Twitterの先にある「いまここにいること」の価値
誰の話だったか忘れたが、靴磨きがどの株を買えばいいかという話題を持ち出したのを見て、バブル崩壊を予期して市場から手を引いた、という逸話がある。
Twitterの話だ。かなり大衆化が進んだと思う。もうそろそろいいかな、という感じがする。radikoを試しに聞いてみたらいきなりTwitterの話題だし、ドラマにも取り上げられ、「ジャンプ」にも登場するようになり、ろくに使ったこともない人が利用方法を議論している。Twitterビジネス?頑張って下さい。
それでも僕がTLを去れないのはそこで形成された他人とのネットワークに価値を見いだしているからであり、そこには好きな人たちがたくさんいるからなんだけど、残念ながらTwitterそのものは僕にとって既に魅力的なツールではなくなってしまった。みんなやってることをやって何が面白いんだ(本音)。
後付けを百も承知で言ってしまえば、Twitterは新しい概念でも何でもなく、ある意味で「コンテンツの可視化」が極限に達したものではないかと思う。
可視化の極限。
コンテンツとは要するに、人の頭の中から出て来たなにものか、である。
かつて、コンテンツを具現化するためには大きなハードルがいくつも存在していた。自らの脳内に存在するコンテンツ(=ミーム)を広く世に問うためには発言力がなければならず、電波に乗らなければならず、その地位を獲得できる層はまさに選ばれた人間で構成されていた。
そして今更ながら、陳腐ではあるが、先の議論のために僕はここでそれらのハードルを壊した物のひとつとしてインターネットを取り上げる。ネット上に書いた日記やCGI掲示板に始まるテキストベースの思考の流出、それに次ぐ(主として技術の発達に伴う)リッチなコンテンツの増加、まぁこのへんは大してものを知らない僕が書く迄もないだろうから省略する。
そして脳の中のミームが流出してコンテンツとなる方向性の中、ひとつの概念を突き詰めたものが、Twitterなど*1の志向した、「極端に短い思考の断片の集合体」をそれらしく見せる・まとめる・アレンジするフィールドではないかと考える。
140字という濃縮されたコンテンツ*2をこれ以上断片化することは不可能の領域に近いし、まぁ実際の所、可能ではあるが意味はない(もう名前も忘れた*3が、140字ではなく"14字"制限のサービスが一時期出たが、その本質は何らTwitterと違えるところがなかった)。
コンテンツがこれ以上断片化できないならばどうするか。個人的にはさらに"正当"な方向性を突き詰めて、コンテンツが構成される脳内の過程・言語化される前の要素、といった部分を狙うと面白いと思う。言葉に表せない人間の直感とか、ふとした瞬間の感情とか、測定観測不可能な、それでいて確かに存在するなにか。そういったレベルまでフォーカスを絞って行くと、すげー面白い世界になると思う。...のだけど、こいつは少なくとも今の時点ではSF以外の何者でもない。
そうして夢想を諦めた僕が最近なんとなーく「これ面白いなぁ」と思っているいろいろなもの、それらをひとくくりに表現する言葉が見つかった。
「いまここにいること」、というフレーズがそれだ。
いまあなたがそこにいること、いま僕がここにいること。未だ決して崩れることのない大前提、どんなに見える世界が広がろうと、ひとりひとりはせいぜい2mそこそこの人間サイズの存在であり、各自の認識の枠はどう足掻いても人一人のアタマから出ることはないという限界。
逆説的ではあるが、人間の存在をどこまでも希薄にすることの可能な潮流の中、そういったものの持つ「価値」が浮き彫りになる。
ちょっと脇道に逸れると、「いまここにいること」の反対は「ここにいないこと」「ここではないどこか」という概念で、その最たる物はネットゲームであると思う。ラグナロクオンラインとかFF11とかのアレだ。ネットゲームでは、いま自分自身がどこに居ようと、全く同じ世界へとアクセスできる。現実の世界からほぼ完全に切り離された世界にログインする。仮想世界の中における自身の価値を高めるために存在しており、いま現実のユーザーがどこにいるか、という情報が全く考慮されない。
本題に戻る。「いまここにいること」というフレーズは、人間一人にフォーカスを当てるものである。
回線が強化されデバイスが発達し、視覚聴覚嗅覚触覚もろもろの神経と電気回路との距離が徐々に縮まり*4「どこにいても同じ」という志向が強くなればなるほど、「いまそこにいること」に価値が生まれるようになる。
なぜならば「どこにいても同じ」であればあるほど、どうしても、絶対的に、物理的に理論的に「そこにいなければできないこと」が特別なものとなって行き、世界のフラット化が進めば進むほど「いまここにいること」に対する価値が高まると考えるからだ(このへんはもっと議論したいところ)。
「いまここにいること」というフレーズを抽出するに至った、僕が「おもろいなぁ」と感じたいくつかのサービスは、「まちつく」などの位置ゲーであり、「Foursquare」であり「BrightKite」である。(まだあったような気がする。思い出したらまた追加するかも知れない)これらのサービスはその人個人にフォーカスを当てており、今どこにいるか、その人がどんな人間であるか、そういったファジーな情報をなんとかフォーマットに乗せようとしている面白い試みであるように、僕には見えたからだ。
