金融サービス業は"若者投資信託"を生み出す程度には進化すべき
id:syou6162が行動を伴ってhis unique colorを見つけつつあるようだ。ブログタイトルの変更はまだだろうか?
Seeking for my unique color.的何か - Seeking for my unique color.
僕は、いままでの付き合いから彼の優秀さを痛感している*1。とりわけ一つの物事に集中して成果をあげる能力に長けている印象を持っている。きっと、自分のやりたいことに気づいて進む道を変えたのだから、さらに成果をあげるに違いない。
上のエントリ後半で身の振り方をいろいろと考えている部分があるが、その懸念事項の中には資金的なものの他に"履歴書の空白"というものもあって、僕に資金か権限があれば問題を解決するために力を貸したいと思った。
しかし、彼に投資したいなーなどと考えても、僕自身も奨学金と仕送りで生きているぬるい大学院生なので、焼き鳥屋でウーロン茶を飲み、駄弁り、励ますくらいが関の山である。
世には優秀な学生がたくさんいるが、身近な人間、共感できる人間に投資したい、というニーズは結構あるのではないか。にもかかわらず、特に日本人は直接お金をどうこう、という生々しい話を嫌う傾向が強い。
そんなこんなもあって、以前から暖めていた"若者投資信託"という考えと、その考えの背景にある"金融サービス業の拡張"について書こうと思う。
奨学金と"若者投資信託"
誤解を恐れず言えば僕はお金が好きだが、それは過去の成果と評価を定量的に現す尺度であり、同時に現在と将来の機会と影響力を拡大する役割を担うものとして見ることができるからだ。
"若者投資信託"の基本的な考え方は奨学金と同じで「優秀な学生/若い世代に援助を行う」というものだが、奨学金自体にはいくつか問題がある。
まず奨学金は、経済的にはマイナスをニュ−トラルまで引き上げることを目的とする。しかも基本的に借金だ。
そして、フルブライトや学振の特別研究員なども含め、これらの「制度」に支援してもらう権利を得るには、支援に値するほど優秀であることを証明しないといけない。このスクリーニングは「ハズレ」を減らすため、またなるべく効率的に資金を配分するために、どうしても必要になってくる。
結果として、将来に期待して成長を支援するというよりも、サポートするという役割が強く出てしまう。
要するに、奨学金制度は「リスクを取るようにできていない」のである。
だから、リスクを取って人に投資し、リターンを追求する組織があってもいいのではないか。
多様化に対応する新時代の人材投資信託
この"若者投資信託"は奨学金の役割を包括してはいるが、投資対象は学業に限らない。書類も堅苦しい試験もいらない。「こいつに賭けてみたい」とぶっこむくらいの気持ちで投資する、当たり外れも大きい博打だ。
"若者投資信託"はその若者支援の哲学に基づいて若者に支援を行い、その人物が成果を上げたときには見返りを得る。投資信託に投資していた人々は、そのリターンから投信の取り分を差し引いたものを分配される。純粋で直接的な出資ではないが、だからこそ多くの層にとって手の届くものとなる。
個人同士の投資関係で、いままでは「よくある美談」として、成功者の自伝などでしかお目にかかれなかった話をシステム化するのである。ヒントは昨今の投資信託/ETFの多様化だ。
ETFの本場はアメリカで、多種多様なETFが上場されていて、株式(主要指数、規模別、業種別、国別、新興国)・債券(主要指数、国債、期間別、信用リスク別、海外債券)・その他(REIT・商品先物・金・ヘッジファンドなど)のETFを組み合わせて、個人投資家が手軽に自分なりのポートフォリオを作る運用が定着しています。
もっと活用されていいETF(上場投信) : ランキングで読み解く投信 : 投資信託 : マネー・経済 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
"若者投資信託"はさらに対象を柔軟に拡張し、思いつく限りほとんどすべての支援哲学を掲げることが出来る。
など、強みを伸ばす方法でもいいし、弱みを補う方法でもいい。各ファンドはその固有の若者支援哲学に合致する若者に支援を行い、その人物が成果を上げたときには見返りを得る。それは純粋に金銭的なものかもしれないし、そうではないかもしれない。契約の形も自由に決めることが出来る。
最悪、たとえば事業を興して有名になった人物*3が実際に会って判断を行う、それだけでも価値はあるだろう。「私はあの人の哲学や生き方に共感するから、あの人が投資したいと思うような若者に投資したい」というニーズはあるはずだ。
そしてファンドは、その哲学に共感する投資家から出資を募る。たとえば上記の「海外経験の無い学生を海外旅行に行かせる」という投信には、「お金が無くてずっと国内で暮らしていたが、晩年海外を見て世界観が変わった」という人が「若いウチに広い世界を見て欲しい」という思いで投資するかもしれない。
つまり成果・目的を明確にしてから始めるのである。そして何より、マイナスをニュートラルに引き上げるのではなく、ある程度の失敗を見込んで、特定の層をダントツに高い次元まで伸ばすことを目的とする。
寡占は起こりにくいためかなりの数の"若者投信"が出てくるだろうし、投資家は多様な"若者投信"から選択できる。Fund of fundsのように好みに合わせてパッケージ化するビジネスもアリだろう。いや、ネットで誰でも"若者投信"を設立できるくらいの参入障壁でもいいかもしれない。
これこそが、多様な社会に対応した人材育成のありかただ。
人間の価値観の数だけ支援の形がある。「ゆとり教育」を推進し個性礼賛の教育政策を取るくらいなら、この程度の支援はあってしかるべきだったのだ。
僕らの世代は、俗に言うゆとり世代は、あってないような個性を発揮することを強いられた世代です。「アイデンティティー」という言葉が、個性を捻りだす魔法とでもいうかのように叫ばれ、自分らしく生きる事を強制された世代。高校を卒業して気づいたのは、ここでいう個性とは、学園祭で一瞬輝いたり、飲み会で一発芸が出来たりする程度のもので、テストの余白で自説を披露するような個性の事でありません。また、そのような解答欄は用意されてもいません。それは時間がかかるから。
規定された個性、その結果 - こてゆびミルクティー
資本主義と金融のかたち
1500兆円とも言われる日本の個人資産を市場に流通させよう、という動きが盛んだ。何のため?「経済を活性化」するためだ。しかも広告には「不安な時代、自分の資産は自分で守ろう」などという利己的かつ後ろ向きなコピーが踊る。
そうではない。
株でも債券でも不動産でもなく、貴金属でもFxでもない。ましてや、コモディティや複雑なデリバティブでもない。人材こそが最良の投資先であるという理念の下に、金融商品の代わりに"人"に投資する文化を定着させるべきだ。
そしてその文化をも"金融"という名の下に統合してしまい、偽善の付け入る隙もない完全なる資本主義一色に染めてしまえばいい。中途半端に倫理を持ち出してくるから、人間性も経済も共倒れになる。資本主義は未だその全可能性を使い果たしてはいない。