ミームの死骸を待ちながら

We are built as gene machines and cultured as meme machines, but we have the power to turn against our creators. We, alone on earth, can rebel against the tyranny of the selfish replicators. - Richard Dawkins "Selfish Gene"

We are built as gene machines and cultured as meme machines, but we have the power to turn against our creators.
We, alone on earth, can rebel against the tyranny of the selfish replicators.
- Richard Dawkins "Selfish Gene"

17歳であるとはそういうことだった。[RT 嘘日記2009・秋]


秋の夕方には、どこか突き放すような優しさが混じっていると彼は思う。空気には昼間の暖かさの残滓が残り、からからとした心地よさの裏で、時折吹く弱い風は夜の冷たさを抜け目なく忍ばせて来るのだ。
彼は夏服のカッターシャツから剥き出しになっている腕を軽くさすりながら、学校の帰り道を歩いて行く。




言葉について考える。言葉は嫌いだ。胸の奥にある薄ぼんやりした感情に何らかの名前を与えて発音した途端、ほんとうのことが消えてしまうような気がするのだ。かと言ってぼんやりした感情が言葉よりも好きかと言えば、別にそうでもない。そんなところだ。

彼には何もない。将来やりたいこともない。中学時代からやっているテニスにしても、惰性で続けているに過ぎない。さほどうまくもない。人とうまく喋ることもできないし、自分がどんな顔で笑っているのかわからないまま、周りに合わせて笑っている。学年トップ層を譲ったことがない成績にしても単純に楽がしたいだけで、それなりの成績を保ちさえすれば大半の物事が円滑に順調に、するすると流れてゆくことを知っているというだけの話だった。17歳であるとはそういうことだった。

色々な人が色々な言葉で彼を表現したが、彼はどんな言葉であろうと、自分とほんとうに結びついていると実感した試しがなかった。17年間生きて来て何か学んだことがあるとすれば、人はみんな好き勝手に物事を考えているということだ。
そんな彼が生まれて初めて何かを欲し、他人に対してぶつけた好意の言葉というものは、何より自分自身に驚きをもたらした。


なにかといえば、彼は昨日、クラスメイトの女子に告白した。


彼が彼女について知っていることはさほど多くない。
背が低い。セミロングの髪を持て余し気味に後ろで束ねていることもあれば、束ねていないこともある。顔立ちは整っているが、人目を引くほど美しいわけではない。あまり笑わない。部活には所属していないらしい。休み時間には何か本を読んでいるか、もしくはふらっとどこかに消えて、チャイムが鳴るきっちり1分前に帰って来て、静かに着席する。クラスではいつも居心地が悪そうで、かと言って孤立しているわけでもない。ただどこか儚げで、掴もうとすると、すいっ、と手のひらから逃げてしまう金魚のような存在に思えた。


一つ印象に残っている出来事がある。英語の時間、教師によって英文の和訳を求められた彼女は音もなく立ち上がり、


「...すみません。ぼんやりしていました」


と言ってのけた。クラスは笑いに包まれ、彼女自身もひと呼吸遅れて照れたように笑って、音もなく座った。彼は笑わなかった。質問がわからなくて笑いを取ろうとしたわけでもなく、彼女は真剣にぼんやりしていて、それをそのまま言葉にしただけだとわかったからだ。彼女は、普通とは違うルールで日々を生きているのだと直感した。真剣に窓の外を眺めていったい何を考えているのだろう。知りたい、と思った。初めて抱いたその興味は、自動追尾ミサイルのように勝手に彼女の一挙手一投足を記憶に放り込み続け、増大の一途を辿った。拡散防止条約も手遅れだった。

彼が彼女について知っていることは、やはり多くない。
でも人を好きになるなんてそんなものだろう、と彼は思う。そもそも人の感情に根拠があった試しなどないのだ。死を間近にした老人のように心の中で嘯き、駅に向かう道で、意味もなく鞄をぶん回してみた。すっぽ抜けた。



昨日、放課後、教室にて。どうして告白などという大それたことを成し遂げることができたのか、彼にはわからなかった。ただ彼はそうしなければならない必要を感じたから従ったまでのことだった。向かい合っていわゆる告白をした後、彼は咄嗟に出て来た自分の言葉が、妹の読んでいる少女漫画やゴールデンタイムのドラマで散々言い古されて来たような陳腐な言い回しになってしまったことを悔やんだ。
だから言葉は嫌いなんだ。