どんなに戯言を吐こうが、どんなに虚勢を張ろうが、どんなに理論で武装しようが、結局人間はどうしようもなく認識の枠に閉じ込められている。
だったらそれを逆に価値にする。これは新しい概念でも何でもない。購入履歴を分析して個人ユーザーに特化したオススメ商品をレコメンド、なんて昔からある。新しくもないものを新しい新しいと騒ぎ立てるのは、その方面に無知な人を乗せるためには有効ではあるが*5、お世辞にも本質的であるとは言えない。
もう一度言うが新しい考え方でも何でもない。けれど、無限の可能性があるように見える*6世の中を生きるに当たって、僕にとっては腑に落ちた切り口だったので、こうしてどうにか言語化を試みた次第だ。なにぶん時間がない中、ダーッと勢いで書いてしまったので、記事の反応などを見てまた考えを深める機会を持てたらいいなと思う。
さていつものように戯言をまとめる。
妄想をふくらませて広く見てみると、Twitterの大流行は、「コンテンツのミクロ化」を極限まで推し進めたことによる時代の徒花のように見える。その命がつきる瞬間にひときわ大きく輝く、最後の灯火のように思える。バブルが崩壊する直前のお祭り騒ぎに感じる。
このTwitterの波に乗るのも達観するのもガン無視するのもその人の自由で、僕はまぁ、結構初期から使ってるんだけどなー、と、小学生の時から目を付けていた女の子が成人して美人になってそらみたことかと、周りにちやほやされている様子がなんとなく気にくわないようなそんな感覚もあるけれど、まぁ、この流れを"おもしろい"と感じている。最初に言ったようにTwitterそのものに魅力は感じなくなってしまったが。
この先に何があるのか分からないし、ひょっとすると何もないのかも知れないが、僕はTwitterの先を知りたいと思う。おもしろいことを知りたいと思える僕は、まだ生きていると実感できる。
「計画は無駄」ただひとつ大学新入生の自分に叩き込みたいこと
ずいぶんと遠くまで来てしまったような気がする。前回のブログ更新を見ると2月末とのことで、まるまる1ヶ月以上放置していたことになる。期間として考えると決して長いとは言えないが、その間に起こったイベントの濃厚さを考えると、もっと昔のような気がしてくる。
ジャマイカに行ってきた。イタリアにも行ってきた。人と生活を共有した。跡を濁して大学院を卒業し*1、引越して環境が変わり、社会人として働き始めた。
というわけでただいま。更新を待つ人がいるのか居ないのか、ソロモンよ私は帰ってきた。ほんのちょっとでも楽しみに待っていてくれた人が居たら嬉しいのだけど。
ここに来るまでの1ヶ月少々で僕に起こった変化は大きかったと思う。見たもの感じたもの、新しく知ったこと、失敗したことや成功したこと、失ったものや獲得したもの、既に失っていた/持っていたことに気付いたもの。そうしたものごとを僕は貴重だと思う。大切に感じる。しかし、それらが僕の精神と思考にもたらした影響を語るには、もう少し時間が必要だ。徐々に言葉にしていこうと思う。言葉の力は恐ろしい。
ひょっとすると「遠くまで来たと感じる」のも今だけで、しばらくすると慣れてしまい、ただ日々の生活に追われるのだろうか。徐々に言葉にしようと思っていたら、学生の自分と今との間に断絶があったことすら忘れてしまったりするのだろうか。環境に適応すること自体は決してマイナスなものではないけど、そういった日々には埋もれたくないと思う。
だから「過去からの距離」を痛切に感じる今、まさに比較対象になっている大学新入生の頃の自分に言いたいことはただ一つ。
計画は無駄。
これに尽きる。
僕は、自己啓発系の本を読んで、5年計画だの人生計画だのを立てて見たことがある。そこに書かれた理想と現状のギャップを測定して、それをシステマティックに埋めていくことで夢を実現できる...という触れ込みだ。先日行った外部のビジネスマナー研修でも同じことを言われた*2ので、案外社会のそこここにあふれており、それなりに信奉者を持つ概念ではあるのだろう。
さてそこで、何度か立てた長期計画を眺めてみる。(新年を迎えてヒマだったりして)状況が大きく変わるごとに立てたものがいくつかあるんだけど、全く以て計画通りに進んでいない。アメリカへの留学も、博士号の取得も、プログラマーとしての学部就職も、卒業後の高飛びも*3、現実のものとはならなかった。
その理由は、前提としていた状況が崩れたとか自分の嗜好ががらりと変わったとか出会いやら別れやらによって人間関係に変化があったとかもっと魅力的な選択肢に出会ったからだとか、まぁいろいろだけど、一番重要なことは、紙の上で立てた計画の斜め上を行く面白い状態にジャンプアップし続けて、いまここに来ているという事実だ。
まぁ、20歳かそこらの未熟な想像の範囲内に収まらないNonlinearな学生生活であったというのは、誇って良いことだと僕は思う。
しかしここまで徹底的に完膚無きまでに計画通りにならないと、逆に面白くなってくる。もういい、計画なんて捨てろ。どうせ思った通りにならない。そんでもって、思い通りにならない方が、後から見て面白い。
