後付けの理由を剥ぎ取って行くと、剥き出しの衝動だけが残る
「なぜ?」
なぜあの選択をしたのか、なぜ今こうしているのか、なぜそんなことを言うのか、なぜそれがしたいのか。あれこれと理論武装し、他人を、そして自分を納得させようとする。人間は本能的に理由付けをしたがるものであるし、大抵の人は理由のある方がカッコイイと思っている。確かに、研ぎすまされた理由付けは「哲学」と呼ばれ、一本筋の通った「哲学」に基づいて生きる人は目がくらむほどにカッコイイ。
理論武装は完成するまでにいくつか踏まれるべき段階がある。まず最初に行動と主張がある。なぜならそれらは目に見えるからだ。すると、それを見た他人は「なぜ?」と問いただす。他人の「なぜ?」に対して返答し、あれこれと語っているうちに、いつのまにか自分でも、理由に基づいて行動しているような気になってくる。あるいは、他人の目に触れる前にあらかじめ自問自答してみる。他人に「なぜ?」と聞く以上自分自身も答えを用意しておくのが礼儀というものだろうし、オフィシャルな場では筋道立った「理由」がお互いを理解する共通言語となり得る。
しかし、そのすべてを剥ぎ取って行くと、最終的に残るのは単純な「衝動」なのではないか。説明不可能で強力な衝動。「好きだから」「そうしたいから」というポジティブな衝動の場合もあるし、「嫌いだから」「どうしてもやりたくないから」というネガティブな衝動の時もあるが、ただひとついえるのは、剥き出しになったその衝動には嘘がないということだ。
日本のWebは「残念」 梅田望夫さんに聞く(前編) (1/3) - ITmedia News
Web、はてな、将棋への思い 梅田望夫さんに聞く(後編) (1/3) - ITmedia News
ITメディアが掲載した梅田望夫氏のインタビューがずいぶんと波紋を呼んでいる。僕としては、ようやく煽動・理想とは無縁の、剥き出しになった梅田望夫氏の「衝動」を見て腑に落ちた思いがした。
そういう言われ方をすれば、もうみんなそう思っていると思うけど、僕はそういう人間だよ。ハイブロウなものが好きですよ。それはしょうがないじゃない。
Web、はてな、将棋への思い 梅田望夫さんに聞く(後編) (1/3) - ITmedia ニュース
それは否定しないよ。僕はそういう人間だからね。
各所の反応にやや突き放した評が多いのは、目に見えて梅田さんが"弱って"いることが原因だろうか。他人事のように言っているが、『ウェブ進化論 本当の大変化はこれから始まる (ちくま新書)』をきっかけにインターネットの世界に染まった僕も、少なからず「残念」な気持ちを覚えた。SVCに参加した友人たちにも感想を聞いてみたい気がする。
梅田望夫が残念なただ一つの理由、それは梅田望夫が梅田望夫自身を裏切っていることだ。
ネット空間で特に顕著だが、日本人は人を褒めない。昨日もLingrイベントで言ったけど、もっと褒めろよ。心の中でいいなと思ったら口に出せ。誰だって、いくつになったって、褒められれば嬉しい。そういう小さなことの積み重ねで、世の中はつまらなくもなり楽しくもなる。「人を褒める」というのは「ある対象の良いところを探す能力」と密接に関係する。「ある対象の良いところを探す能力」というのは、人生を生きていくうえでとても大切なことだ。「ある対象の悪いところを探す能力」を持った人が、日本社会では幅を利かせすぎている。それで知らず知らずのうちに、影響を受けた若い人たちの思考回路がネガティブになる。自己評価が低くなる。「好きなことをして生きていける」なんて思っちゃいけないんだとか自己規制している。それがいけない。自己評価が低いのがいちばんいけない。
直感を信じろ、自分を信じろ、好きを貫け、人を褒めろ、人の粗探ししてる暇があったら自分で何かやれ。 - My Life Between Silicon Valley and Japanで、その後梅田望夫が褒めたのは何だろう。「日本語が亡びるとき」と「シリコンバレーから将棋を観る」の「オープンソース的協力」と将棋界。他に何かあったっけ?
404 Blog Not Found:梅田望夫は「残念」なただ一つの理由
このdankogai氏による梅田望夫評は、ここ数日眺めた中で最もしっくり来るものだった。確かにそうだ。はてなのコードを書いてないとか、取締役としての役割を果たしていないとか、そんなことはさほど問題ではない。人を褒めろという割には、関連記事にスターを付けている跡が観測されるくらい*1で、その影響力を使って褒めた対象があまりに少なすぎる。それが寂しい気持ちを引き起こしていたのかもしれない。やる気を奮い立たせる言葉を公の場に出しておきながら、自身はそれを実践しないまま、サバティカルに入る。
しかし僕が感じるのは、酔っぱらってWeb上に書き散らしたテキストが、ただ人の注目を集めたというだけの理由で揺るがぬ哲学のように解釈されてはたまったもんじゃない、というやるせなさだ。スポットライトを浴びる立場に居る人は、一挙手一投足が哲学に基づいた行動でなければならないのだろうか。冗談じゃない。
ぼくも、社会をうまく回していくために「理由」が大切であることを認めるのに吝かではない。それはそうだ。人間が皆衝動に突き動かされるままに生きてしまうと悲劇が起こるであろうことは、社会契約説を思い出すまでもなく明らかだ。
しかし、「理由」という名の装飾は後からいくらでも着込むことができるというのに、その完成系である「哲学」がブレると、理由付けに失敗した時とは比較にならないほど信頼が失墜する。これは恐ろしいことだ。恐ろしいから、「哲学に基づいて生きるべきである」という幻想を捨て、自身の「哲学」を放棄して、その時々で立場を変えて行く生き方にたどり着くことも、ひょっとしたらあるかもしれない。
哲学を持たないという「哲学」すら放棄する可能性に、自分自身で脅かされながら。
柔軟性と芯のなさは紙一重である*2。しなやかな強さを持っているのか、ただふらふらと生きているだけなのか。その判断ポイントは「冗談じゃない」現実と向き合うことができるか否か、かもしれない。
それでも僕は、弱い人に"マッチョでなければ人ではない"と宣告するような風潮を、すこしやるせない気持ちで眺めることがある。そんな気分になるときもある。弱さと強さを併せ持ち、それが故に魅力的な人を僕は知っているし、その人にはずいぶんと救われた。
だから僕は、現実に向き合えない弱さを持つ人を、どうしても無視することができない。
...梅田さんとはほとんど関係なくなってしまったが、まぁいつものことか。