生物学者よ、コンピュータを捨て、ピペットを手に取れ。
メモを捨てろ、本を捨てろ、そのでかい鞄を捨てろ。そんなものに頼るんは自分に自信がないからや - ミームの死骸を待ちながら
そもそもあらゆるシミュレーションの基礎になるのは実験だ。
実験があってこそのシミュレーションであり、シミュレーションそれ自体で完結すると言うことは決してない。そのためシミュレーションに傾倒した研究は両輪を欠いており、アンバランスで疑わしく、噴けば飛ぶような薄っぺらいものにしかならない。同様に、シミュレーションに傾倒して実験を軽視する考えを持つ学生は薄っぺらな甘ちゃんであり、唾棄すべき無知の塊である。
実験データを集め、解析し、加工してシミュレーション用のパラメータを構築する。それ故に、どこかで現実とすりあわせないとドライ研究は全く意味を持たない。それだけで新しい世界が開ける訳では決してない。
ドライはあくまで補助と割り切り、実験をメインに据えるべきである。ドライが補助としか認められていない環境で、上に反発してドライにしがみつくなど愚の骨頂である。
バイオの大部分において、実験作業自体は非常に地味でわかりきった単純作業の繰り返しであり、「実験がうまい人」というのは「カレーがうまく作れる人」になんら変わりがない。
カレーの作り方なら誰でも知っている。しかし、作り方はわかっても、本当に上手に作れるかどうかはスパイスと味付けの知識量ではなく手を動かして泥臭い作業に費やす時間に比例する。
すなわち、学生レベルにおける研究活動の第一歩は、新しいカレーを考え出すことではなく、上手にカレーを作れるようになることである。この順番を間違えてはならない。
ワトソン・クリックのDNA構造発見も、オペロン説も、リガーゼと制限酵素も、クローン技術も、遺伝子組み換え作物も、ヒトゲノムの解読も、RNA干渉も、ヒトiPS細胞の構築も、すべて泥臭い作業がなければ現実のものにはならなかった。美味なるカレーの裏には、何人ものポスドクの死骸が転がっているのである。
10年は泥のように実験し、次の10年は泥のように論文を読み、そして続く10年で泥のように科研費の申請書を書くのである。これが研究者のあるべき姿で、最初の10年を飛ばして理論に走ったり、あろうことかコンピュータに張り付いてdryだdryだと騒ぎ、泥臭い実験を嫌うようではまともな研究ができるはずもない。
大学における研究は、講座制という、一種の階層構造をもとに組み立てられている。すなわち、トップに当たる教授は細かい実験作業には携わらず、時流を読み、他の研究をイメージでとらえ、自身の漠然としたイメージを下の准教授や助教に伝える。そのイメージは准教授・助教レベルにおいて具体的な実験目標に落とされ、学生に任される。そして学生は与えられた研究テーマを自身の責任と権限の範囲内で具体化し、日々朝から晩まで泥臭い実験作業に携わるわけである。
こうして実験作業に精通した学生は、だんだん高い視点からものが見えるようになってくる。他の研究室の研究テーマを聞いても、そのテーマは具体的にこんな実験作業が必要で、難しいのはここの部分だろうな、ということがなんとなくイメージできるようになる。この段階に来て、助教・准教授・教授の「すごさ」がわかってくる。
手を動かさないうちから実験を軽視し、見当外れの上から目線でコメントを垂れるなどという不作法は、決して許されるものではない。
コンピュータは生物学者にとってただのオプションであり、それよりも手を動かして実験した方が何十倍も身につくものがある。それは経験であり、根性であり、手に職を付けるための確かな技術であり、時代が移り変わっても決して揺らぐことのない資産である。
現実を少し見てみれば分かるように、コンピュータ実験だけで包括的なバイオ研究は出来ない。確かにMDシミュレーションをあるタンパク質に適用し、その時のパラメータと結果を報告することで一つの仕事になる。ただここから生物学的な知見が得られるかと言えば、現段階では、眉唾であるとしか言い得ない。
以上をふまえれば、実験を嫌う学生の行く末は見えている。端的に言えば破滅である。
そもそも実験を嫌う学生がカンに触るのは、分かったようなことを良いながら、根本的な部分で甘ったれているからだ。まともな思考力を持つ学生なら、研究室のルールを把握して、今自分の成すべき事を悟り、郷に入っては郷に従えの言葉の通り、ロールプレイングゲームで役割を演じながら与えられた実験をしっかりとこなす。
アクティビティ指向の研究姿勢を持っていれば、自然と研究テーマの方向性が見え、このテーマはどこに向かおうとしているのか、どんな実験を行うべきかが実感として解ってくる。
そうしてしっかりと自分の役割を果たして初めて、アカデミックで価値を生み出す人材になれるし、社会に貢献できる研究が可能になるのである。手を動かすことを嫌う研究者から、いったいどんなアイディアが溢れてくるというのだろうか?
また、自分の心の内をネット上というバッファーに垂れ流すなど言語道断であり、その心情がいかに同情を引き、共感を呼び、正当性を持って聞こえたとしても、文章だけから人格まで見抜くことのできるすぐれた人間力を持つ人には、その奥底に潜む傲慢さと蔑みが手に取るようにわかってしまう。
組織に適応できない人間は、何処に行っても安住の地などない。大学だろうが企業だろうが、日本だろうがアメリカだろうが、研究者だろうがプログラマだろうが、全く同じだ。自分一人でゼロから環境を組み立てることのできる才能を持っていない限り、まぁ環境適応力のない人間にそんな才能が備わっているはずもないが、ともかく創造能力のない異端者はありとあらゆる人間集団からはじかれ、孤独なまま研究の世界から消えていくだけである。
孤高の狼を気取って自己流を貫き、コミュニケーションを拒否し組織の調和を乱す学生には、空気読めと憤るだけでは足りない。即刻辞めさせるべきだ。
孤独な人間は胸の内ではこんなことを考えているかもしれない。
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そんな腐った空気には、早めに見切りをつけ、さっさと別の集団へ移り住むべきでしょう。学生などで、それができない状況にある場合は、そんな集団の空気に染まるぐらいなら、むしろ孤独を楽しむ方法を見つけるべきです。そんな腐った空気は、乗りこなしたり操縦したりするほどの価値はありません。そんな空気を読める能力などたいして価値はありません。そんなことより、孤独の中で粘り強く自分を練り上げ、じっくりと力を蓄え、価値創造の力を築きあげることに専念すべきでしょう。
このような思い上がりを持った頭でっかちの甘ちゃんから、
メモを捨てろ、本を捨てろ、そのでかい鞄を捨てろ。そんなものに頼るんは自分に自信がないからや - ミームの死骸を待ちながら
実験で全てが決まる時代はとっくに終わっている。
などという妄言が出てくることになる。大学という温室から、専門知識を踏み台にして社会の幾ばくかを眺め、とんでもない結論を引き出す。これは悪しき兆候である。行動主義の人間からは、このような危険な言葉は出るはずもない。
ゆえに私は主張する。生物学者はコンピュータを捨て、日夜実験に励むべきである、と。
追記
(HanaUsagiさんへの返信としてコメント欄に書いたんだけど、)
(これは本文でも示しておくべきだと思ったので。)
先日のエントリでたくさん意見をもらって、感謝しつつも飽和状態になってしまいました。
今保身に回っても細かい議論や無理な正当化をしてしまいそうな気がしたので、
仰る通りfromdusktildawnさんの極論で自分の立場を否定してガス抜きした次第です。
もう少し考えを進めるための過程です。勢いで書いたため、不快感を感じたら申し訳ありません