ちなみに少々脱線すると、計画は無駄だからと言って、将来を見通そうとする努力までも無駄というわけではないので、念のため。これはこれで重要な知見となるし、自分の現在地を確認して地に足を付けていることは、いつだって大切だ。それに、そもそもLinearな数値目標や継続目標には、むしろ計画を立てた方がうまくいくだろうと思う。問題はLinearじゃないものにまで、「計画」を適用しようとするその姿勢にあるのだろう。
さらに脱線すると、僕は「ストーリー」を重視する。現在とは異なる前提条件に立っていた自分が描いた「ストーリー」を後から見直すことは、それはそれで楽しみの一つになっている*4。まぁ、半分趣味かもしれない。脱線修了終了(プログラム的にはbreak;?)。
まぁ、こういった「計画の無意味性」はここ1,2年でうすうす感じては居たのだけど「想像力が足りないのではないか」「もっとこまめに分析修正すればちゃんとした計画が立てられるんじゃないか」とか思って足掻いてて、今回「学生→社会人」という変化を経験して*5、そのギャップの大きさに「こりゃそもそも予測不可能だろ」「ってことは今まで計画がうまく行かなかったのも...」となったのであるが、しかしまぁ、
あと何回、大きな変化を乗り越えることになるのだろうか。
人はその時その時で"限界"を持っており、その限界を超えるプロセスを繰り返して行く。
半端な優秀さを蝕むM2病の症状と、それにかこつけて吐き出される悶々とした何か - ミームの死骸を待ちながら
と自分でも書いたけど、"限界"の次の世界が今と違いすぎて、体力と精神力を喰う。強靱であるか、もしくは柔軟でなければ乗り越えてゆけない。
人生は長すぎる。いや、短いんだけど、厚すぎる。重厚すぎる。あまりにも先が存在し過ぎる。何が存在しているのかはわからないが、存在し過ぎていると感じる。そして道が長い事が予測できても、やはりどうしようもなく人間一人の認識の枠は越えられないから、僕は地道に進む(...ふりをしながら、ショートカットを見極めようと試みる)ことしかできない。
いつの間にか遠い所に行ってしまいそうな人間がそのように見えるのは実際に何回も何かから遠ざかることを繰り返して今そこに来ているからであって。
自分の無能力と常識のなさを痛感する毎日で、飲み会でハジケられない性格は相変わらずで、電話で社内の人に「さん」を付けてしまうし、彼女と会えなくて寂しかったりする。それでも仕事は楽しい*6。吸収することがたくさんあって、良い先輩/上司がいるし、任される(というか投げられる)仕事を見て、とっとと使える人間にならないと、と強く思う。どうやら僕の会社選択は間違ってなかったようだ。
今持っているものを手放さずに先に進めるかどうかわからないが、覚悟してやってみるしかない。なんかもう色々足りねーし困ったもんだけど。
決断、個性、自由意思。そういったものが守られていさえすれば僕は大抵の困難は歓迎したいし、幾分かの不条理も容認したいし、極稀に破滅に向かうことも辞さない。嘘だけど。計画なんて立てなくても瞬間をコントロール出来さえすれば、地球の裏側にだって行けてしまう。
願わくは先に存在する未来も非線形なものであることを。
太平洋の上空で知らないという事実を知らないことについて語るとき
DALLAS FT WORTH空港へ向かう飛行機の中でこれを書いている。なぜFT WORTHなのか。DALLAS空港ではダメなのか。
僕が海外に出るのは2005年の夏、2008年の秋に続いて3度目だ。
最初の海外は19歳の頃*1で、アメリカ・オハイオ州・クリーブランドの病院に勤める大伯父宅を尋ねた。大伯父さんはニューヨークからナイアガラの滝までいろいろな観光地を車で回ってくれた。日本以外の国を「見る」ことによって僕の認識は大いに広がったが、今にして思えばあまりに受け身すぎたし、時間と資金とその他諸々を僕のために投資してくれた周囲に対する感謝の念というものが足りてなさすぎた。
次の行き先もアメリカ。この渡米話は、iGEM(International Genetically Engineered Machines Competition)と呼ばれる"バイオのロボコン"とでも言うべき国際的なcompetitionに所属大学がたまたま日本代表の一派として参加していたことを、友人経由で知ったあたりまで遡るのであるが、ともかく僕はこのiGEMチームに無理を言って関わらせてもらい*2、"アドバイザー"とは名ばかりの結局ほとんど役に立たなかった木偶の坊ポジションを立派に勤め上げ、ボストン・MITで行われるJamboree*3にちゃっかり参加した。
そして、このとき勝手に師匠などと呼んで慕っているKGCの柴田さんがたまたまアメリカにいたので(いつも世界各国をふらふらしててどこで何やっているのかわからないあたりが素敵)途中で合流して金魚の糞のごとく一緒に行動させてもらった。柴田さんと居るとおもしろいことがありすぎる。たとえばMITで紹介して頂いたYさんという方がいて、Yさんは日本で会社をやっていながら現在MITの生徒としてボストンに滞在しているのだけど、後日Yさんが帰国した際にBBQに誘われて会社まで遊びに行ってみると、実は内定先(センティリオン株式会社)と業務内容がモロ被りだったりと、いやはやあの頃は興味拡散とconnecting dotsの最盛期であったように思う。ゆっくりした結果がこの修論だよ!
