ミームの死骸を待ちながら

We are built as gene machines and cultured as meme machines, but we have the power to turn against our creators. We, alone on earth, can rebel against the tyranny of the selfish replicators. - Richard Dawkins "Selfish Gene"

We are built as gene machines and cultured as meme machines, but we have the power to turn against our creators.
We, alone on earth, can rebel against the tyranny of the selfish replicators.
- Richard Dawkins "Selfish Gene"

バイオインフォ(略)技術者試験に不本意な成績で合格

したっぽい.

Japanese Society for Bioinformatics - JSBi :: バイオインフォマティクス技術者認定試験

昨年11月に試験で12月には合格わかってたんだけど, 成績がようやく今月に入って届く.

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誕生日記載する必要なくね?

答え合わせして900(1000点満点)は超えてるだろと思ってたら, フタを開けると800点しか取れておらず愕然とする.

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特に点数の低いバイオインフォマティクス分野(後半)は, タンパク質立体構造系の問題が多くてよっしゃと思ってたのに何があったのか... 悲しい. 解答の公開が待たれる.

平成26年度試験問題&解答

平成27年1月中の公開を予定しています。

Japanese Society for Bioinformatics - JSBi :: 平成26年度試験情報

はよはよ

試験について

試験は4パートに分かれており

  1. Bio
  2. Info
  3. BioInfo(1)
  4. BioInfo(2)

がそれぞれ250点ずつというイメージ. 過去問が公式Webサイトから落とせるのでそれを解いて, わからない問題については教科書などを調べるという勉強法で出社前とか昼休みとかに1.5ヶ月ほど.

バイオインフォな実務で使う知識がどれくらい含まれてるのかわからんのが正直なところだけど, 久しぶりに専門分野の記憶を引っ張りだして来れてわくわくしたのと, やはり自分は学習が大好きなことを再確認し, それなのに就労以降明らかに低下し続けている知性を顧み, さらに正月に弟と4,5年ぶりに顔を合わせたらヤツは理系修士からの技術職就職してて, 大学で学んだ知識ばりばり使ってとても楽しそうでいいなぁ, 人生とは... みたいな気分に. 話が逸れた. 人生よ.

使った教科書的なものをアフィリエイト

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バイオインフォマティクス ゲノム配列から機能解析へ 第2版

何はともあれこれ. 今まで買おう買おうと思いつつ値段から踏ん切りがつかなかったけど試験挑戦がきっかけとなり購入. 良い本です

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ヴォート 生化学〈上〉

ヴォートはまぁ, たまたま僕が学生時代に使ってた生化学の教科書がコレというだけなんだけど, 生体分子の働きを化学レベルから考察するレイヤーがとても心地よい. バイオ分野の学習に.

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Molecular Biology of the Cell

おなじみザ・セルこと細胞の分子生物学. わりとマクロなバイオ分野知識が抜けてたりしたのでこいつで補う. 実際僕が持ってるのは銀色表紙の第4版なんだけど, 昨年末に青表紙の第6板が出たので記念してそっちを貼っとく. 買いたいが金欠で辛い... Kindle版だと1万円台で買えるっぽくて揺れてる.

で, インフォ分野の問題は

  • 実務で馴染んでて「はいはい」で回答できる問題
  • ググれば十分な情報が得られる問題

が多くてそんな教科書の出番を感じず特に紹介するものなし. 数学(統計・確率)がらみの問題がやや手こずったけど, 前回の記事でも触れた↓の本が概念をつかむ助けになった.

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いじょ

人生よ

ベイズの定理と条件付き確率についての覚書

前口上

条件付き確率を調べていてふいに「ベイズの定理ってもしかして大したこと言ってないのでは」と気がついたので, 将来記憶を失った自分に説明するイメージで記録する.

条件付き確率

まずベイズの定理は確率論における「条件付き確率(conditional probability)」に立脚しているので先に説明する.

条件付き確率とは, 事象Aが起こった条件下において事象Bが起こる確率のこと. たとえば

  • 雨が降る確率をP(雨)
  • 交通事故の発生確率をP(事故)

としたとき, 雨が降っている日に(= 雨が降っているという条件下において)交通事故が発生する確率を

P(事故|雨)

と表すことに決める. これが条件付き確率である.

