ミームの死骸を待ちながら

We are built as gene machines and cultured as meme machines, but we have the power to turn against our creators. We, alone on earth, can rebel against the tyranny of the selfish replicators. - Richard Dawkins "Selfish Gene"

We are built as gene machines and cultured as meme machines, but we have the power to turn against our creators.
We, alone on earth, can rebel against the tyranny of the selfish replicators.
- Richard Dawkins "Selfish Gene"

やるべきこと、やりたいこと、できること、全部ばらばらだから絶望する


爽やかな秋晴れの朝には抽象的な話をしよう。


「やるべきこと」「やりたいこと」「できること」


この三要素を一致させることはとても難しいし、厳密に言うと不可能であるかもしれない。しかし、三要素がどんな関係にあるかによって、精神安定度や日々の満足感、アウトプットの質が違って来るのではないかという考えを持っている。考え方の問題だ。ちょっと説明を加えるなら、

  • 「やるべきこと=今の環境で自分の果たすべき役割」
  • 「やりたいこと=理屈ではなく感情的に自分が望む事」
  • 「できること=いまの自分の経験や能力から実行可能なこと」

となるし、拙い英語力でおっかなびっくり訳してみると、それぞれ"what you should do", "what you want to do", "what you can do"となろうか。


理想を言えば、三つが「同じ」である状態が最安定状態となる。逆に全部ばらばらの方向を向いていると絶望の日々が待っている。

この三要素を一致させるにはいくつかのルートがあると思うが、それを思いつくままに書いてみる。実例が思いつかないだけで、たぶんもっと多様なんだろうとは思うが。


「やるべきこと」と「やりたいこと」を一致させて、そこに「できること」をすりあわせて行く

「やるべきこと」=「やりたいこと」


まず「やるべきこと」=「やりたいこと」となるためには大きく分けて

  1. 自明のものとしてそこにある「やるべきこと」を分解して「やりたいこと」に落とし込む
  2. 「やりたいこと」から「やるべきこと」を導きだす


以上二つの方法があるように思う。二つの方法はそれぞれ「認識を変化させる」「環境を変化させる」と言い変えることも出来る。

まず前者は、自分が与えられた責任の中に楽しさを見い出すなどして「やりたいこと」を「やるべきこと」の延長線上に目標を据え、両者を一致させてしまおうという、かなり社会的に正しい方法だ。「やるべきことが明確」な環境にいるならば、やるべきことをやりたくなればいい。
たとえば社会人だと、今の仕事の背景を勉強したり小さな成功を積み重ねる事で仕事を好きになるとか*1、進学を狙う学生だと、勉強を最優先に据えて取り組めばシンプルだし、まあ、何でもやってみれば楽しくなって来るよ、と言う言説も散見されますね。魔法かよと思うけど。

後者は、何をしている時自分は楽しいのかということを考えて、好きな事が「やるべきこと」として設定されているような環境に自らを位置づけるという、こちらは自己啓発的に正しい方法だ。
プログラムを組む事が好きならプログラマを目指したり、有機化学が好きだから研究者を志したり、経営を学びたいからコンサルになったり(これはやや皮肉って言っている*2)とか。

「できること」→「やるべきこと」=「やりたいこと」

以上の二つを限りなく近い位置に据えた上で、「できること」を積み重ね、三要素を合致させるように変化して行く。取り組むべき状況が決定したら、後は目的を達するために必要な能力を積み重ね、理想に漸近する過程に入る。....のだけど、このへん細かく書く気力が失われたので(略)


「できること」が「やるべきこと」である環境に移動する


この場合の「できること」は、専門スキルだったり、性格に起因する得意分野だったり。絵が描けるからデザイナーになるとか、そういった選択肢だ。今の自分の実力を正確に測れていれば、これは比較的スムーズなルートとなる。
ただこの例で言うと「絵が好きだから/絵が描きたいから」ではない点がミソだ。人間には、望む能力が与えられるとは限らない。「できること」は単なる道具ではなく、それ自体が「やるべきこと」や「やりたいこと」と同列の影響力を以て存在する、ということを僕はここで言いたかった。


人間そんなにうまくいかない


以上は三要素を一致させるための理想ルートというか幸せなケースの話だが、しかし人間そう理想的に動かないわけで、往々にして三要素の一致しない絶望状態に陥る。あ、絶望というのはわりと軽い意味で使っているのでお気になさらず。
理系で特定分野の研究を「やりたいこと」として大学院に進学したはずなのに、なぜか「やるべきこと」がズレまくっていて「できること」も積み上がっている実感がない、とか、「できること」を存分に活用したいのにその環境が与えられない、とか。