中学校の半ばから急に伸び出した身長は留まる所を知らず、背が高いことにどこかばつの悪さを感じていた。やめてくれ。そんなに目立つような中身は持っていない。いつもそう思っていた。背の高さが災いして、うつむき気味の彼女の目は見えなかった。彼はもう一度、言葉を繰り返した。既に顔は炎上している。一回も二回も同じだろう。


彼女はようやく少し顔を上げ、垂らした前髪の隙間から彼を見上げるようにした。その黒い目には、はっとするような光が宿っていた。いや、特筆すべき感情が見いだせなかったことが彼を惹き付けた。彼自身を見通すかのような、その後ろにある風景を眺めているかのような、透明な水の底から水面を見るような瞳で彼を見た。黒い瞳は透明で、見上げる水面には彼が映っているはずだった。素直に、綺麗だと思った。


彼女は何か言おうとして、口を半開きにしたまま、それでも何ら言葉を発することなく数秒間逡巡していた。
そしてそのまま目を逸らすと、すっ、と彼の横を通り抜けて教室を出ようとした。


彼は、今手を伸ばさないと何かが永遠に失われてしまうような気がした。ぼんやりとした、それでいて確かに掴みかけた何かが。

彼は言葉に頼ることをやめ、咄嗟に彼女の手首をつかんでいた。彼女は乏しい表情に少しばかりの驚きを湛え、今度ははっきりと彼を見上げた。見た。今度の視線は、彼を通過することなく彼を捉えた。彼女の瞳は、今までにはなかった色あいの光を宿していた。



そして今日。

自宅から学校までは徒歩で20分ほどだが、今日は自宅に直接帰らずに駅で人を待った。空気が冷えている。下校時刻であり、駅にはそれなりに人が集まっていた。電車の本数が多くないため、待合室に座って思い思いに時間をつぶす人がほとんどだ。髪を茶色く染めた女子生徒が待合室に座り、足をぶらぶらさせながら携帯電話で誰かと話している。


「兄貴」


声の主は振り返った先に立っている。こいつはいつも後ろから登場しようとするので驚きはしない。腕を組む意味はよくわからない。ブレザーに身を包んだ女子生徒は、よく見知った顔だった。ただし同じ学校の生徒ではない。彼の町から40分ほど電車を乗り継いだ先にある、県下指折の進学校に通っていて、というかそこの生徒会長で、幼稚園からの旧知でもあった。


「おう、姉貴。1ヶ月ぶりかな」


その幼馴染は彼のことを兄貴と呼び、彼も幼馴染のことを姉貴と呼んだ。ちょっとしたRPGのようなものだ。
家から近いからという理由で今の高校を選び、自己保身のために成績を上げるだけしか能のない彼とは違って、彼女は成績優秀スポーツ万能、自由奔放で自己を貫き、口が達者で手も出る足も出るという漫画の登場人物のような女子だった。友人の薦めで某漫画雑誌に連載されている超人生徒会長の話を読んだ時には、どう見てもあいつだ、と思ったものだ。根本のところでまったく優等生ではない所が決定的な違いではあるが。


この幼馴染は先日の告白をどこからか聞きつけたらしく、今日の昼頃メールを寄越して、夕方顔を貸せと一方的に宣言した。今時顔を貸せはないだろうと突っ込みたくなったが、驚くべきはこの情報の速さである。彼は誰にも話していない。とすれば告白を受けた彼女の方か、それとも目撃者がいたのか。何にせよ恐るべき情報網だ。女子の噂話ネットワークの速さは、光に代わる次世代通信技術の礎となるのではないかと密かに目を付けている。



駅前のスタバに場所を移した幼馴染が会話の体勢に入ったのは、ホワイトチョコレートマカダミアクッキーとチーズケーキと抹茶クリームフラペチーノ・エキストラホイップを平らげた後だった。その間彼は本日のコーヒーをちびちびとすすっていた。意外といけるな、グアテマラ


「さてと、洗いざらいぶちまけてもらいましょうか。さもなくば」
「なんでいちいち威圧的なんだお前は」


脊髄反射の領域に達している突っ込みをとりあえず入れた後、彼は事の顛末を話した。顛末と言ってもさほど長い話ではない。ちょっと話すきっかけが出来たから、呼び出して、告白して、勢いで腕を掴んで。それだけだ。


「返事は?」
「まだもらってない」


幼馴染は「かー!」と大仰に天を仰いだ。いちいちリアクションの大きい奴だ。長い髪がふわっと流れる。それだけじゃない。メアドも知らないし家の住所も電話番号もわからず、次にどうやって第一声をかけたものか全然思いつかない、というのが彼の正直な所だった。