記法について: P(B|A)は英語だと “the conditional probability of B given A” あるいは “the probability of B under the condition A” と読むらしい.

例をでっち上げてベン図を書いてみる.

  • 1年365日のなかで
  • 雨が降った日が100日
  • 事故が発生した日が67日
  • 雨が降っていて事故が発生した日が29日

と仮定すると(値の妥当性についてはとりあえず目を瞑って欲しい)以下のようになる*1.

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以上の数値を使えば条件付き確率の値が求められる…のだけど, その前に一瞬だけ同時確率の話をする.

同時確率

同時確率(joint probability)は中高数学から馴染みがある話だと思う. サイコロ2個振って同時に1の目が出るっちゅーアレ. 今回使っている例でいうと「事故が起き, かつ雨も振っている確率」が同時確率で,

 P(事故,雨) もしくは  P(事故 \cap雨)

と表す. カンマで並べてはいるけど順序に意味はなくP(A,B)P(B,A)に等しい. 同時確率は母数(365日)のうち「雨が振っており事故が発生した」29日の占める割合であり,

 P(事故,雨) = \frac{29}{365} \simeq 0.08

となる. 8%ですね. 条件付き確率との間には

  • 「事故が起こる確率. 分母は雨が振っている日」が条件付き確率.
  • 「事故が起こり雨も振っている確率. 分母は365日」が同時確率.

という違いがあるけど言葉で表すと混乱しがちかもしれない. 後で数値が出てきたときに戻って来て読みなおすと「なるほど」となるかも.

ふたたび条件付き確率

同時確率を紹介したので, 条件付き確率の定義を話せる. コルモゴロフによる P(B|A) の定義は以下の通り.

 \begin{eqnarray}
P(B|A) = \frac{P(B,A)}{P(A)}
\end{eqnarray}

先ほどの具体例を引っ張り出してくると, 雨の日に事故が発生する条件付き確率P(事故|雨)

 \begin{eqnarray}
P(事故|雨) = \frac{P(事故,雨)}{P(雨)} = \frac{\frac{29}{365}}{\frac{100}{365}} = \frac{29}{100} = 0.29
\end{eqnarray}

となる. 分子の同時確率も分母の雨確率も, 数値を入れてみると共通の分母(365)を持つので結局「全雨日数中の事故が起こった日」の割合を見ることになるのがわかると思う.

この数値からどんな意味が読み取れるだろう? 「雨の降っている日に事故の起こる確率」0.29は, 「晴れの日に事故の起こる確率」約0.11*2に比べ2.5倍以上になるので「雨の降っている日は事故が起きやすいので危険ですよ」と言う話を数値で表せたことになる*3.

ここでポイントになるのは, 単純に数値だけを比べると「雨の日は29日事故が起こってるけど, 晴れの日も38日は事故起こってるんだから大したこと無くね?」と勘違いしてしまう可能性があるけれど, 条件付き確率を使えば「雨の日自体が365日中100日しかないんだから, その中の29日は晴れの日とは重みが違うっしょ」ということを数値で語ることができて嬉しい!! というところ.

独立試行と条件付き確率

やや余談.

サイコロを振るとか, コインを投げるとかいった実験は直前に何が出ていようが次の一投には影響せず, 六の目が出る確率は等しく \frac{1}{6}であり, コインが表になる確率は等しく \frac{1}{2}である. こうした前後の試行から切り離されている類の実験を"ベルヌーイ試行"と呼び, それぞれの試行が「独立である」とも言う.

ベン図だと雨ゾーンと事故ゾーンに重なりがないイメージ.

AとBが独立である時, 同時確率は

 \begin{eqnarray}
P(A,B) = P(A) * P(B)
\end{eqnarray}

となる. したがって条件付き確率は

 \begin{eqnarray}
P(B|A) = \frac{P(B,A)}{P(A)} = P(B) \\
P(A|B) = \frac{P(A,B)}{P(B)} = P(A)  \\
\end{eqnarray}

である… 以上.

