実は博士問題を論じている人の気持ちがちょっとわからない
実は僕自身、高学歴ワーキングプアだとかポスドク問題などの社会問題を、あまり問題に感じていない。早急に解決すべき問題であるとも思ってない。積極的に情報集めてもいないし、本も読んでない。
だから僕の場合、「博士ネットワークミーティング」に参加したのも、「Ph.D交流会」に参加したのも、ぶっちゃけてしまえばその「参加者」に惹かれたからだ。
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僕は理系学生として、博士の、職やらポスドクやら組織の中で耐えたりとなかなか大変そうな姿を見たり聞いたりしているし、自分自身のために大変な環境をわざわざ切り開きながら博士に進むだけのメリットが見えないし、というわけで就職することを決めている。研究者としてやっていくなら、もちろん「国際免許証」である博士号は必須になろうけど。
自分が先の見えないシューカツ生であるのに先輩のことまで考えてらんないっすよというのが本音であるし、この国には他にもいろいろと問題があるのになんでその問題を議論するのだろう、とちょっとわからない。
博士問題は二つに分けられるように思われる。
1、今の過剰高学歴をどう生かすか
2、今後のよりよい高等教育制度を作るには
つまり現在の問題と、未来の問題。 ここが混同されてはいけない。
1、今の過剰高学歴をどう生かすか
問題1に対するアプローチはブレスト的にいくつも出る気がしていて、
たとえばなんとなく思いついた 博士クローズアップ、ブランディングの策は、博士持ちのみテレビ番組に採用、ポスドク問題には微塵も触れず、各分野の博士たちが知の議論を戦わす。 マスメディアは斜陽メディアと言うならネットでやってもいい*1。ブログリレーとかLingerとか。
ネットなら、今すぐ動ける。なのに動きがさほど見られないのはなぜか。
それは当事者が居ないからではないか。
優秀な博士なら、年齢や専門化のハンデを軽々と乗り越えて外資コンサルに内定したり、海外の研究室にポスドクを決める。類似の例をいくつか知っている。彼らは制度を呪わないし、国の援助も必要としない。ゆえに動かない。
優秀といえない層は、そもそも道を切り開こうという努力をしないので、動きも見えない。 前述の会合に出席する層は、活動的である時点で、実はさほど心配はいらないのではないか。本当にヤバいのは表に出てこない高学歴たちだ。
で、最下層が「どうしようもない」のはどうしようもない。一定数の人間がいれば、一定率のCランクが出てしまう。そこまで「高い教育受けさせたのだから」と救おうとすると逆に社会に不利益で。ハンディキャップドな人や女性へ均等な機会を与えるのとは別な話だ。彼らは博士を選択した。
だから僕は、博士問題を叫ぶ人は誰を助けるのだろう、と少々首をかしげている。
2、今後のよりよい高等教育制度を作るには
はてなダイアリーによれば学会は
「高い,遠い,closed,外部に情報が出ない」。
こんなんが発表されました、と外部にさらせばいいのにな。政府のなんたら委員会の決定はニュースなるのに。マスメディアが無理ならこれもネットでいいし。
アカデミア自体もこれと同じで、閉じてる。
先週、DBCLSの坊農さんとお昼一緒に食べてその時話題に出たのだけど、実験屋の情報差は実はわずかなもので、そのわずかな差でバリューを出しており、それゆえにフラット化を恐れる。 学生の教育用に実験手順ビデオがあるなら公開すればいいのに、門外不出だったり。論文にするから、とデータを巧妙に加工してポスターの情報を調節したり。金融よりセコい。 情報が流れず、気持ち悪い。
コミュニケーション
コミュニケーション養成が必要。
学会に広報部を設置するとか。あと「専門をわかりやすく伝える」スキルとしてはSC (サイエンスコミュニケータ)がある。僕の認識だといまサイエンスコミュニケータ完全自主性。たとえば創造マラソンのよしかずさん。id:wakutekaも取ってたっけ*2。
これを、研究室単位でも誰かにコミュニケーション講座を取らせるようにして、マスターしたら補助金を与えるとか。
といいつつ僕は制度化*3について虚無的な見方をしている。形骸化した制度をいくつか見てきてうんざりしたからだ。
とある制度に基づいた授業枠が作られ、ミーハーな僕は新しい授業だ!と取ってみた。しかし蓋を開けてみれば、古株の教授たちがなあなあでいつもの授業をやってる。看板が変わっただけで、中身は変わっていなかった。僕は大いにがっかりした。
また別の例では、短期間に博士の実力を付けるという触れ込みで、特別な授業を取る制度があった。実態はどうか。普通の学生向けの授業を一緒に受けさせ、申請の際、授業名を変えることで「特別授業」の扱いとなるのだった。
だから、上から「こういう制度になりました」といわれても、教授会にて「新制度また来たよw」「どーする?」「んじゃこれと兼ねればよくねwww」みたいな感じで処理されてしまう*4。
彼らにしてみれば、「我々は耐えて頑張ってきた。ようやく教授に、一国の主になれたのだ。なんで既得権益を手放してまで変える必要があるのか。」となろう。使い古された見方だろうけど、僕は人が変わらない限り制度を根本から変えることは不可能だと考える。
もちろん中にはすばらしい仕組みもあるが、それは多くの場合、外から来た人がかかわっていることが多い。
結局、人がすべてだ。
ゼロを1にすること。
本当に問題を解決して欲しい人は、解決の道筋を示す。
前例があると、後に続く人は光を見いだすことができる。実を言うと僕が修士の途中で研究室移れたのも、一つ上に研究室を移籍した先輩がいたからだ。
繰り返すと、本当に問題を解決して欲しい人は、解決の道筋を示す。そして、道を示すだけにとどまらず、道を集めて公開すればいい。
生きテク 死ぬ技術(自殺)はもういらない、生きるテクを大公開
たとえば「生きテク」などは、生命の尊さとかくだらない議論を行うことなしに、道を開いた人の例を集めることで、自殺者を引きとめようとしている。
問題にあたる側としてもスタンスはふたつある気がする。
- 圧倒的な熱意をもって問題を根本から解決したいのか、
- 解決する姿勢を見せることによるメリットを享受したいのか
- (企業の環境対策や、会合に乗じて魅力的な人に会いに行く僕のように)
世直しなのか。義務感なのか。エゴなのか。熱意の源泉がどこにあるのか今ひとつ良くわからなくて、僕は博士問題の解決に、全面的に共感することができずにいる。