そして2010年2月、ジャマイカ。ここまで来るに至った経緯については次回以降の更新に譲るとする。今は、縁とノリと好意に感謝を。というか、僕はどうしてこんなにまで人に恵まれているのか意味が分からない。
んでもって来月はイタリア旅行を予定している。最後の学生生活なので、機会の稀少性を考えてちょっと無理してみた。これは完全自由旅行で、飛行機はもちろんホテルやら観光計画まで自分で考えて彼女さんと一緒に行く計画なのだけど、マイペースの極みである僕のこと、自分勝手な一人旅に比べて色々考える必要があってめんどくさいかなーと思いきや、案外コレが楽しい。妄想族故に、どうすれば喜んでくれるを考えるのが面白いのかもしれない。センスのよいものに関するアンテナは僕よりも彼女の方が圧倒的に高いから、二倍美味しくなりそうな気がするし....まぁ、この旅行もそのうち何らかの形で語られることだろう。
しかし、僕は語ろうとして語らずに終わる経験が多い*4。たいてい語ろうとすると長々と記事を書いてしまうため更新のハードルが高いことが理由なのだが、もうちっと気軽にさっくり長文を書きたいものだ。結局長文は書くのな。
しかし2、こうして海外経験を(純然たる自分語り欲求のために)つらつら書いてみると、「限界を突破せざるを得ない状況に追い込む」などと過激なことを書いているワリに、案外ゆるやかに「自立」しているような気がする。やれやれ。
ちなみに、来年からの同僚であるid:sukekiyo886は今ノルウェーで折り紙を売って生きている。会社の支援を得てこんな無茶が出来る環境、そうそうない。
ノルウェーで折り紙売ってきます! - 八つ墓村より愛をこめて〜The Grateful Crane edition
知らないことについて語るとき
さて、太平洋の上空で今まさに日付変更線を超えつつある僕は、ジャマイカを知らない。一般知識としての情報やストーリーは脳内にあるけれど、純粋な体験として、知らない。
だから僕は、知らない状態で、何を知ることになるかを語ろうと試みる。
世の中には二種類の知らないことがある。知らないという事実を知っていることと、知らないことすら知らないことの二種類だ。
想像が現実を超えるとか、現実を知らない方が画期的な発想が出るとかそういう話じゃない。
知らないという事実を知っている「知らないこと」に関して"知らない""語らない"という形で語ることは可能だが、知らないことすら知らない「知らないこと」を明示的に語ることは出来ない。知らないことすら知らない「知らないこと」を示す方法は、唯一、知っている限りを語り、その輪郭から逆算して「ひょっとしたらこういうことを知らないのではないか」と推測することしかない。
だから僕は記録を重視し、そのとき知っているものごとの一部分でも書き残そうとする。僕の見てきたもの、してきたこと、考えて来たこと、僕の見ているもの、していること、考えていることを形に残すことを好む。そうすることによって、そのとき書き記した自分自身が、それを読んだ他人が、そして将来の自分が「知らないことを知らなかったが、今では気付けるかも知れないものごと」に気付くことを祈っている。
祈りは言葉で出来ている。言葉というものは全てをつくる。言葉はまさしく神で、奇跡を起こす。過去に起こり、全て終わったことについて、僕たちが祈り、願い、希望を持つことも、言葉を用いるゆえに可能になる。過去について祈るとき、言葉は物語になる。
好き好き大好き超愛してる。
話を戻そう。僕がジャマイカで何を知ることになるのかは(前情報からいくつかの予測は立てられるものの)わからない。わからないが、なんとなく期待している「気付き」のイメージはある。
みんな大好きストレングス・ファインダーの結果によれば僕の"強み"第二位は「内省」である*5、とのことなのだが、最近はどうもこの内省志向が強く出過ぎているような気がする。
ここ1,2ヶ月の記事を見て見ると
- 半端な優秀さを蝕むM2病の症状と、それにかこつけて吐き出される悶々とした何か - ミームの死骸を待ちながら
- 性格は変える/直すのではなく「追加する」 - ミームの死骸を待ちながら
- 否定されることを恐れるな、否定することを恐れるな。拒絶によってそこに輪郭が生まれる - ミームの死骸を待ちながら
- 世界はROMで出来ている。 - ミームの死骸を待ちながら
この通りだ。自分の内面から何かを語ろうとしたり、何らかの思想上のスタンスを説明することを試みる記事を、戯言という防護壁で包みながら書き記している。ま、修論で好き勝手に動けず鬱々としていたのかも知れないが。
ストレングス・ファインダーによれば「内省」という資質は次のように説明されている。
あなたは考えることが好きです。(中略)内省という資質は、あなたが何を考えているかというところまで影響するわけではありません。単に、あなたは考えることが好きだということを意味しているだけです。(中略)この内省という資質により、あなたは実際に行っていることと頭の中で考えて検討したことと比べた時、若干不満を覚えるかもしれません。(中略)それがどの方向にあなたを導くにしても、この頭の中でのやりとりはあなたの人生で変わらぬものの一つです。
考えることが好きな僕の気質はある意味で長所でもあるが、別の面から見ると弱みでもある。内省に偏りすぎるのは良くない。だから、このジャマイカ訪問が、内省側に触れすぎた僕の振り子を大きく逆側に振ってくれるのではないか、という期待をしている。
頭じゃわかってはいるんだけど、身体に定期的にすり込まないと、経験は僕の頭からほわほわと抜けていく。いや、経験は消費されていくイメージが近いかもしれない。身体を使って得た体験は僕にとって思考の燃料のようなもので、いろいろなものを見聞きした後はそれをネタにして思考することが僕の常であったし、これからもそうであろうと思う。たとえその思考が的外れで無意味であったとしてもだ。
「日々を楽しく生きればいいやー」というスタンスは潔しと思うし嫌いじゃない、むしろそういうさっぱりした人にはどちらかというと好感を覚えるのだけど、幸か不幸か...否、ただ単に、僕はそういうふうには出来ていない。それがどんな経験であっても僕は意味を見つけたいと願うし、嘘でも良いから答えのようなものが欲しいと祈る。答えがないと分かっていても、たぶんこの欲求を抑えることは不可能だろう。
「経験」という燃料が無くなると、僕の中の「内省」という怪物は、自分自身/自我やら他人やら世界やら、そういったメタメタメタなものごとを食いつぶすように思考の炎を燃やして行く。その光は今まで光の当たっていなかった自分の姿を明らかにするかも知れないし、自分が世の中についてどう考えているかを文章として明確化するきっかけを与えるかも知れない。それらを以前の姿と比較して差分を取り、なるほど確かに変化していると確認し、悦に入るかもしれない。
