精神の救済を宗教に求めるのは勝手だが、それを他人に押し付ける奴は滅びろ
昨日「宗教上の理由で」という表現がTLで(ネタとして)Buzzっていて、それに関連してちょっと昔のことを思い出していた。あんまし嬉しい記憶ではないし、読む人によっては不快感を感じるだろうし、なにより今日はとりわけ戯言なので、ヒマな人だけ読んでくれたらいいと思って垂れ流す。
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今となっては僕の宗教は讃岐うどん原理主義ぐらいのものだけど、物心ついたころ、我が家は"エホバ"だった。
「エホバの証人 - Jehovah's Witnesses」は世界に広く信者を擁するキリスト教系の新興宗教というかカルトで、駅前で冊子を配っていたり、勧誘がうっとうしかったり、輸血拒否で社会問題になったりしたアレだ。説明適当。
そう長く信仰していたわけではなく中学に上がる頃にはほとんど痕跡もなかった*1のだけど、宗教と聞くと最初に連想するのが、最も厳格だった小学生の頃の記憶だ。ごく普通の公立小学校に通っていた僕に初めて孤独を植え付けたのは、宗教という壁だった。たまに宗教系の学校出身の人から幼い頃の宗教体験を聞かされたりすることがあるけど、宗教系学校は「みんな同じことをしている」のだから、宗教が原因で異端を自覚することは少ないのではないか。。。と、僕は思っている。
その頃僕は、"宗教上の理由で" 国歌や校歌を歌うことを禁じられていた。これは唯一神*2以外(つまり、国家とか学校とか)を讃えてはならないからだそうで、ずいぶんと心の狭い神である*3。他の異性と話すだけで浮気だと騒ぐ恋人みたいな感じですか。
客観的な、自覚された"信心"が子供の心に芽生えるはずもなく、かといって肉親の言うことに従う以外の選択肢を考えだすことも出来ない年齢である。クラスの担任が変わるたびに、人気がない頃を見計らって「実は、歌えないんです」と伝えに行く時の、あの羞恥と孤独。子供が突然告白する、宗教という「大人の事情」に教師たちは様々な反応をしたが、それがどういったものであれ、僕の精神に深く刻み込まれた。あれに比べれば、好きな子に告白する恥ずかしさなど児戯に等しい。ごめんなさい調子乗りました。
そして式典で斉唱が始まると、一人だけ口を閉じたままの僕に周囲の友人達はチラチラと好奇の目を向ける。小学生の僕は、ただ下を向いて目を瞑りこの時間が一刻も早く終わることを"神に"願うか、視線に気付かないふりをして、溢れてくる涙をこらえながら前を睨み続けることしか出来なかった。
週二回か三回、近所の集会所で開催される集会に連れて行かれた。
途中で寝ると後で叱られるので、聖書を読んで暇をつぶしていた*4。引用されるフレーズを正の字を書いてカウントし傾向を調べるという、一人データマイニングみたいな遊びをやっていた。
集会の前後にある大人達の雑談タイムはもっと暇だった。同じ年頃の子供も来ていたし、走り回って遊びたいのが健全な子供というものだ。しかし、ハメを外してはしゃぎすぎるとまた罰を受けた*5。
この罰の程度は親の裁量によって決定され、気分によっては行われないこともあった。したがって「やってしまった」日の集会の帰りでは、家に向かう車の中、僕は親を喜ばせるようなことを必死で考え、喋り、一緒に笑ってくれることを祈りながら、恐怖の中で笑っていた。
罰を通じて身体を傷つけると悪魔払いになるということを学習した僕は、自分に落ち度があるといろいろな方法をもって自傷していた時期もあった。
もう少し長く我が家があの世界に居たら、僕はどういう人間になっていたかよくわからない。よくわからないまま与えられていた宗教という世界は、よくわからないまま、大人の事情で僕の前から消えて行った。
幸か不幸か、小学生の僕の心に信心など芽生えなかった。しかしより致命的なことに、幼い僕は歪んだフィルターを通して世界を認識していたのである。
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宗教家でもなく科学者でもなく社会人ですらない、発展途上で欠陥だらけの人間が何か一つ叫ぶことを許されるならば、精神の救済を宗教に求めるのは勝手だが、それを他人に押し付ける奴は滅びろ、という一言に尽きる。