  • 20150210追記: 独立試行時の同時確率が盛大に間違えてたので修正

ベイズの定理

ようやく本編. とはいえ, ここまでの(1),(2),(3)の知識を使うことでベイズの定理自体はすぐ出てくる.

 \begin{eqnarray}
P(A|B) = \frac{P(A,B)}{P(B)} \tag{1} \\
P(B|A) = \frac{P(B,A)}{P(A)} \tag{2} \\
P(A,B) = P(B,A) \tag{3}
\end{eqnarray}

(3)の条件を当てはめた上で(1)を(2)で割れば  \begin{eqnarray} \frac{P(A|B)}{P(B|A)} = \frac{P(A)}{P(B)} \end{eqnarray} となり, これを整理すれば以下の恒等式が導ける.

 \begin{eqnarray}
P(B|A) = \frac{P(A|B)P(B)}{P(A)} \\
\end{eqnarray}

この関係性が, ベイズが発見しラプラスが広めた「ベイズの定理」である.

ベイズの定理を使ってみる

ベイズの定理を使ってみる. 雨の降る確率がわからない世界線を想定し, その上で, 過去のある日(X年Y月Z日とする)にどのくらいの可能性で雨が降っていたかを見積もりたい.

まず, 何の情報もない状態ではあるが, 雨が降っていた確率を仮に0.1と置く. これはP(雨)であり, ベイズの文脈においては事前確率(prior probability)と呼ばれる.

ここで追加情報が入ってきた. X年Y月Z日の天気は相変わらずわからないが, どうもこの日には事故が発生していたらしい.

事故が起こっている, という前提条件が確定したので, ベイズの定理を使ってP(雨|事故)を求めることが出来る. P(雨|事故)は条件付き確率以外の何者でもないんだけど, ベイズの文脈においては事後確率(posterior probability)とも呼ばれる.

 \begin{eqnarray}
P(雨|事故)_{事後確率} = \frac{P(事故|雨)P(雨)}{P(事故)}
\end{eqnarray}

実際に値を計算してみる. 事故が起こる確率P(事故)0.08と, 雨が降っている時の事故が起こる確率P(事故|雨)0.29は予めわかっているものとする.

 \begin{eqnarray}
P(雨|事故)_{事後確率} = \frac{0.29 \cdot 0.1}{0.08} \simeq 0.36
\end{eqnarray}

事故が起こったという事実を踏まえ, 雨が降っていた可能性は0.1から0.36へと更新された. 最初に何もわからず0.1と置いたP(雨)よりは, 事故が起こったという事実を踏まえたP(雨|事故)の方が真実に一歩近づいているはず… というのが大枠の使い方*4.

ところで, 上の例で最初に雨が降っていた可能性を0.1と置いたが, 仮に0.2として計算するとP(雨|事故)は0.73となる. このように結果が主観(subjective)によって左右されるところが特徴的で, これが反ベイズ派による批判の的になってきたらしい.

一方で, 「理論的には客観確率が正確ってのはわかるが」「そうは言っても現実の問題をだな」という人は古くからベイズの定理を利用していろいろと成果を上げてきた. そのへんの戦乱(?)の歴史を書いた読み物が 『異端の統計学ベイズ』 で, 面白い本です.

そもそも

上の例イマイチな気がする. 条件付き確率の方と例を揃えようとしたのが悪かったか… より現実的なベイズ用例を探す旅に出ます.

参考(にした)文献

f:id:Hash:20141204010219j:plain

文中にも出たけど, 読み物.

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対象はベイズに限らず確率統計全般だけど, 説明がしつこいくらい丁寧で, 手を替え品を替え大量の情報で叩き込んだほうが理解につながる僕のようなタイプにはたいへんありがたい.

余談

今上場してブイブイ言わせている某社がまだ小さかったころ(面接ではないが)ちょっと遊びに行ったら, ホワイトボードにベイズの定理が書いてあり, あれがウチの秘伝公式だよ(笑)とおちょくられた記憶がある.

*1:RubyとRでデータ作成

*2: \begin{eqnarray} P(事故|晴れ) = P(事故|\lnot雨) = \frac{\frac{29}{365}}{\frac{265}{365}} \simeq 0.11 \end{eqnarray}

*3:繰り返しになるが数字は適当. がんばれば 警視庁の事故件数 とか 気象庁の天気履歴 を使って実際のトコロどうなのか調べられそう

*4:だと思っている

Go言語でAsanaのコマンドラインなクライアント作った

こんてんつ

  • これはなに
  • つかいかた
  • GoかわいいよGo
  • これから

これはなに

去年から仕事のタスク管理にAsanaを使ってる.