しかし燃やしているのは自分自身や、メタメタメタ的な状況に過ぎない。それらは燃やされるべきではない。燃やし尽くされるべきではない。少なくとも、そう頻繁に思考の対象としてはいけないものごとなのだ。
だから僕は燃料を仕入れに行く。こう書くと静的なイメージになってしまうか。
prepaired mindのみが、刺激による思考の変化を可能とする。僕は何に対して準備が出来ていて、何を見過ごしてしまうのだろうか。どんな「知らないことを知っていた」ものごとに出会い、どんな「知らないことすら知らなかった」ものごとを発見するのだろうか。
僕のために労力を割いてくれる人の好意や、帰国を待ってくれる人の存在とか、先週帰郷して食った讃岐うどんがうまかったなーとか、上のようなぐたぐだ思考をキーボードに打ち込む今この瞬間とか、春からの社会人生活が楽しみでしょうがないとか、新居の契約・投げっぱなしにしてきた研究室のタスクといった、僕が実在の人間として生きているが故に生じるリアルなものごとや、そういった全てを含めて、なんつーか「良い」と思うし、「おもしろい」。変わる気質もあるけど変わらない「核」も相変わらずで、ともかく、それが今の僕の思考だ。
宗教の悟りじゃないけどな。
悟りと言えば。飛行機の窓からみた風景は素晴らしかった。雲が物質として存在することを僕自身の目で確かめられた。飛び降りたら着地できそうな実在感を持って、いつもは頭の上にある雲が、眼下に広々と存在していた。太陽が遠く"雲平線"まで赤い光を残しながら沈んで行く光景は、これを目の前にポンと広げられ、さてこの世には神が存在しますと言われればはいそうでしょうねと信じそうな荘厳さを備えていた。
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さて。上の文章自体は飛行機の中で書かれた物だが、僕は今ジャマイカからこの記事を更新している。
今僕が確実に言えるのは、
水がない。
学校のプールの水を使って手動水洗便所や!...ちょいと蛇口をひねると水が出る日本って素晴らしい。。。内省とかいってる場合じゃないですね。素晴らしい。
半端な優秀さを蝕むM2病の症状と、それにかこつけて吐き出される悶々とした何か
大学院への進学は少しばかりのオツムの増大と引き換えに、かけがえのない若さ、素直さ、柔軟な姿勢を失わせしめる。
2年前、より正確には2年9ヶ月ほど前、僕は所属大学の大学院へと進学することを決定した。そこそこの成績を維持することにより得た院試免除という餌は、行動の動機の大半を「めんどくさいか否か」が占める僕にとって、それを振り切って無数の大学院を再び選択肢として並べ直させるには、あまりに魅力的に見えた。
斯くして僕は大学院に進学した。その先にはたくさんの院生がいた。技術者がいた。教授陣がいた。また、僕は主としてインターネットを介してさらに多くの院生と知り合うことになった。生物系も居たし、化学系、物理系、情報系、社会科学の院生もいた。
ともかく終了間近となった*1大学院生活を振り返って、どうも人間は専門化が進めば進むほど、ある種の気質を備えてくるらしいことを発見した。
これは決して全員に当てはまるものではないし、僕自身もその気質から完全に逃れられているかと言えば怪しいものだが、一般的な傾向として存在するものだと僕は考えている。この傾向を、ここではM2病と称することにする。
もちろん中二病・高二病・大二病と続く一連の"言葉遊び"の延長だと考えてくれればいい。M2病を煩う人は必ずしも大学院博士前期課程の二年生とは限らないし、そもそも大学院生に限った話でもない。学生として、教師として、アルバイトとして、会社人として、指導者として、後輩として先輩として、親としてあるいは兄弟姉妹として、あらゆる人があらゆる状況下においてM2病的であり得る。これを書いている僕自身も例外ではない。
性格は変える/直すのではなく「追加する」
シューカツに染まって自分を見失っていく行くあいつに。自分に自信が持てず身動きの取れないあなたに。自己規定から抜けられないあの人に。視野が広がり、変わることを恐れているあの子に。
人間は変わることができるのか、それともどうあがいても変わることは不可能なのか。そういったことについて僕の考えを書いてみたい。これは決してオリジナルのものではないし、僕自身が完全に習得しているわけでもないが*1、現在の僕が「こうなんじゃないか」と考えるイメージを言語化してここに残すものである。
けだし、性格というものは「変える」「直す」よりも「追加する」という認識で見た方がいい。...これが僕の言いたいことの全てであり、この時点で「ああ、なるほど」と思った人はこれ以降の文章は読む必要はないんじゃないかと思う。
こんてんつ
- 設問の不完全。
- 抽象化の必要性とその罠。
- 「レッテル」デジタル変化の不可能。
- 性格を追加するということ。
- 消え去らない「核」との付き合い方。
- 用意された結論。
設問の不完全。
まず「人間は変わることができるのか」という設問自体が不完全であると、僕は考える。「人間」をあたかもそれ以上断片化することのできない固定的な存在として見てしまっているためだ。
「あの人は頑固で自分の意見を曲げない」「あいつには芯がない」「あいつはDQNだから」...それらはすべて極論で、思考停止の一般論で、その人の一側面を取り出して論じている表面的なレッテル貼りに過ぎない。一人の人間はそんな簡単に理解できるものではない。あたりまえだけど。
あたりまえ。あたりまえで平凡で、見栄えの悪い常識だ。でも、そんなあたりまえの「人間ひとりの複雑性」に直面して思考停止していては、思考が一対一のフィールドから広がることがない。扱える現実の幅が広がらない。10人程度なら一人一人のいろいろな側面を考えながら丁寧な人付き合いが出来るかも知れないが、関わる人が10人そこらで収まるほど、僕らはのっぺりとした世界に生きていない。相手を深く理解できる能力、理解しようとする姿勢それ自体は素晴らしいものだが、しかし、それだけでは価値がない。
そこで僕らは、人間を抽象化する。
抽象化の必要性とその罠
僕らは人間を抽象化する。主としてその理由は、一人一人の内面的多様性まで考えていては選択肢の分岐/考慮すべき情報が多くなりすぎるからだ。
あんな服装の人間はこういうパーソナリティを持っているに違いない、あんな台詞を吐いた彼女はこういった性格に違いない、X大学の学生はこうした人間が多い、Y地方出身の人間はこんな性格だ、etcetc...