宗教は時として、わかりやすい「社会悪」になりうる。ジハードしかり、オウム真理教しかり。宗教そのものを敵視して、オッカムの剃刀でばっさり切り捨ててしまうことは可能だし、バートランド・ラッセルのように「太陽の周りを周回するティーポットを神として崇めるティーポット教」という例を使ってそのナンセンスさを批判する*6こともできる。
しかし僕は、理性の育った人間が、精神の"核"として宗教を選択することまでは否定したくない。
小学生の頃「集会」で知り合った人達は、物腰も柔らかく、聡明で、人間としてはとても「いい人」ばかりだった。家族ぐるみの付き合いで一緒に出かけたり、食事に招かれたりしたことは、とても良い思い出だ。また、何か信じるものがある人は決断が速いし、迷いもない。ある友人は世間の風当たりのよくない(2chは世間だろうか)宗教を信仰しているが、筋の通った人間だし話してて面白く、とても好きだ。友人にも自分の宗教を押し付けてくることはない。彼のような人にとって、宗教を持つことは「強さ」になると思う。
こんなことを言っていると「どこからが押しつけなのか」という面倒くさい話になりがちだが、世のほとんどの問題と同じくこの主張は白から黒へのグラデーションになっていて、ここまではOKだけどここからはNG、といった明確で一般的な線引きなど不可能であることを追記しておきたい(どうせタイトルしか読まない人もいるけど)。
今では強烈な偏見や狭量を持つ人と交流することに面白みを感じられるようになったのだが、これは、僕自身が歪んだフィルターを覗いていた経験があるからかもしれない。
しかし、強力すぎるミームは時に精神の有り様を歪めてしまう。自分がいかにその宗教を素晴らしいものだと思っていたとしても、他人にそれを話す時は慎重であるべきだ。少なくとも、自分で判断する理性を持たない子供に対しては、いくら子供のためと思っても、押し付けない方が賢明である。
と言っても、これはそれこそ「理性的」な話で、実際は理性など関係なく宗教はどんどん広まろうとする特性を持つ。今まで生き延びている強力な宗教は特にその傾向が強い。エホバの証人を例に挙げると、信仰していればハルマゲドンが来たときに*7生き延びることが出来るので、他人のためを思って(親しい人ほど熱心に、道行く人々もできるだけ多く)布教する。これはミームの繁殖を促す、とても強力な特性だ。
そして、精神を自衛するために僕の見つけた"ミームのワクチン"が、生物学であり、科学的思考であり、哲学であり、インターネットであり、拡散する興味に基づく情報の大量摂取であった。僕が大学に合格して上京するやいなやリチャード・ドーキンスにハマり、『利己的な遺伝子』をはじめ『盲目の時計職人』『遺伝子の川 』『虹の解体』などを読み漁ったことは、思考のバランスを取り戻すための必然だったのかもしれない、とすら思う。
知性は、それが自由ならば、神がするようにして世界を見るだろう。"ここ"も"いま"もなく、希望も恐れもない。習慣化した信念や受け継がれて来た偏見にとらわれず、冷静かつ公平に知識 -- 人間にとって可能な限り非個人的で、純粋に観念的な知識 -- を得ようという思いのもと、世界を見るだろう。
("The Problem of Philosophy"/Bertrand Russell: 哲学入門, p.194)
Wissen ist Macht、知は力なり。プライベートのメールアドレスにも組み込まれているこの言葉は、僕にとって、思春期においてようやく獲得した精神の自由を意味するものなのである。
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神は妄想である—宗教との決別 | |
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*1:飽きっぽいのは血筋説
*3:エホバの代名詞にもなっている"輸血拒否"は科学的正当性や社会的軋轢はともかく、宗教の主張としてはなくもない気がするけど、歌うくらいいいじゃんね。歌はリリンの(ry
*4:だから物語としての聖書は結構好きだったりする。あれは不条理なSFとして読むとなかなか面白い
*5:そういう風に教育されたので未だに僕は全力でハシャぐことが出来ず、イベントとかの時たまに困る。まぁ最近は、はっちゃけることを強制されることもないし、あまり自分で気にしてないけど。
*6:うろ覚え
*7:ちなみに「世界の終わりの日は近い」ってずっと言ってるんだけど、80年代->90年代->2000年代...と予定日は絶賛延期中ですね