「なんだそりゃ。これだから童貞野郎は」
「極めて遺憾ながら僕が童貞である事に異論の余地はないが、その発言は童貞差別に値しないのか生徒会長」
「全国1億2千万の童貞を敵に回してしまったかな」
「お前はこの国をどうするつもりだ!?」


幼馴染は飄々としたもので、ふむ、と顎に手を当てて頷いた後にコーヒーを口に運んだ。彼の手元にあったはずの本日のコーヒー・グアテマラだった。いつの間に。


「...努力はした」
「努力は継続してこそだよ」
「うっ...」
「そして、努力したと言う権利があるのは成果を出した者だけだ」


言い訳がましい弁明をさっくり二重に切り返され、何も言えなくなる。彼女と話していると、自分が恐ろしく間違っているような気がして恥ずかしくなるのはいつものことだ。芯を持っているというのは素晴らしいことだが、芯なしの一般人にとってはいい迷惑である。芯なし。エコな響きじゃないか。


「兄貴はただでさえ冴えない顔してるんだから、せめて行動、肉食獣だよ。虎や!虎になるんや!」
「姉貴と一緒にされても困る。僕は平和主義者なんだ」
「あんた図体はでかいくせに気が小っさいからね」


幼馴染はからからと笑った。秋の夕方のように。彼もそんな風に笑えればいいと思ったが、自分がいったいどんな顔をしているのかよくわからなかった。あの時もそうだ。彼女の手を掴んだ時、自分はいったいどんな顔をしていただろう。彼を見返した彼女の目には、何が映ったのだろう。

幼馴染は少し窓の外の空を見上げ、ふ、とひとつ息をついた。それは彼女独特の間の取り方で、会話の流れをリセットする時の癖だった。会話の節々に挟まれるそのリズムを、彼は嫌いではなかった。窓の外では沈みかけた秋の太陽が最後のあがきを見せ、鋭角鋭く切り込む光は大気中で拡散された挙げ句、搾り糟である赤色の波長を彼と彼女の瞳にまで届けていた。彼は綺麗なものを素直に綺麗と思える人間だった。


電話が鳴る。幼馴染のもので、着信音はなぜかヱヴァだった。でーんでーんでーんでーんどんd「私だ」電話を取り、しばらく何かやり取りがあった後、幼馴染はすっくと立ち上がった。


「呼び出しておいて悪いが、ちょっと急用が出来た。またメールする」


忙しい奴だ。いや、実際に忙しいはずなのだ。幼馴染が兼任している役割(それは学校のものだったり、地域のものだったり、彼女の父親が経営している会社のものだったりした)の数をカウントしようとしたが、挫折したことは記憶に新しい。
多才で多忙な彼女が、昔のまま接してくれるのはとてもありがたいと思っている。彼自身には、何もないというのに。


何もない彼が、初めて自ら求めた人。突然、今までろくに離したこともないクラスメイトから告白されたあの娘は、いったい何を思っただろう。今何を考え、どんな風景を見ているのだろう。同じ年数、17年、彼女は過去にどんな経験を積み重ねてきて、そして彼の存在はその中でどこに位置するのだろう。
彼女から見れば、彼も記号化されたクラスメイトのひとりに過ぎないのかもしれない。駅から帰るいつもの道は、どこまでも記号化されていた。



9月を生きている。そう実感するのは、コンクリートの埋め尽くす住宅街でどこからか虫の声が聞こえてくる瞬間だ。

さっきはすまなかった。1900に例の場所で落ち合おう。幼馴染は彼をイジり足りなかったらしく、すぐに再呼び出しがかかった。ちなみに時刻を4桁の数字で表すのは彼女の癖で、口頭で読み上げる時ですら「にせんにひゃくさんじゅう時」などと言うものだから変換に時間がかかる。なんとも無駄なコストだ。神妙に60進数を受け入れろ。冷蔵庫にあったものを適当に組み合わせて軽食を食べた後、軽くシャワーを浴び、長袖とフード付きのパーカー(彼にとって上着にフードがついているかどうかは、人生哲学に関わる問題だった)に着替えた彼は夜の町に繰り出した。


近隣住民の食卓を支える大型スーパーマーケットの裏にはちょっとした空き地があって、かつて駐車場として使われていたそこは、数年前に建設されたホームセンターによって現在死角と化している。彼と幼馴染はそこで待ち合わせていた。
既に幼馴染はピンクのタンクトップと7分丈のカーゴパンツをはいて(こちらが寒いから長袖を着て来たというのに、なぜ制服より薄着に着替えるのだこいつは)、地べたにあぐらをかき、その両手には日本酒の一升瓶と紙コップが握られていた。


