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ミームの死骸を待ちながら

We are built as gene machines and cultured as meme machines, but we have the power to turn against our creators. We, alone on earth, can rebel against the tyranny of the selfish replicators. - Richard Dawkins "Selfish Gene"

We are built as gene machines and cultured as meme machines, but we have the power to turn against our creators.
We, alone on earth, can rebel against the tyranny of the selfish replicators.
- Richard Dawkins "Selfish Gene"

"中二病"の通用しない、行動と結果だけが意味を持つ世界

自己分析


中二病が世界を変える」


...以前、この響きが気に入って、主張に正当性を持たせようと試行錯誤してみたことがある。しかし最終的にこれは正しくない(というかどうもしっくりこない)という結論に落ち着き、"中二病が世界を変える"というタイトルのエントリは、下書きの山に埋もれていた。それでも何かもやもやしたものが残っていた所に、id:riywoさんが最近書いた記事クリティカルヒットした。

この記事では、おそらく僕のエントリから派生したid:essaさんの都会の人・田舎の人という区別を使って、「両者に優劣はなくそれぞれが必要な役割を演じている」という内容が述べられ、riywoさんの心境の変化と決意が込められている。というか三月末にriywoさんと渋谷で飲んだ時も少し感じたことだけど、特にDeNAに入ってからのid:riywoさんの成長ぶりは半端無い気がする。僕もああなれるのだろうか。

いまだに中二病続けてる人が、「都会の人」の中にはたくさんいる。 そんな奴に「世界を作り変える」なんてことはできないと思う。 「世界を作り変える」ことも、「着実にものごとをやる」こともできない、実に 中途半端な人間=僕が出来上がる。そして勝手に「死にたい」とか言いだす。

人間には二種類あるけど、優劣はない - As a Futurist...


この部分を読んで、グサッと来た。それなんて俺。今の僕は「世界を作り変える」能力も持たず、かといって何かを「着実に続ける」ことも出来ない。それでいて理想は無駄に高いため無力感に日々呵まれ、自己評価を低くすることでその間のギャップを埋めて、毎日をやり過ごしてきた。
自己評価が低い ことは、決して自分に厳しいわけではない。むしろ甘えだ。僕の場合、その甘えの最たるものが、「中二病」という自称に他ならない。


中二病とは何か


中二病という要素にはいろいろなものが含まれていて、一概には語れない。僕も流石に突然ル・ラーダ・フォルオル!と叫び出したりしない。じゃあ何だ。wikipediaの定義は次のようになっている。

思春期の少年が子どもから大人になろうとして、「大人が好みそうな(子供基準での)格好のいいもの」に興味を持ち、子供に好かれそうなもの、幼少の頃に好きだった幼稚なものを否定したりする気持ちが要因で、「もう子どもじゃない」「(格好の悪い)大人にはなりたくない」という自己矛盾からくる行動が、実際に大人になってから振り返ると非常にピントが「ずれ」ており、滑稽に感じることが大きな特徴である。

加えて生死や宇宙、人間や身近なものの存在に関して思い悩んでみたり、政治や社会の(子供基準での)矛盾を批判してみたりするのも特徴的である。さらに実際の自分よりも自らを悪く見せかけようとするものの、結局何も行動を起こさないでそのまま収束するといった性質も「中二病」の「症状」として含まれる。

中二病 - Wikipedia


僕が自分自身を"中二病"だと言うとき、それは自分自身の理想と現実のギャップを自虐的・自己弁護的にぼやかして指していることが多い。また、なぜ生きているのか、何のために生きているのかなどという答えのないことを考えてしまう性格も、その要素に含まれる*1
ただ問題は、僕がこの自称を使うとき、「僕が意図しているもの」と「それを聞いて他人が思い浮かべる像」には当然乖離があって、このワードに関しては乖離が致命的な誤解を生むことがある点だ。Wikipediaの定義を見ても、僕が言いたいことを表現するために「中二病」という言葉を使うのは非効率だし、危険ですらある。


だから僕はそろそろ、中二病を自称することを止めようと思う


理想の高さと、それを現実に出来る行動力


理想の高さと、それを現実に出来る行動力。この二つを兼ね揃えている人が世の中に何かを残すことができる。ただ理想が高い、自意識過剰であるだけでは足りない。この危機感は、戦略のない人間は"失敗"の自覚がないまま幸福感に包まれて死ぬ - ミームの死骸を待ちながら ...この記事でも書いた。「行動を起こせない」中二病は意味を持たない。SLOGANの伊藤社長も、最近の記事で

イデア自体にはほとんど価値がない。実現されなければ、価値はゼロですし、アイデア自体は価値がないと言いきっても過言ではないでしょう。それをいかにコミットして実行し、実現するかが全てですね。

スローガンを持って生きよう 伊藤豊(スローガン社長)ブログ:アイデアの価値 - livedoor Blog(ブログ)


こう書かれていた。"理想"には、次の段階として"実行"が必須だ。僕はこの罠にハマリがち。認識を変えて、行動を変える。「実行が伴わない・軸が定まっていない」という弱点から、"中二病"だからね、と言って逃げないようにする。有言実行を心がける。


