うまく言語化できない。
本気で頭を働かせると、その動きを途中で追いきれなくなることがある。 自分で考えていながら「思考を自分の頭で追えない」なんて言うと矛盾しているように聞こえるが、そうとしか言いようのない感覚に陥る。
一般的な現象なのかどうか知らないが、たぶん多かれ少なかれ経験した人は他に居ると信じて書いてみる。僕の場合は、まず目で見る。半分ぼけーっとして、ふわふわと内容を追って行く。そのうち、言葉では説明できないが、内容を"把握"している状態になってくる。それでも(こういった状態になるときの対象はたいてい複雑なので)、いろんな要素が絡んできて、だんだんわけがわからなくなっている。もやもやした情報をまとめるために筆記を動員するのだが、そのうち、メモどころか脳内で言語化するよりも先へ先へと思考が進んでしまい、何を考えてるのかよくわからないがどうやらものすごく考えているらしい、という境地に達する。
この高揚状態の発生条件は案外厳しい。先日は研究論文を読んでて突入したが、経験から言うと
- 対象に心底興味を持っていること(少なくともその時は)
- 強烈で短期的な動機があること(今日中にこれをまとめる必要があるとか、どうしても今これを知りたいとか)
- 対象そのものが複雑であるか、もしくは対象に端を発して複雑な思考に落ち込んで行き得るか
このあたりだと思う。高揚の時間が終わると、"形"にするために地道に作業する段階へと移る。ここからはもはや理性の仕事だ。
...ここまで書くとまるでこの高速回転状態を利用して成果を出せているように読めるが、自分自身追い切れないほど考えたというのに、思考が結論へと収束しない事もある。いやむしろ、しない事の方が多い。関連のない所まで思考が飛び火して行くし、扱いが非常に難しい。しかし、複雑な問題を解決するためには必須のステップである。
学術研究でもいいし、経営の意思決定でもいいし、複雑なプログラムを組む時でもいいし、この道一筋40年の職人技でもいいし、鍛錬を積み身体が勝手に動くようになったスポーツ/武道でもいいし、絡み合う人間の感情と利害関係を即座に読み取る"空気を読む"スキルでもかまわない。本当に複雑な問題を解こうとしたとき、言語化できない脳の処理が水面下で行われている。
この「うまく言語化できない」思考をそのまま伝える事はほとんど不可能であるため、情報の伝達に齟齬が発生するかもしれない、という危険を承知の上で、言語や行動に落とし込む必要がある。
ウィトゲンシュタインは論理哲学論考において「語り得ないことについては人は沈黙しなければならない」と書いたが、語り得る結論に至るまでのプロセスは、とても言語で表せるようなものではない。悪あがきとして、マインドマップを描いてみたりするけれど、dankogai氏の言うように *1、書き下される表現は、既に高度な情報処理の結果に過ぎない。
僕が常々抱いている問題意識は、"書き表すことも、説明することもできない知恵を保存・共有する事は叶わないだろうか?"というものだ。
人間はひとりひとりが別々の解釈を行うフィルターであり、インプットされた情報は高度な情報処理の結果、醸成された質のよい*2思考へと結集する。だからSolid Inputの網にかからない情報はどんどん流れ去って行くしかないし、"年齢"という壁は、たぶん若い人が思っているよりも、ずっと厚い。
こうして、ひとりひとりの人間が高みに上ってゆくにもかかわらず、そのプロセスは決して共有される事はない。後を追う者はその結果を見てブラックボックスの中身を推測するしかない。人間の歴史は長いのに、生きて行く中で最も高度に発達する部分が、それがいかに強靭に練り上げられようとも、決して受け継がれる事なく塵へと還ってゆく。
これは、なんというか、非常にもったいないと思う。個人的に言うと耐え難い。
それが生きるということだよ、などと悟ったような事はまだ言えないし、別に何か残さなくたって毎日楽しけりゃいいじゃん、という生き方をすることも、僕にはどうしてもできない。
確実に受け継がれる「うまく言語化できない」知恵、真に価値のある情報共有。不滅のミームを切望する。これができたら死んでもいいかもしれない。なんとなく。