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...んだけど, Webインターフェイスがイマイチ. 重いし, 愛用してるViChromeとの相性が悪いのか多言語での利用をあまり考慮されていないのか, 入力文字の変換中に勝手に確定されてしまったりとストレスがたまる.

なので, 最近周囲でGo機運が高まってきたこともありGoでクライアントを書いてみた

memerelics/asana -- GitHub

つかいかた

せっかくの機会なのでHomebrewでインストール出来るようにしてみた. memerelics/homebrew-asana レポジトリを作成してgo getするだけのFormulaを書いておけば,

$ brew tap memerelics/asana
$ brew install asana

で入る. tap便利. Macじゃない人は

$ go get github.com/memerelics/asana

でどうぞ. うまく動かなかったら教えてください.

で, 使い方. だいたいREADMEと同じ内容になってしまいそうだけど.

Asanaは API KEYを使って認証するのが簡単なのでkeyを設定します. 専用のasana configというコマンドがあるのでそいつを叩く.

$ asana config
visit: http://app.asana.com/-/account_api
paste your api_key: _ <Copy API KEY from URL above and paste it.>

f:id:Hash:20140816063224p:plain

Asanaの設定画面からAPI KEYをコピペしてEnter押せば, 次にworkspaceを選択させられる(workspaceが1個しかなければ自動でそれ選択). 以上で設定完了, 設定内容は~/.asana.ymlに保存される.

タスク一覧を見るにはasana tasks

$ asana tasks
 0 [ 2014-08-23 ] 厚生労働省のデータを元に栄養素の摂取量基準作成
 1 [ 2014-09-01 ] co-meetingをEverNoteに
 2 [ 2014-09-01 ] RSSをbotに吐かせたい.
 3 [ 2014-12-11 ] 食べログ「行った・行きたい」を取得して表示するアプリ
 4 [            ] Android公式チュートリアル by Googleをひと通り

なんかこんな感じで出てくる. タスク番号, 期日, タイトル. asana task -v <task_id>とすれば詳細が見れる. このtask_id長いのでそのうちなんとかする(20140824 =>なんとかした).

$ asana task -v 1

[ 2014-09-01 ] co-meetingをEverNoteに
--------
co-meetingをEverNoteに
------------
created_at: April 03 2014 06:31:52 AM
url: https://www.evernote.com/Home.action#n=62e6c95d-8888-0000-ac23-aaaaaaaaa05b

----------------------------------------

assigned to you (2014-04-03T07:22:35.735Z)
--------
changed the due date to May 1 (2014-04-03T07:22:35.785Z)
--------
重要度は増すばかり
by memerelics (2014-06-13T03:24:23.187Z)
--------
APIはあるけどGETがないという...
by memerelics (2014-06-21T07:04:34.979Z)
--------
changed the due date to September 1 (2014-08-15T20:24:21.917Z)
--------

コメントや"assigned to you"といったhistoryを表示しなくてもいいときは-vを外す.

出自を少し説明すると, このタスクはEverNoteの「やりたいこと」Notebookに突っ込んだNoteがIFTTTで自動的にAsanaに登録されたもの.

タスクが完了した時は

$ asana done 1

期日を更新するときは

$ asana due 1 2014-09-21

あと, コメントを投稿.

$ asana comment 1

するとエディタ(実際には$EDITOR環境変数を見てる)が開いてコメント編集画面になる.

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git commitの真似をしたくて頑張った. けっこう実装苦労したんだけど, ちょこっと「了解」とか書くだけの時もあるし, git commit -m相当のワンライナでコメントする機能もあったほうがいいなと今気付いた.

GoかわいいよGo

以下実装, とGoの楽しさについて. 「そんな新しい概念もないし, goroutineを除けば惹かれる要素もなさそう」と, チュートリアルをさっと流した程度でGoにはしばらく無関心だったのですが, いざ真面目に使ってみるとなんだこれってくらい書きやすい. ポイントを箇条書きすると,

  • gofmtの存在. 書式のブレを規約で回避.
  • 賢い型付け.
    • 型があることにより「ポカミス」を事前回避できるのが心強い.
  • 基本的なライブラリがひと通り揃ってる.
  • 例外がないのも意外と良い.

といったところだろうか. 何かいい表現思いついたらあとで追加する.