覚悟と当事者意識


来年からの同僚、id:rindai87のススメで覚悟のすすめ (角川oneテーマ21 A 87)を読んだ。タイガース金本の強さの秘訣を、「覚悟」という言葉で語った、不思議とやる気のわいてくる良本だ。

「覚悟」—。
それこそがプロとして、もっとも大切なものだ。決意したら、必ず行動に移す。そして、それを継続させる根気があったからこそ、それほど期待されていなかった自分がここまでやってこられたと、いま、あらためて思う。
強い「覚悟」を決めれば、なんでもできる。
(p.8, 覚悟のすすめ (角川oneテーマ21 A 87))


また、先日id:key_potpotさんにトラバを頂いた。"井の中の蛙"、という比喩を使った一連のエントリでも、まとめとして「覚悟」という言葉を使っている*2

生き残れるかどうか、蛙の持つ『覚悟』が、その差をわけるのかもしれない。こんな酷い目に合っているのは、水を汲んだ人間のせいなんだ、と、責任を放棄しているような蛙は、きっと生きることを諦めてしまうだろう。しかし、井戸の外の世界で生きると『覚悟』した蛙は、窮地に立たされても、自ら生き抜いていこうとする。

井の中の蛙は幸せ者だ - 鍵壺のWeblog

今は、『覚悟』を持って臨むことができる。自分の決めたことは自分で責任を負うという覚悟を。これは今まで自分にはなかった武器だ。この就職活動を通して、出会った企業の方々、共に切磋琢磨した友人達、互いの顔も知らぬ方々が書いたWeb上のテキスト。色々な要素が混ざり合って、運良く、『覚悟』を得ることができた。これは、非常に心強いものだ!

ずっと前から、私は、井の中から跳び出していたのであった。 - 鍵壺のWeblog


覚悟=追い詰められた精神状態、と言い換えることもできる。僕が"覚悟"の効果を実感するのは、研究報告の直前だ。発表の直前になってようやく、やる気がわいてきて、研究の問題点が浮かび、関連論文のロジックがつながり、やるべきことが明確になり、そして、いままでまともに「研究」を進めて居なかったことに気が付いたりする。
日常的・意識的にこの状態へ持って行けることが、僕にとって具体的でわかりやすい"覚悟"の指標となるのではないか、と感じている。そのための仕組み作り*3を今いくつか試している。
案外僕には、研究が楽しいと思い込む自己暗示が効くようだ。効果の程はまたレポートでもしようと思う。


自分自身の無力や無知と向き合うこと


「要は勇気がない」のか「覚悟」が足りないのかは分からないが、僕のネック・弱点はここにある*4。戯言も理想論も通用しない、結果と行動だけが意味を持つリアルな世界で覚悟を決めるためには、それ以前にまず、自分自身の無力や無知と向き合わないといけないのだ。

全てが無駄。考え悩んで逡巡してる時間は圧倒的に無駄。あげく、自分の世界だけで 考えたベストの方法しかできない。新人程度が見ている世界なんて、社長からすれば ゴミ溜めの小さい小さい隅っこを見ている程度に過ぎない。そんな狭い世界で 物事考えてもらっても、はっきり言って邪魔。視野が狭い。目線が低い。

結果も経験も無い人間が、結果を出すには、ともかく動いてみるしかない。 動くとは、迷う前にやってみるということでもあるし、分からないならすぐ 聞くということでもある。僕が1時間悩む内容は、先輩に聞けば5秒で解決するかも しれない。

遠い遠い社会人としての第二歩 - As a Futurist...


正直、自分自身の無力・無知と向き合うことは僕にとって辛いし、出来ることなら逃げていたい。

最近もそうだけど、梅田望夫さんあたりの、口当たりのいい楽観主義の言葉、その美味しい部分だけを抜き出して「好きなことだけやって生きればいい」という考えに傾倒したりする。これからもするだろう。
さらに言えば、数年前の僕の尊敬する人は立花隆氏で、自分自身も観察者として生きていければいいなと思っていた。

その(=Googleで得られる)知識の一部を百科事典みたいに身につけた人を、司馬遼太郎的、あるいは立花隆的教養人と呼ぶとすれば、そうした人々は、この21世紀、尊敬はされるが価値は生み出さないと言っていい。
(p.419, 「知の衰退」からいかに脱出するか?)


今にして思えば、自分の実力を"棚に上げ"て、評価する側として生きていきたいという甘い考えもあった。
しかし就職活動というターニングポイントにおいて思考を重ねた結果、「実行者」として社会に出ることを選択した以上、そうも言っていられない。「観察者」の感覚を引きずっているままでは良くない。


もちろん行動に対する反省とフィードバックは大事だろうけど、ただ内面を掘り下げてもどうしようもない。内的宇宙でも見つけるつもりか?アクション起こさないと何も残らないよ。
現状肯定の自己正当化と、綺麗事だらけの理想論。戯言からは何も得られない。ただ行動と、目に見えるその「結果」だけが意味を持つ。行動して、他人の目に見える成果を残すしかない。手間のかかることだ。


うまくいかないこともあるだろうし、油断するとすぐ易きに流れそうだけど、意識して行動しないと何も始まらない。やってみよう。

*1:ここでひとまず結論を出して実際に行動に落とし込めると生産的なのだけど。

*2:強調は引用者による

*3:精神コントロールも含めて

*4:と思っている