仕事上の達成感を得る至上の妙薬、自由意志。
弊社では四半期に一度、MBO (Management Buyout...ではなくManagement by Objective) の名の下に、上司との面談及び業務上の目標策定を行う機会が設けられる。いつのまにやら入社して3ヶ月が経過し(もう3ヶ月かよ!)(こんだけ濃くてまだ3ヶ月かよ!)、第二回目の面談が行われた。
そこで僕の訴えた問題(?)というか最近の懸念事項は
「やる気をもてあます!(意訳)」
というものであった(これはひどい)。
...有り体にいれば、張り合いがなかった。やる気はあるのだけど、それを振り向ける先を一時的に見失っていた(現在助走中のプロジェクトが本格化すると気持ちよく炎上できて氏ねそうな気配なんだけど、インターバル期間のようなところにいる)。前回の「壁」 はとりあえず乗り越え、Mezzanine(中二階)(中二病ではない)のような部分にいるのかもしれない。...という意図。
不足で満たされているという事実は頭では認識していても、密度の濃い状態に慣れた身体と心は、さらなる充実を渇望する。
欠乏を感じた時には二つの道がある。
- 密度が薄まった仕事の代わりに、労力を別のものごとに振り向ける
- 仕事範囲を拡張し、薄まった空間に新たな仕事を詰め込む
僕が選択したのは後者であった。真空を嫌うように仕事を探した。
わずか数ヶ月の会社働き経験から、僕は「責任」を持たないとロクに仕事しねぇことが明らかとなったので、できるだけ自分に責任が降りかかる形で仕事を引き受けるように振る舞った。
目前の選択肢に真先に飛びついて、あるいは関係のないプロジェクトに自分から志願して、また、「やる気をもてあまして」いるという、色々と甘い僕の訴えに応える様なタイミングで、噛み応えのある社内PJを上司から与えられ、僕が手伝うことと相成った(ありがとうございます)。
そして僕の手の中にはおもしろい仕事のタネがいくつか乗っかっている状態となり、斯くして「やる気をもてあます」状態は、わずか1,2週間の悩みとして終焉を迎えることとなった。
あとは、実践だ。これを僕はどう料理していくことになるのか、結構、楽しみにしている。
※ただし実践に伴う「性格上の不都合というかある種の不得手」も、実は今の時点で見えている。脅威が実現してはいないものの、そのうち実体化するであろうことが予測される。僕の次なる壁となるか、もしくは回避可能なウィークポイントという立ち位置に落ち着くのかは分からないが。
どんな仕事でもおもしろみを見いだせる!...とは言わないが(言わないのかよ)、おそらく僕が集めたプチ・プロジェクト*1たちから学べるであろうスキル/知識は、僕のこの先に繋がるであろうことが予測できる。先に繋がるという価値観は僕にとってホントウに意味のあるものだ。
もちろん、僕の関わり方次第、真剣度次第ではあるけど。
※既に、"新サーバーへのLinuxインストール及びセットアップ、ネットワークの設定"という仕事が (だいたい) 片付いた。「ネットワークは要するに決まり事とテキストファイルのコラボレーションであり、大したこと無いもんだ」と気付いた*2ことも収穫だし、OSガンガン入れたり消したりソフトウェアRAID設定したり、というあたりの実地経験がちょっと積めたことも大きい。実は"仮想化"の設定をもう少し突っ込んで調べたかった*3んだけど、流石に横道に逸れすぎだし、ということでここは"おあずけ"にしている*4。
先述のMBOにおいてもうひとつ、「張り合い」を得るために、日々の仕事から小さな達成感を見つけ出そう、という課題も持ち上がっていた。
そこで僕は自分自身の仕事ぶりとそれに対する心の反応("張り合い"とは結局のところ精神状態だ)をよく観察してみたところ、ひとつの要素が浮かび上がった。僕が「張り合いがある」と感じ、達成感を得ることが出来るのは次の様な場面である。
僕は、あまりプロジェクトが終了したその瞬間には達成感を感じない(開発プロジェクトの最後ってイマイチ締まらないなぁ、という印象を持っている)。
それよりもむしろ、お客さんもしくは協力会社 -- つまり元来「仲間という前提」のない人 -- と、何かの面で(それは仕事上の話でもいいし、ちょっと踏み込んだ個人的な話でもいい)「同じ方向を向いている」と確信出来る出来事や経験、そういったものに達成感を感じる。
コンテクストは電話だったり、打合せだったり、メールだったりするが、とにかく「あー俺たち一緒に仕事してるぜ!感」といいますか、「相手は自分を人間として見てくれていて、人間としての自分が何がしかの役に立てているという確信」とでも言えましょうか。兎にも角にもそのような感覚が己の達成感を醸成している自分自身を発見したのであります。
知識が増えるのはおもしろいし、楽しいし、嬉しい。それでも僕は、ただ知識が増えるだけではやる気を励起できない。これは自分にとっても新発見だった。
僕は僕自身を知識大好き人間だとおもっていたし、確かに今でも変わらず好きだけど、
自分自身が仕事という文脈上に組み込まれ、いくばくかの価値/プラスの影響を提供できているのだなという確信が持てた瞬間も、同様に幸福感/達成感を感じるのだ。
この小さな発見を僕が僕自身の哲学上に組み込むことを試みるとすれば、
ひとが達成感を感じる源泉はすなわち、自分が"意志ある存在として認められた"ということであり、自分自身の自由意志がそこに含まれるか否か、という1ポイントに集約される。
人は誰でも「労働力」「頭数」「人的資源」としてではなく、人間として価値を認めてもらいたいと考えている。組織内での地位にかかわらず尊敬されたいし、個性や持ち味を評価して欲しいのである。
(ブルー・オーシャン戦略 競争のない世界を創造する, p.237)
「自由意志」に基づいた評価を求める会社人は、ただの単純作業であろうとも、可能な限り「俺はここにいる」という事実を知らしめようとする。
この種の仕事のやり方は、純粋な仕事の達成能力がない時期においてはリスクになりうるものの、仕事の「達成感」とそれに繋がる次の「やる気」をもたらす、汎用的な指標(ただし定性的)なのではないかと、今の僕は考えている。
人間意識はアイデア共有のために作られた。これはつまり、人間のユーザーインターフェイスは生物学的にも文化的にも進化で作られたと言うことだ。それは信念や計画を伝え合い、記録を比べるという行動上のイノベーションへの対応として生じたものだ。これは多くの脳を心に変え、そしてこの相互連結が初めて可能にした著者性の分散は、その他自然に対する人間のすさまじい技術的優位性の源であるばかりか、道徳性の源でもある。自由意志と道徳的責任の自然主義的な説明で必要な最後の一歩は、人それぞれに自分自身についての視点を与えるに至ったのが、どのような研究開発の結果だったのかを説明することだ。その視点という場所から、われわれは責任を取るのだ。
このアルキメデス的な場所の名前は、"自己"だ。
(自由は進化する, p.360, 強調引用者)
自由は進化する | |
ダニエル・C・デネット 山形 浩生 おすすめ平均 自由意志論と進化論のつながりはまだまだ わたしには難しかったっす 文体が評価を分けそう 自由意志って難しい 確かにトンデモナイ本 Amazonで詳しく見る by G-Tools |