とくに型素敵. また, ビルドするとパッケージや変数の不使用もチェックされるので, コードがクリーンに保たれる. 脳味噌を些末事に使うことなくコード書ける気持ちよさ!

Emacsで保存時に自動的にフォーマットするgo-mode設定はこんな感じです.

例外がないのってどうよ? と思ったけど, いちいちチェックするのはめんどくさいものの, エラーを逐一ハンドリングすることでコードの見通しはよくなる気がする. 先の不使用チェックとも合わせて基本的に「小姑のように整頓していくことで, コードが決定的に破滅するのを防ぐ」スタイルなのかな. 上位1%かそこらの上澄みエンジニアが集まるGoogleが創り出したのが, わかりやすさを重視する小姑言語, って考えると面白い.

まだよく理解してない(と自覚してる)のがinterface, goroutineなので実装して出会ったら集中的に勉強する.

これから

最低限の機能が実装できて, 普段使いとしてはそこそこ使える感じになってきた. Asana使ってる人ヘーシャ以外で見たことないからニーズないんじゃねーのと思うけど, よかったらどうぞ.

上に書いたように, そもそもWebインターフェイスが重いというのが作成モチベのひとつだったので, 手元でサクサク動かせるように高速化はしたいと思ってる. 来週くらい. 複数のendpointを叩いているコマンドはgoroutineで並行処理させたり, リストをcacheしたり(破棄タイミングどうしよう), という方向をイメージしてるけどどうかな...

メインは速度だけど, 細々した使い勝手は改良して行くつもり. 特に長々したtask_idを打つのがイヤなので, index(何行目か)でアクセスできるようにしたい. asana done i1とか. i1-i5で一気に完了できたりすると気持ちよさそう(これもgoroutineが活きる).

いじょ

以上, しれっと4年ぶりの更新. はてなブログMarkdownで書けるのいいね.

追記 20140824

「これから」で書いた予定はだいたい実装できたのでv0.1.0に上げました.

  • キャッシュしたりtask詳細取得のところでgoroutineを使ったりしてちょっと速くなった
  • indexを使って0,1,2という番号でタスクにアクセスできるようにした

コレに伴って本文の例もすこし修正.

ブログ移転しました(してない)

// この記事は, 執筆当時はてなから移転するつもりで書いていた(内容は新ブログの URL を貼ってるくらい)のですが, 巡り巡ってはてなに戻ってきたので今となっては無意味

24歳の僕が掛け値なしの真実だと考える、人間と世の中に関するふたつの"核"(はてな最後の記事)(たぶん)


"ミームの死骸を待ちながら" が、第一期ライブドアブログ奨学生に選定された。

ブロガーに最大300万円の援助 ライブドア「奨学金」でアルファブロガー育成 - ITmedia ニュース

今月から1年間、月々X万円*1が給付され、返済の必要はない。既に学生支援機構さんに200万ほど借金があるので、さらに借金を増やす必要がないのはありがたい。
そして、ライブドアブログへの移設が受給条件のひとつであるため、ブログ奨学金札束でほっぺた叩かれt理念に強く共感した僕はこの記事を最後にはてなブログの更新を終える予定である。今までお世話になりました。逃げ出す僕を刺さないでください。


さて、これを一つの節目として、いま時点での明確なLogを残したいと考え、大仰なタイトルをぶち上げてみたが、僕の信念なるものは既に要所要所でブログ記事に漏れ出していたらしい、、というわけで過去記事を引用しながらの展開となる。

まぁ、僕は何をどう考えているのかという誰の得にもならないオレオレテーマの元、可能な限り「客観的に主観をまとめ」ようと試みた本記事は、その無意味さと戯言加減において、赤裸々な*2死骸の最期に相応しいと言えるかもしれない。


こんてんつ

  • 人間は誰であろうとも自前の意識/認識/記憶の枠から出ることは不可能
    • それが故に(1): 記憶はただの記録にすぎない
    • それが故に(2): 世界はROMでできている
  • 世の中の大抵の物事はグレーゾーンに着地する
    • それが故に(3): 自覚された目的と哲学が全てを決める

人間は誰であろうとも自前の意識/認識/記憶の枠から出ることは不可能


人間は各々独自の認識に基づいて生きており、他人の認識をトレースすることは不可能だ。赤子も大人も男も女も右も左も、比喩的な意味ではなく、見る世界そのものが違っている。
どのような道を辿って今ここに立っているのか。何に興味を持っているのか。何を重要視し、何を目的としているのか。何に怯えて何を切望し、何を糧に日々を生きているのか。