SFな話をしてしまうと、相互に無関係な二つの世界を生きたい、とよく思う。
片方の世界では前向きに継続的に努力し、やりたいことを成し遂げる人生。もう一方の世界では、すべてどうでもいいから日々何の責任も負わずうまいもん食って酒飲んで、自然でも眺めながらぐだぐだして生きる。やる気がでてきたら世界移動すればいい。

「現在」を楽しみたい心境と「将来」に向けてストイックに進んで行く覚悟、誰しも双方を持ち合わせているにもかかわらず、双方を同じ世界で積み重ねていくから問題が出てくる。この二つの世界を仮想的に実現する方法があればいいなあ、と思っている。MacWindowsを使える日が来るなんて、僕は想像出来なかった。そんなもんだ。


最近と昔の経験からなんか書いてみる


この1,2年、ラボにこもって実験に明け暮れる代わりに色々な方面を走り回って首を突っ込んで、貴重な経験を積めた。幅の広さならそこらの大学院生には負けない(2σは超える)と思う
しかし、普通の大学院生とは全く異なる経験を楽しんだ代償として、普通の大学院生が積むべき経験を積んでいないしっぺ返しを今受けている。専門を極めるにはほど遠い現状がなんともふがいない。専門に限った話ではないにせよ、僕はもっと勉強していてもよかった、と最近よく思う。

それはゼミで研究背景となる理論を基礎から学び直して物理の美しさに感心した時であったり、同期や後輩と議論して自身の専攻にいかに無知であるかを思い知った時であったり、金融工学の勉強で出くわした数学に向き合っている時であったり、応用情報技術者試験の過去問を解きつつ基礎から体系的に情報学を学んだ時であったり、学部と院の6年間で使った教科書を裁断してスキャンしながら、バイオロジーの面白さを再確認した時であったりした。


とにかく僕は行動しまくる代わりに「もっと勉強する」という選択肢もあった。その一点においては、ドクターに行くのも楽しそうだったな、と思う。隣の芝生を見るように。検討の末に捨てた選択肢ではあるものの、ただ純粋に勉強したい、ひとつの分野を突き詰めたい、という衝動がやはり捨てがたい物として自分の中にあることを再発見した。現実を見ると、博士課程というものは、専門を極める楽しさを享受する前に打ち倒すべき敵/解決すべき問題が多すぎるんだけどね。



勉強と言えば受験勉強のことを書きたくなったので三要素の文脈に合わせて書いてみよう。


大学受験生時代*3、勉強して勉強して勉強していた。田舎の公立校から自分の行きたいと思える東京の国公立に出て行くためにはそれ以外のやり方を知らなかったし、今ふりかえってもまぁ大筋において間違ってはいなかった。この例のキモは、当時において僕の三要素は一致していた、ということだろうか。書き出してみると

  • やるべきこと...学生の本分は勉強だし、高校側も生徒をいい大学に送り込みたかったのだろう、いろいろと大目に見てもらって心配事は少なかった
  • やりたいこと...僕自身もとにかく東京に行きたかった
  • できること...どの程度まで「できること」を高めれば良いかという指針が明確にあった(受験に受かればいい)。

副次的効果として、元々わりと好きだった「オベンキョウ」が得意になった。「できること」が「勉強」だとか言うと一昔前に話題になった 「勉強ができる」という蔑称 問題に足を突っ込みそうであるが華麗に回避するとして、この能力、案外便利だ。まあ基本理解力が無いし、もっと勉強のできるヤツを両手両足に余るほど知ってるからアレなんだけど、控えめに言って「勉強が苦にならない」という能力はありがたい。レアな能力でもないしこれ単体では誇れるようなものでは決して無いが、何か新しい事を学ぶときにとても役に立っている。


ただその分、高校時代、カラオケに行ったり部活に精を出したりという学生っぽいことをあまり楽しめなかったし、彼女さんやら家族やらといった近しい人への気遣いが疎かになった*4。大学に入ってから高校のクラスメイトと飲んだりしてようやく取り返している感じではあるが、今となっては大半の同級生とはイマイチ話が合わなくて一体感が得られなかったりするし、なんとも勿体ないことをしたかもしれない。



などとつらつらと書いたが、以上二つの経験から言えるのは「何をするにも取得選択するしかなく、後から別の選択肢を考えてああだこうだ言うのは無益」と言うことか。そういえば以前似た事を書いた。

