反応するか。それが、リアルな価値を決定するに違いないのだろう。
いじょ。
人は安易な局所最適解に捕らわれやすい。そういう風にできている。
ここまで挙げた局所最適解は、基本的に正しいからこそ厄介だ。
考え方として間違ってはいない。間違ってはいないものの、"結論"と見なしてしまうと"不足している"...そんな微妙な概念たちである。一般論・極論・虚言を弄した戯言。すべて不確実を不確実のまま許容できない人間の創り出した局所最適解だ。
別に僕も、いつでもどこでも考え尽くさないと気が済まない人間というわけでもない。だからてきとーに話すときはてきとーに話す。これらの局所最適解は中途半端に正しく、それ故に、てきとーに話を合わせたいときは便利だ。
また、局所最適解の存在をフィルターとして使うことも出来る。僕は文章*4を読むとき、リズムが心地よいと内容にかかわらず引き込まれてしまうんだけど、それは別として、まず結論が当たり障りのないものに収まっていないかを気にする。
結論部分に前述の"局所最適解"と見られる記述がある場合、どうせ無難な内容しか書かれていまい。知っておくべき情報がなければ、ざっと目を通して終わり、にすることが多い。
ただ、中途半端な達観や悟りは、未熟さの裏返しの強みとして存在する"不確実性"を薄めてしまう。
結局の所、僕は「人間は誰であろうとも自前の意識/認識/記憶の枠から出ることは不可能」という(僕にとっての)真実を、言葉を変えながら繰り返しているようであるが、かといってそれに絶望しているわけでもない。
人間はものごとの正しさを追い求めている風を装って、その実、自己の正当化、優越感、存在証明、他者からの受容や評価を切実に探し求めているケースがかなりの割合で存在する。この事実を他人から隠し、自分でも気付いてないふりをすると、悲劇が起こる。
個別具体的な問題に対しては、個別具体的な解答によってのみ、出口を見出すことが可能である。
局所最適解に留まらず個別具体的な解答を追い求めることを意識していると、「答えは人の数だけある」という言葉の深さ/存在感が、今までとは違った意味を持って浮き上がって来るような気がする。
CDや書籍の発売日にメールで通知してくれる「お知らせメール」が地味に便利
ところで5月12日はスガシカオの新アルバムの発売日でした。FANKASTiC.
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この発売日すっかり忘れてたんだけど、会社にいるときにメールが届いて、いけねーと思ってiPhoneから初回限定版を逃すことなく購入できました。↓こーゆーサービスを使った。
某所で知り合った友人がやってるサービスで、まだ構想段階の時に話を聞いて「あーそれ便利やわ」と思ったんだけど、リリースされて実際使ってみると確かに便利だったのでブログで紹介しようという話。うむ。
アーティスト:スガシカオ
タイトル:FUNKASTiC
発売日:2010年05月12日
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こんな感じのメールが来る。僕はGmailで受けたけど、本文はこれだけなのでケータイで受信しても鬱陶しくない*1。
Amazonの情報を取ってきてるみたいなので、ここに網を張っておけば間違いない感じ。Amazonに吸収されたりするExitもアリかしらん。
送信元がalert@...だったり、メール本文に隠すつもりもなくアフィリエイトIDが記載されていたりと、かなーり荒削り感があるけど、普通に便利だ。気に入った。
(いまのところ)宣伝メールみたいなものもナイし、ぱっと思いつくワードを登録しておいても損はない、と思う。
余談。リアルの僕と最近会っている人は知っているかも知れないがここんとこ旅行代金カード請求と連日の飲みの波状攻撃を受けて初任給も尽き絶望的に金欠でして、お前のどこにCD買う余裕があるんだというツッコミを見越して説明しておくと、ブログのアフィで稼いだAmazonギフト券がその答え。記事最近書いてないのに、向こう半年は本代に困らない程度には収入がある*2。余談終わり。
まぁ個人的に一番の問題は、アルバム買ったは良いけど引越時にコンポを処分してMacbookをDBCLSに返却した僕の手元にCDを再生できる機器がないという一点だろうか。
...iMac欲しい。