また、小説やアニメ、ビジネス書やらハウツーものの書籍でも、人間のキャラクター設定は抽象化されている。経済学なんて抽象化の最たるものだ。学問も"ものがたり"である。
この抽象化によって、より広い思考が可能となる。
抽象化は必要である。しかし抽象化というドラッグはあまりに中毒性が高いので、僕らはほとんど無意識にあらゆるものごとを抽象化する。そして抽象化されるものごとの中には、自分自身の性格/気質も含まれていることが多々ある。
就活のエントリーシート、初対面の相手への自己紹介、所属や肩書き、狭い世界で繰り返される日常。自己を表現するために使うおきまりの単語に慣れ親しんでいると、自分自身を抽象化することに慣れすぎてしまう。
抽象化された人間像・自己認識は「レッテル」として自我にこびりつき、表現するためのものだった言葉達は、逆に自分自身を縛り始める。これが人間性を単純化することによる弊害、抽象化の罠のひとつであると、現在の僕は考えている。
「レッテル」デジタル変化の不可能。
抽象化されたレッテルの元で自分の性格を評価しようとすると、他人と比べて劣った面が目に付いてしまう(((少なくとも僕の性格だとこの傾向が強いというだけの話なので、以下は自己認識のパターンによっては共感できないかも知れない))。「自分はネガティブ思考だからいけない」「怒りっぽいのが直らない」「口下手だから人と話すのが恥ずかしい」...etcetc. 「ネガティブ」も「怒りっぽい」も「口下手」もすべて、抽象化されたレッテルだ。
そして抽象化された「レッテル」という自己認識は、時に、"自己の性格を必要以上に絶対視する"という過ちを誘発する。自己の性格を絶対視し、「自分はこういう性格だ」と思ってしまうと、「悪い気質を根絶しよう」「性格を一新しよう」という考えへと陥りやすい。現状の性格の悪い面だけ見て全否定し、新しい自分とやらに生まれ変わろうとしてみたりする。ところがそいつは無意味なことだ。実際の気質はデジタルに変わるものではないから、試みは失敗に終わることが多い。
実際の気質はデジタルに変わるものではないとしたら、どのようなイメージを持てばよいのか? デジタルの代わりに存在する有り様は、0から100へ至る連続的なグラデーションである。たとえばネガティブ気質を60持つ人は、10の人から見ると「あいつはいつもネガティブだ」となるし、逆に90の人にとっては「明るくてうらやましい」となる。誰もが自分の中に自分独自の基準値を持っており、あらゆる人間の気質評価というものは、ことごとく相対化されている。
性格を追加するということ。
僕らが生きていく上で、多かれ少なかれ大なり小なり「変化の必要性」があることは確実だ。生まれ落ち育て上げられたままの性格で死ぬまで変化せずに貫ける人はよほど世の中と断絶していたか神の如き才能を持っていたかのどちらかだろう。だからどうしようもなく世の中との関連性の中に生きている凡人の僕らは、いつかは「変化の必要性」にぶちあたる。
しかし前述の通り、抽象化されたレッテルにフォーカスを当ててデジタルな変化をおこそうとしてもうまくいかない。ではどうすればよいのか。
もし人間性の変化が起こるとしたら、それは変化を起こそうと思ってのことではなく、人間性を変化させる必要があるから、結果として変化がある。これが基本的なスタンスだ。
このへんで当初の「人間は変わることができるのか」という疑問に答えると、変わることの出来る部分と、決して変わることがない「核」が存在する。というものが僕の考えだ。「核」が形成された理由付けは出来るかも知れないし、出来ないかも知れない*2。それは問題ではない。ともかく、両者を区分することが第一歩だ。
必要な気質が「核」に入っていれば、それは素晴らしいことだ。でも、必要な/望ましい気質が「核」にプリインストールされているとは限らない。「核」が変えられないとするならば、どのようにして「変化の必要性」に対応すればよいのか。
「核」の上に個別の気質を「追加」すべきだと、僕は考えている。いわば「核」の部分がOSで、それ以外の追加される気質/性格はアプリケーションだ。
たとえば僕は「シューカツモード」なる性格へと、必要に応じて切り替えるようにしている。
研修の概要を聞いて、なるほどグループワークのようなものか、と、久しぶりに脳味噌をシューカツモードに切り替えてみた。シューカツ脳の特徴は
- 自重せず積極的に質問、参加して撃沈する(黙っているよりずっといい)
- 歯の浮く言葉使い、テンプレート通りの予定調和に対する嫌悪感センサーをOFFにする
これが正しいのかどうかは知らないが、もとより内定者に正しくある事など期待されていないだろう。
内定式(?)で入社前に予習した仕事のエッセンスが感動的だった件 - ミームの死骸を待ちながら