ポジティブシンキング的な意味ではもちろん「何でもできる」と思うことは大切なのだけど、可能性が無限であることと無限の物事を達成可能であることは、決して等価ではない。
何かをするということはそれ以外のすべてをしないことに同義であって、いくら可能性が無限に広がっていようが実現される現実は常に一つだ。僕はアクメツにはなれない。選択肢を選択しないまま目の前に広げて悦に浸っている阿呆は、決して阿呆以上にはなれない。

戦略のない人間は"失敗"の自覚がないまま幸福感に包まれて死ぬ - ミームの死骸を待ちながら


まあ、そもそも後悔はさほどない。やり直したいとするなら人間関係やら人付き合いのまずさであって、恥の多い人生を送って来ました。その話はいい。


三要素の現状と自分の取扱説明書


こんなことを書こうと思った背景。

ここ数週間、僕にとってちょうどいい負荷の量、タスクの種類、必要な休息などを意識して過ごしてみた。
どんなときに調子が悪くてどうすればやり過ごせるのか、逆にどんなときに調子がいいのか。珍しく卍解状態*5になったときには、その時の「感じ」と「そうなるに至った周辺状況」を記憶・記録して、再現性を検証してみた。

前回の記事 で「logを取って自分を数値化しておけば、だんだん出来る事と出来ないこと、出来るとすればどれくらいで出来るのか、出来ないとすれば何が足りていないのか、というポイントを見抜けるようになるだろう」と書いたことを実践してみたわけだ。
自分の客観的なスペックや得意な戦場を知っておくと、後々役に立つに違いない。



その結果、なんとなく「自分の取扱説明書」がわかってきた、ような気がする。

いまの僕の緊張度はちょうど良い感じ。足下の「やるべきこと」を基礎の基礎からちゃんと組み立てつつ、そいつを「やりたい」と思えるようになっている。最初の分類で言うと、"「やるべきこと」を分解して「やりたいこと」に落とし込む" ことに成功しつつある。
研究おもろい。ちらっとドクターの話が上で出たのは、ようやく研究を素直に楽しめるようになったからだ。


そして、「できること」を少しずつ増やしている実感がある。研究と個人的な勉強を、しっかり積み重ねる。進歩のひとつひとつが面白い。目的があるし、無理するでもなく、毎日好きな料理を作ってたまに酒を飲む。一人で飲む日本酒もうまい。内面が足りているから、他人の事を考えられる余裕がでてきた。ちょうどいい。もう少し続けてみる。

シンプルに生きるということは、余計な贅肉をそぎ落としている事でもある。贅肉の"旨味"が懐かしくもあるけれど、とりあえず余分をそぎ落とす。その後に賢く「不要」を取り込むように仕向けよう、と思っている。日々の生活が実験になるとおもしろいもんだね。


まとめよう。


やるべきこと、やりたいこと、できること。この三要素が他人と同じであるはずもない。

しかしそれ以上に、過去の自分自身の三要素と一致している必要は無いというあたりが重要だろう。状況が変わるたびに(あるいは定期的に)、今自分のやるべきことは何か、本当は何がやりたいのか、それはどの程度実現出来ているのか、実現するためのスキルはちゃんと身につけているか、環境を移るべきではないか、と自身に問う必要がある。


展開して来た戯言に抽象的ながらも一応の結論を付けるならば、そういうことになるのだろう。いつの間にか長袖の季節だ。二週間ぶりのエントリはこのへんで切り上げて、一日を開始するとしよう。


内外の関連エントリ

  1. 「好きを貫く」よりも、もっと気分よく生きる方法 - 分裂勘違い君劇場
    • 今回の記事では「好きな事を仕事にする」ことの是非は割愛した。僕もいくつか書いているけど、ふろむだ先生のこの記事が好き。
  2. 働き方のシンプルな処方箋を、エルステッド・インターナショナル永守社長から学ぶ - ミームの死骸を待ちながら
    • 経営→コンサル、という思考経路に皮肉を込めたと文中に書いたけど、コンサルに対する考え方としてはエルステッド・インターナショナルの永守社長の考え方に共感する。
    • 「好きなことをやったほうがいい」という結論に至る論理のひとつが示されている。
  3. 「きわめて短時間にそこそこの成果を上げる人間」の取説とその弱点 - ミームの死骸を待ちながら

*1:学生の想像で書いてるので細けえこたぁいいんだよ。すいません

*2:関連エントリNo.2を参照

*3:高2夏-高3

*4:ちなみに妹はこの時期の僕を現在の「デレ期」に対して「ツン期」と呼んでおり、腐女子にかかると未成年の精一杯の自己主張も萌えに組み込まれてしまうようである

*5:異常なほど、学習する物事が片っ端からするすると吸収されたり、作業がはかどったり