「お前、それ、どこから」


至極もっともな彼の質問には答えず、目をぎらりと光らせて彼女は言った。


「座れ。作戦会議だ、兄貴」


彼に選択肢はなさそうだった。



酒が足りないらしい。彼女お気に入りの「浦霞」を買い足してもいいが、最初に日本酒、第二波以降は発泡酒かカクテルというのが彼らのスタイルだった。しかし飲酒スタイルを確立している高校生というのも行く末が危ぶまれる。普段使わない店舗の方がいいだろうと、幼馴染に言いつけられたお使いをこなすため少し自転車で走った所にあるコンビニに入った。ふぁみふぁみふぁみー、と入店音を口の中で反復してみる。酔いのせいだ、たぶん。


バイトにしては年齢が高すぎるが、かといって壮年というわけでもない店員(店長なのだろうか)が、どうやら新人らしい店員にタバコの銘柄を説明している。それを横目に発泡酒の棚を物色していると、ふと、既視感を感じた。

改めて先の二人に目を向けると、店長(仮)の説明にはきはきとした気持ちのよい返事を返すその姿は、同じクラスの女子だった。かわいいというよりは美人で、男子の間の人気も高い、いつもクラスの中心にいる華やかな存在。その彼女がカウンターの向こう側で学校のものではない制服を着ている絵はなかなか新鮮だった。

しかし、意外と新鮮なクラスメイトとコンビニ制服の組み合わせが問題ではないことは考える間でもなく明白だった。レジで顔を合わせれば、会話が発生することは避けられない。いくら彼が口下手だからと言って、クラスメイトを完全に無視するようなキャラクターではない。キャラの安定性は大切だ。会話の吐息から日本酒の匂いでも嗅ぎ取られるとまずいし、いやそれ以前に、クラスメイトにアルコール飲料のレジ打ちを任せる高校生は、控えめに言って適切ではない。あなたとコンビになってる場合じゃない。
彼は時計を確認する。もう15分ほどで20時になる。店長(仮)との会話から推測するにクラスメイトはそろそろバイトを上がるらしく、事務所の方に入って友だちと電話を始めた。見つからないうちに、と、いくぶん顔を隠し気味にしながら外に出た。もう酒はいいだろう。道すがら自動販売機でお茶を買うことにした。幼馴染にはどやされるだろうが、あいつはエタノールではなく雰囲気で酔っているザルだからどうせ一緒である。ともかく社会的生命に別れを告げるには早すぎる。17歳であるとはそういうことだった。




物語は嘘っぱちだ。彼は夜道を歩きながらそう思う。

物語は、一番いい所で終わってしまう。終わってくれる。古今東西の物語は数種類のパターンに分類出来る、と何かの本で読んだ事があるけど、物語というのは日常の特別な一頁を切り取ったダイジェスト版のようなものだ。

それに対して、日常は絶望的に続いて行く。とんでもない大失敗をやらかしたって、コインを入れなくてもGAME OVERの文字は現れないし、明日になる。無限コンティニューだ。死にたいほど落ち込む夜の後にはちゃんと朝が来る。死んだ人は忘れられ、心は移ろい、世界は残酷に回って行く。勇気を振り絞って告白したって、お茶のペットボトルをぶらぶらさせながら夜道を歩く彼自身がここにいる。物語は終わらない。終わってくれない。

人生に決定的な瞬間なんてものはあり得ない。運命と呼ばれる予定調和は存在せず、ただ偶然と事実が在る。そこに意味を見出すのは、人間の物語創造能力だ。

人間以外の生き物は物語を持たない。それは単なるシステムに過ぎない。意味もなく、意図もなく、ただそこに、そうであるがままに生きて死ぬ。でも、人間は物語を作る事が出来る。なぜなら人間は記憶を持っているし、記憶を言葉にする事ができるから。そして、記憶を書き換える事すら。昔見たアニメで、こんな言葉があった。
「きおくにないことはなかったこと きおくなんてただのきろく きろくなんてかきかえてしまえばいい」

今や彼の心に居座って動かない、あの儚げな彼女にとって、自分である必要なんてどこにもないのだろう。誰だって特別じゃない。彼が彼である必要すらなく、どこまでも代替可能な17歳だ。



秋の夜は更けて行き、ゆらり、と風が吹いて雲が流れた。殺人的に美しい月。



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