他にありうる追加気質は、たとえば「人と楽しくおしゃべりできる」「人前でもあがらない」「異性と仲良くなれる」「ものすごい集中力を発揮できる」「大量の情報を扱うのが得意」...などなど*3。求められる性格ってのは、状況によって実に多種多様だ。
ちなみにこれらのアプリケーションは、その気質を「核」として持っている周囲の人間を観察してラーニングするのが得策だ。天然タラシ君を観察して「異性と仲良くなれる」気質を使えるようになる、といった具合に。
消え去らない「核」との付き合い方。
10数年だか20年だか*4生きて来たのだから、どーしても変えられない部分、そこを外してしまうと自己としての同一性を失ってしまうようなアイデンティティそのもの、それ以外がどれだけ変わろうとも決して変わらないポイントが、誰にでも必ず存在する。
その「核」は一般的に見ると好ましくないかも知れない。怠惰だったり悲観的だったり短期だったり攻撃的だったり自虐的だったり自信がなかったりするかも知れない。自分自身でその「核」を憎むことすらあるかも知れない。
しかしそのような気質が「核」に含まれているとしたら、その定義からして変えることは出来ない。うまく付き合っていくしかない。
「核」は決して消えることはない。ふとしたきっかけで垣間見えたり、好ましくない「核」に捕らわれて抜け出せなくなるかもしれない。それでも「昔の自分に戻ってしまった。やっぱり僕はもうだめだ」と絶望するのではなく、また弱みを補う性格を「核」の上に乗せ直すことだ。何度インストールしてもいいし、地道にアプリケーションをバージョンアップしていけば、OSの欠陥を補う能力は徐々に向上していく。
こうしてうまく切り替えていると、望ましくない「核」は出てくる頻度が低くなる。何かを忘れるために最も必要な行動は、その何かに触れる時間を極力減らすことである。
たとえば僕は、12歳あたりから病的なまでの*5自虐思考と加害/被害妄想があって、今も完治してるわけじゃないんだけど、性格を「追加」して別の性格になることもできたし*6、そうこうしているうちに自己破壊的な性格はだんだんと薄れているように思える。
用意された結論。
用意された結論へと戯言を収斂させよう。
追加する性格を設定しさえすれば、後は自己暗示と吹っ切りだけの問題だ。"基本的には"、どんな人格になることもできる。
ここで"基本的には"と書いたことにはもちろん意味があって、人間の可能性が無限であることと、無限の性格を実装可能であることは決して等価ではない。
「核」にうまく融合しない性格を無理矢理インストールすると不都合が発生することは目に見えている。どうしても追加する必要があるものだけ、さらに言えば自分が追加したいものだけ、そして重要なことに現実的に追加できるものだけ、追加すればいい。
新しい性格を試す時、他者の目が気になるかもしれない。「あいつあんなキャラじゃねーだろwww」と影で笑われていないか、過剰な自意識でもって気にしすぎるタイプの人もいる。僕がそうだが、自覚しているがゆえに、二年前に書いた記事*7の中で既に解決策を見いだしていた。
「誰もお前の事なんて気にしない」
オフ会とかやったことないもので - ミームの死骸を待ちながら
と考え、周囲を無駄に意識するのを辞めることだ。誰だって一番関心があるのは自分自身の事だ。良くも悪くも。そーゆーもんだ。
とりあえず試してみて、そのあとしっくり来る形を模索すればいい。馴染むようならそのまま居座らせればいいし、どうにも合わない気質はアンインストールだ。最も悪いのは「核」に合わない気質を無理に装い続ける事。これは精神が破滅するし、周囲にも悪い影響を及ぼす。
一度愛して手に入れたものを自意識のために捨てるのは愚か者さ。自己像を修正することにそれほどの価値はない。
舞城王太郎『九十九十九』
現状の自分を破壊せず、まるっきり他人になるでもない。効果的で継続的、自然体の変化を志向したい。
はっしゅ流簡単てきとー角煮レシピで世界の食卓を救う
角煮は世界を救う。
もう最近料理してると幸せという超のほほん思考なのだが、どう考えても切羽詰まって自分の無能(あらゆる意味で)と向き合い続けている修論戦争のストレス発散の意味が大きい。あるいは現実逃避とも言う。今回はそのストレス(?)の反動でちょっとはっちゃけております。タイトルからなんかおかしいもんな。
つーわけで。以前*1リクエストをいただいたので、最近ハマっている角煮のおいしい作り方を書いてみようと思う。何人か友人に食べてもらった所かなり好評で、僕の料理が好きな嫁さんも、特にお気に入りの一品だそうです。
いろいろと試行錯誤して来たんだけど、いままでで一番うまく出来た角煮のレシピを乗せて、ついでに工夫のしどころとか、そのへんをてけとーに書いてみようと思う。
原則と方針
僕の作り方は、炊飯器も圧力鍋も使わない。使うのはでっかい鍋とフライパン、中くらいの鍋。原則は
- 肉を柔らかくして、その後、味を染み込ませる
という順序をきちんと踏むこと。最初に味付きのタレに入れちゃだめですよ!
