田舎は好きだが、それでも東京を選択する。
僕は香川で生まれ育った。香川というのは「地方」だが、「地方」である香川の中で相対的に都会度の高い地区で生まれ、小学校入学前に引っ越して田舎度の高い地区で育った。
全国を転々としたでもなく別段人間関係をこじらせるでもなく、むしろ友人には恵まれて、平凡と言っていいほどの平和さ*1で高校までの18年間を過ごし、大学入学と同時に東京で一人暮らしを始めた。
このGW中、高校の同級生の結婚式に参加するため帰郷した。せっかくなので数日滞在し、久々に会う友人を含めた地元の人と話したり天気が良かったので海沿いを散歩したり母校に侵入したりうどんを食ったりと故郷を堪能した。
いつも正月か盆に帰るので、この時期の自然が特に印象的だった。海沿いの道を歩いて見つけた雑木林のような空間に入ってみると、くらくらするほど濃密な緑の匂いがした。
そもそも自然が好きだし(イメストしてると毎回出てくるのは自然の、特に山や森のイメージだ)、育った場所には思い入れがあるし、級友は良いやつばかりだ。それでもやはりここは僕の生きる場所ではないな、という、上京時から抱いていた認識を今回の帰郷で新たにした。
そんなわけで香川最後の夜、田舎と都会について思うところを書く。
機会の数が桁違い
まず第一に取り上げたいのは、東京にいると機会の数が(文字通りの意味で)桁違いに多いということ。アンテナに引っかかる情報量がそもそも違うし、アクションの選択肢が豊富にある。
ネットにより機会は平等になったと思いきや、むしろネットを活用して情報を得る習慣を持ちアンテナが高い地方の人ほど、機会の不平等を切に感じるのではないかと思う。
習い事を始めるとしたら教室、勉強会やオフ会をやるとしたら参加者が集える場所、バイトするなら勤務地と職種と時給。何か買うにしても、手にとって見ることの出来る大型店舗が重宝する。その全てにおいて、そしてその全てを同時に満たしうる環境として、東京に勝る場所はない。
もしサーフィンとか山登り、スキーなどの環境依存の活動をやるなら、そうでもないのかな。
ともかく、僕のように、変化と新しいものと刺激が好きな性格にはもってこいの環境であることは間違いない。ただいくら機会に囲まれていても能動的に動かないと無駄なので、その点だけは注意した方が良いかもしれない。
おもしろい人も多い。
人口という母数が多いからか、流動的な人付き合いの中でトラッピングされて類は友を呼ぶのかはわからないが、東京にはとにかくおもしろい人が多い。上下幅の大きな出会いがある。
同世代だけでも、留学したいとかむしろ留学してるよとか、やりたいことを見つけたので大学院受け直すとか、修士論文の代わりに退学届けを出したとか、学生のうちに起業するなどといった「ビジョン」的な面でも、また純然たるスキルレベルや学問へのコミット具合、およそ日本で考え得る限り最難関レベルの就職先にバシバシ内定する優秀層、経験のバリエーション的な面でも、はたまた怪しげな(褒め言葉)道を進む天才ワナビーなど、変態的におもしろい人がたくさんいる。
そして上下の世代とも即座に交流できる(あ、いや、下の世代とはあんま交流してないわ。ごめんなさい)。東京にオフィスを持つ企業は多いため、社会人と出会いやすい。アカデミック層やフリーで活躍されている方と会いたい時も、東京に本拠地を持っていた方が圧倒的に有利だ。
何より井の中の蛙になりようがないので、どの蛙たちも大海に出て、塩水と荒波にもまれ、マッチョ蛙の存在を認識しながら生きている。
田舎に比べて、「見ているもの」と「ものの見方」が独特かつスケールが大きい人がたくさんいる。ちょっと付け加えると、京都はまた別軸にぶっとんだ人がいておもしろい、と思う。
そんな人をずっと見ていると、自分はおもしろいのだろうか、価値があるとしたらどこなのだろうか、この先どうしたらいいのだろうか、という思考が自然と浮かんでくる。
少なくとも僕にとって、考えながら生きること、そして考えたことを即座に試行できるか否かは死活問題なのだ。
生活が便利で、常に試行錯誤が行われている場。
電車のダイヤや店舗営業時間など、中央集権国家の資金力*2にモノを言わせ、正面突破で達成した「便利」は案外バカに出来ない。基本(+α)インフラの充実度は半端ない。
また、SUICA、24時間ATM、Google Street View、e-mobileや無線LANの充実*3などの「新しい」ことは真っ先に試される。
人間が「不便」と感じるところにはおカネ儲けの畑があるのか、目に付く不便はどんどん解消されていくし、一般人の感覚では思いも寄らないようなソリューションが次々に実現されていく。最先端を最初に見ることの出来る位置が東京だ。
逆に田舎の良さと悪さ。普段接する世界の完結。
田舎の欠点を上げることがこの記事の目的では全くないが、逆の視点として、田舎の特徴的な点をアバウトに表現してみると、「良い意味・悪い意味の双方で世界が狭い」。どこに行っても知り合いがいる。勝手知ったる境遇で生きていく。XさんとこのYちゃんがこないだアレしたらしいよー、というネットワークの密さ。それだけで完結している。完結している世界は外部に対して能動的に働きかけない。ただ外界の変化に合わせて伸び縮みするか、緩やかに衰退して行くのみだ。
日々の幸せを享受して生きるならばこれ以上ない環境であり、この幸せこそが、僕がこのエントリで言及した「GOOD」と見なしている感覚に他ならない。
戦略のない人間は"失敗"の自覚がないまま幸福感に包まれて死ぬ - ミームの死骸を待ちながら
安心感がある一方で、僕にはどうにも窮屈に感じられた。もし将来、そんな生活を送るとしても、老後もしくは意識的なサバティカル、あるいは集中的な取り組みが必要な何かに関する「修行」時期のために取っておきたいのだ。
根本的なところで自分自身の過去を認めることの出来ない人間には自己破壊衝動がある、という暴言はどうだろう。広がりも実りもなさそうなので投げっぱなしにして止めておこう。
今日の話をもっとも伝えたい相手は、現在中高生の世代。
このエントリは僕自身の経験を元にした、いつも通りの勝手な書き殴りではあるものの、今日は特に地方に居る中学生や高校生に伝えたいと思っている。読んでるのかどうか知らないけど。
「場所は関係ない」という人もいるが、ぶっちゃけてしまえばそんなものは綺麗事だ。僕は地方と都心の両方を経験して、東京がどれだけ恵まれた環境なのかを、そのメリットを幼少期から享受している同世代への嫉妬と共に痛感した*4。
もし地方でくすぶっている高校生や中学生がいるならば、とりあえず東京に来た方が良い*5。その後は自分の価値観や適性を考えて、海外に行くなり、東京に残るなり、Uターンするなりすればいい。
脳味噌がまだ進化しうると思っていて、しかし自分の収まるべき場所を決定するだけの判断材料を持っていない人間ならば誰でも、活動の拠点として地方ではなく東京を選択するべきだと僕は考える。
後記。タイトルと最後だけしか読まない忙しい人のために書いておくが、僕は残りの人生を東京(日本)と心中すると宣言しているわけではないしその逆でもなく、ましてや地方で活動する人を批判しているわけでもないので、念のため。