ミームの死骸を待ちながら

We are built as gene machines and cultured as meme machines, but we have the power to turn against our creators. We, alone on earth, can rebel against the tyranny of the selfish replicators. - Richard Dawkins "Selfish Gene"

We are built as gene machines and cultured as meme machines, but we have the power to turn against our creators.
We, alone on earth, can rebel against the tyranny of the selfish replicators.
- Richard Dawkins "Selfish Gene"

仮説を正しく使い、Solid Inputの「網」を縦横に張り巡らせる


人間はランダムな中に法則性を見いだし、極僅かな事例から一般論を語り、レッテル貼りをして事実を歪め、信念に基づいて理由を後付けし、見たいものだけを見る。昨日、Thomas Gilovich "HOW WE KNOW WHAT ISN'T SO"、邦訳『人間、この信じやすきもの』を読んだ。人間がいかに誤った信念にとらわれやすいか。シンプルかつ明確な論題に分けて、豊富な実例と解説により構成されている。


人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)
人間この信じやすきもの—迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)Thomas Gilovich 守 一雄 守 秀子

おすすめ平均
stars社会科学者の役割。
stars懐疑論者のための認知心理学」という分野における最重要文献にして古典であり開祖
stars優れた知能とそれ故の誤りを楽しむ
stars唯物論的立場からの考察
stars湾岸戦争の水鳥が教える物−−誰がカルト教団の信者を笑えるか?

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冒頭に上げた"傾向"は、すべて人間の長所である「仮説構築力」の副作用だ。

良い仮説と悪い仮説というものは確かに存在し、悪い仮説というのは、それは当たり前と言えば当たり前のことなのだが、しばしば「行き過ぎた思い込み」だとか、「限定しすぎた答え」だとか、「ただの妄想に過ぎない」と言われることもあるだろう。

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仮説をつくることに前向きな人とは、別の言い方をすれば、物事と物事の共通項を見出すことに長けている人である。(中略) 仮説をつくることに長けている人は、共通項をすばやく見つけ出し、深く考え体系化するのがうまい

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正しく使えば世の中を理解し価値を生み出す源泉となり得る「仮説」は、おもしろ半分に誤った方向に使うとこんなこと になる。若気の至りである。先月の僕はあまりにも若かった*1。どうか許してほしい。



この本は、

  • きわめて個人的な観察から大局を見た気になって大風呂敷を広げる
  • 常識の枠にはめる前に、とりあえず検討してみたい

という思考の特徴を持つ人にとって、バイブル的な存在になる。アナロジスト、"非常識"好きのための「落とし穴に落ちないための手引書」のような本だ。特に因果関係の2×2分割表は使えそうだ*2

科学により分解される世界、その美しさにロマンを見いだしたドーキンスの『虹の解体』を思い出す。時に、すべてを数字と論理に落とし込むスタンスに味気なさを感じ、目に見る世界とは別の次元で、理解不能な法則が存在すると夢想したくなるのもまた人間のサガだろうか。


虹の解体—いかにして科学は驚異への扉を開いたか
虹の解体—いかにして科学は驚異への扉を開いたかRichard Dawkins 福岡 伸一

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stars筆者の博識と天才文章化力をまざまざと見せつけられる本
stars科学は詩的である
stars占星術はデタラメだ!
stars読むべき人には届かない、残念
stars科学を理解すれば、自然の仕組みに感動する。

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「知」から「解」へ


人間の成長において「知る」ことの重要性には議論の余地がないと考えるが、見落としがちなのは、「経験」によって知識が"腑に落ちる"というステップだ。「知識」の段階で止まっていては自分のものとして使うことができない。
今回、僕は人間この信じやすきもの―迷信・誤信はどうして生まれるか (認知科学選書)を自分の経験に照らし合わせ、アイタタタと思いながら読んだことで、今後何らかの主張を行うときには必ず意識するようになるだろう。


いくら本を読んでいても20年そこらしか生きていなければ、持つ知識のすべては「机上の空論」であろうし、長らく生きていたとしても、個人的な経験を一般的な知識とすりあわせない限り「視野が狭い」人間を脱出できない。僕のイメージは

知+経験=> 実力

というもので、「知」の入力をCold Input、「経験」の蓄積をSolid Inputとでも呼ぶと、人間の成長ステップにおいて律速段階として存在するのは明らかにSolid Inputの方であろう。なぜなら「知」の入力はインターネットや速読術、"ライフハック"などにより大幅な加速が可能であるし、本を読めば読むほど「大事なこと」は共通しているような気がしてくるが、その漠然とした大事なことを最終的に腑に落とすにはどうしても自分の経験を介す必要があり、「経験」には物理的な限界が存在するからだ。

歴史は絶対に飛ばないんだと。だけど、加速はできるんです。だから、すべてのステップが踏まれないと、改革というのは進まないんです。
(「日本の経営」を創る, p.267)


これは経営改革について書かれた文脈であるが、人の成長にも言えるのではないかと思う。以上のような理解をもとにして、このところ感じていた一つの懸念は以下のようなものだ。

「20代に本を読みすぎるのはよくないのではないか?ある程度がむしゃらに、ローカルにやってきて、経験がたまった所で多読に移るべきではないか?」


...Cold Inputを大量に流し込むことに意義を持たせるには、Solid Inputの「編目」が相応に密でなければならない。Cold Inputが不要とは言わない。ただInputのスタンスとして、経験の浅いうちはSolid Inputの「網」を縦横に張り巡らせることを優先させ、一方のCold Inputについてはやみくもに流し込むのではなく、厳選された素材を噛み砕き、血肉とするべきなのではなかろうか。

*1:id:lylycoさんのエントリよりフレーズを借用: 下手な文章というのはあるが、上手い文章というのはない|Weep for me - ボクノタメニ泣イテクレ > 雑記

*2:ただ「他人からの不親切なフィードバック」のくだりは、インターネットの匿名性によってやや薄まっているような気がする。