レシピ
使う肉はスーパーの肉コーナーに打ってるような豚バラブロックを1個。だいたい600-900円くらいだろうか。閉店前だともうちょい安い。閉店前のスーパーはテンション上がりすぎて困る。
こいつを、ブロックのまま脂身面を中心に焼き付ける。
火が通らないうちに上げる。焼き付けすぎると中まで火が通って堅くなるので注意。色と音で確認すべし。個人的に、音楽を聴きながら料理するのは御法度だ。
肉のうま味は煮汁に溶出しやすい特徴があります。ブイヨンや鶏がらスープを作る場合はこの特徴を生かせますが、 煮込み料理のように肉のおいしさもそのまま堪能したい場合には、肉のうま味を逃さない工夫が必要です。
http://www.jmi.or.jp/index.html
そのためには、肉の表面全体を焼きつけ、表面のたんぱく質を凝固させてしまいます。薄い膜を作ることで肉汁の流出を防ぎます。
一口でちょっと大きいかな?というくらいに切る。茹でると縮むから細かく切ると出来上がりが貧相な感じになって寂しい...。がぶっと喰いたいじゃないですか。このブロックはちょうどいい大きさ(幅)なので、そのまま横にぶつ切りしていった。
ここで切ったとき、中身がまだ冷たければOK。中まで火が通っていたら、焼きに時間をかけ過ぎ。
でかい鍋で2,3Lの水を沸かしておき、肉を柔らかくするための下湯でを行う。弱火でコトコト長時間!この際、日本酒をどぽどぽ入れると良い感じに脂が抜けてくれるし、肉の臭みも気にならなくなる。
肉のすじや結合組織は、長く煮込めば煮込むほど、とろけるようにやわらかくなるので、 状態を見ながら長時間(最低2時間)煮込むほうがおいしく仕上がります。
火加減は弱火にします。強火だと吹きこぼれたり、鍋底も焦げつきやすくなります。また、内部組織が必要以上に収縮して肉汁の流出量も増えてしまいます。
- コラーゲンがゼラチン化することで肉はやわらかくなる
コラーゲンは、かたい線維状のたんぱく質で、主に、骨や軟骨、腱、皮などの結合組織(細胞と細胞の間を埋めている組織)に存在し、細胞間の接着剤としての役割を果たしています。
http://www.jmi.or.jp/index.html
一般に肉のコラーゲンは約65℃で収縮を始めかたくなりますが、75〜85度で軟化し始めます(ゼラチン化)。
このときキッチンペーパーを数枚乗せておく。これは、肉を空気に触れさせると堅くなってしまうため。落としぶたの代わり、らしい。キッチンペーパー使ったことない人のために一応書いておくと、ティッシュみたいに崩れて溶けたりしないから大丈夫だよ!
さてここで時間をおきます。
僕の下茹で時間はだいたい...2時間から3,4時間、と言ったところだろうか。だいたい帰宅後の夜に、晩酌しながらコトコト茹でてる事が多い(調理後一晩置いてから翌日の昼か夜に喰うので)。
問題は下茹での時間。1時間では物足りない感じがする。1時間半でわりといい感じになる。しかし2時間30分の下湯でには敵わない。全力で柔らかくなる。2chのスレによると6時間に挑戦した猛者が居るらしいが、これはどうも肉の味が出尽くしてしまっておいしくなかったらしい。
30分-1時間ごとに鍋を覗いて、水が減っていたら追加することも忘れないように。
さて、肉が柔らかくなったら味付けです。その前に、お湯で肉の表面に残った余分な脂を軽く洗い流しておきましょう。既にホロホロになってるので、崩さないように気をつけながら手でやさしく洗うこと!
タレ。色々工夫のしどころがあって面白いところなので、こだわる人は何度かコントロール実験を繰り返してみると良いです。ちなみに分量は目安。。。つーか自分の感覚を信じて考えるな感じるんだ!
これらを煮立てた後に、
- 果糖*2 大さじ2
を入れて、肉を投入*3。ついでに大根も切って入れるとウマウマ!最後に
- セージ
をパラパラと入れておくと、肉の臭みが気にならない!
ここで20分弱火で煮込むのだが、ここでもキッチンペーパーを落としておこう。無論肉を空気に触れさせないためだ。その後、20分放置。そしてさらに20分煮込むなどの操作を任意の回数(てきとうだな)繰り返した後、一晩置く。一晩寝かすと味が全然違うんだぜ。
そして完成!!日本酒がうまいぜ!!!
汁はいい味が出てるので捨てるのはもったいない。大根とか入れて煮たり、ゆで卵を作って味を染み込ませると、これはいい煮卵!
Remaining Problems
赤身の部分がいまいち柔らかくならない。
店で出るような、本格的な、箸で"すくっ"と切れて、口に入れた瞬間にそれらがほぐれて蕩け、あまりの美味さに奇声を上げておもむろに立ち上がりそのままベランダから飛び降りるような角煮が作りたい(ちなみに僕の部屋は1階だ)