この積み重ねは年を重ねれば重ねるほど差が開いていくもので、実におもしろい。


ところでいきなり話が逸れて申し訳ないなんて思わないどころかこれがスタイルだ文句あっか的な態度で語るけど、僕は、人はその年齢、世代によって知っている/知ることのできる認識レベルというのは、ある程度決まってくると考えている*3。そういえば僕の好きなid:nakamurabashiさんのブログでわりと懐かしい話題が持ち上がっていた。元ネタは結構前の話なので何故今のタイミングで反応したのかは謎だが、22歳の自分に教えてあげる云々、というヤツだ。

はてなダイアリー

僕も2年前に(このときはリアルで22歳なわけだが)感想記事のようなものを書いている。こういった類の(他人の書いた)記事は、いつ見てもおもしろい。"年齢"という万人に共通の尺度と個人間の差異が交差するからだと思う。


閑話休題


人は人、オレはオレというある種の"悟り"があれば、誰かの「ありえない」行動や考えに目くじら立ててもどうしようもない(名も知らぬ赤の他人ならなおさらだ)と思えるし、周りがなんと言おうがまぁ自分はこう考える、というマイペースを貫く理由にもなる*4
他人と自分を異なるものとして区別し、その前提の上で必要に応じてコミュニケーションを図るもよし、無関係と受け流すもよし。防御にも攻撃にも使える万能の思考基盤であるわけだ。

もうひとつ。自分自身の認識がそれ以上広がらないと言うことは、人間一人、等身大の存在としての限界が誰にとっても存在するという事実にも繋がる。同時に複数箇所に存在することも、1日を24時間以上に引き延ばすこともできない。

可能性が無限であることと無限の物事を達成可能であることは、決して等価ではない。
何かをするということはそれ以外のすべてをしないことに同義であって、いくら可能性が無限に広がっていようが実現される現実は常に一つだ。

戦略のない人間は"失敗"の自覚がないまま幸福感に包まれて死ぬ - ミームの死骸を待ちながら

地道に地べたを這っていくしかあるまい。


「人それぞれ」...いざ文字にして書いてみると「そんなの当然じゃん」レベルの話なんだが、なかなかどうして、この大前提がよく無視される。ふと気付くと、人に理解されることが当たり前のように考えていたり、他人も自分と同じように考えているはずだという無意識の思い込みが、思考の片隅に居座っている。


そういうわけで(?)、「人間は誰であろうとも自前の意識/認識/記憶の枠から出ることは不可能」という理解は、個々人の自意識を保つための最終防衛ラインであり、当然至極の大前提として据え置くべき真実だと(少なくとも今の僕は)思っている。


記憶はただの記録にすぎない


先に、他人との間に存在する意識/認識/記憶の不一致を取り上げた。ところが、こと記憶に関して(ともすると意識や認識まで)は、同じ個人の中にも永続性があるとは限らない

というか僕は記憶を信頼していない。僕は幼少期にウイルス性の髄膜炎だとかで脳が炎症を起こし記憶喪失になった経験があったりもして、わりかしこの辺のテーマについては興味を持って調べてきた。

記憶は所詮"揮発性のメモリ"に過ぎないと思っている。

serial experiments lain 〈期間限定生産〉 [DVD]


ロシアだかどっかの話で、生まれてから見聞きしたものを寸分違わず記憶してしまい、忘れることができないという能力の持ち主がいたらしい。彼の人生の結末は忘れたが(ひょっとすると今も元気に生きてるのかも知れない)、あまりに記憶が鮮やかすぎて記憶と今経験している現実の区別が付かない、という一説が印象に残っている。完璧すぎる記憶は現在を蝕む。これはもはや能力ではなく、傷害 - disability、と表現した方が適切だ。


だから本来、記憶は揮発して然るべきものだと考える。問題は、やはり後述するように自覚しているかどうかだろう。故に僕は先月の"内定者"に向けたエントリ で、今を記録しておけと主張したわけだ*5


さらに余談。記憶と認識の"あてにならなさっぷり"を語らせたら、オリバー・サックスの右に出るものはいない。万人にお勧めできる読み物なので、機会があれば是非手にとってみてほしい


妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)
妻を帽子とまちがえた男 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)オリヴァー サックス Oliver Sacks 高見 幸郎

おすすめ平均
stars人間の心って「壊れやすい側面」と「しなやかな側面」の両方があるのかも。
stars☆手元にずっとあります☆
stars★「私は現在についての記憶がないのです」★
stars・∀・)ふんふん「妻を帽子とまちがえた男」
stars脳の複雑さを改めて思い知らされる

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また、V.S.ラマチャンドランの脳のなかの幽霊シリーズも、この系統では非常におもしろい。サックスより"今風"で、僕はどちらかというとラマチャンドランの方が好みだったりする。

まぁ、やりすぎると自我ってなんじゃろね的な話になってくるのでこれ以上突っ込まないけども、案外他人と自分の境界線なるものは、思われているよりも脆い壁なんじゃないかと考えたりもする。延長されたミームの表現型、ってな感じだ。


世界はROMでできている


根本的に他人と認識を共有できない上、多種多様な認識が入り交じった結果、僕らの身の回りで不可避的に引き起こされるのはROMの氾濫だ。いや、この世におけるスタンダードはROMである、と断言した方がいい。

世界はROMで出来ている。 - ミームの死骸を待ちながら

そして、ROMである大衆は、絶望的なほど力を持たない。というよりも、持とうとしない。


あたかも一人一人が意志を持った行使者であるという前提の元に「一般の人々にもっと意識を高めてもらうことが云々」なんて書いてる論説(社会系のテーマに関する啓蒙文章に多い)をよく見かけるけど、ぶっちゃけてしまうと阿呆のROMどもにそんなことは不可能なわけで。阿呆などと他人事のように書いているが、こうして棚上に乗っかっているかのように見える僕自身も、ROM化の魔の手からは逃れられない、つーか大半ROMとして生きてる。

不要なフィールドでまで戦わなくて良い。相手の挑発をことごとく買ってやる必要はない。全ての問題に立ち向かわなくて良い。捨てるべきものは捨ててやれ。肩の荷を下ろして、自分の持っているもの、本当に取り組むべき問題に目を向けてやれば、それでいい。当事者でないことは必ずしも罪ではない。あなたも私もROM上等、世界はROMでできている。

世界はROMで出来ている。 - ミームの死骸を待ちながら


一定のレベル、ROMであることは仕方ない。ところが「仕方ない」レベルを超えて意識的にROMであり続けることは"傍観者"を生み出す。

かつて僕は傍観者になりたかった。利害関係の絡まない安全地点で、すべてを俯瞰して生きていくことに憧れた。そんな傍観者志向は臆病さの裏返しで、何の能力も持たない自分から目をそらすための防御壁に過ぎないことに気がついたのは、そう遠い昔ではない。

戯言も理想論も通用しない、結果と行動だけが意味を持つリアルな世界で覚悟を決めるためには、それ以前にまず、自分自身の無力や無知と向き合わないといけないのだ。(略)
現状肯定の自己正当化と、綺麗事だらけの理想論。戯言からは何も得られない。ただ行動と、目に見えるその「結果」だけが意味を持つ。行動して、他人の目に見える成果を残すしかない。手間のかかることだ。

"中二病"の通用しない、行動と結果だけが意味を持つ世界 - ミームの死骸を待ちながら


とりあえず僕のやりたいことの大半は傍観者じゃとても実現できないことがわかったので、無能を認めて行使者として足掻いている。熱い精神論は嫌いだが、まぁ仕方ない。傍観者の悪い癖が何度頭を擡げてきても、とにかくやるしかないわけだ。やれやれ。


世の中の大抵の物事はグレーゾーンに着地する


さて、僕は、「世の中の大半の物事にはグレーゾーンがあるだけで、完全な○×は存在しない」という立場に立つ人間でもある。

世のほとんどの問題と同じくこの主張は白から黒へのグラデーションになっていて、ここまではOKだけどここからはNG、といった明確で一般的な線引きなど不可能であることを追記しておきたい(どうせタイトルしか読まない人もいるけど)。

精神の救済を宗教に求めるのは勝手だが、それを他人に押し付ける奴は滅びろ - ミームの死骸を待ちながら


「世の中に完全に正しいことなどない」なんて書き方すりゃどっかのラノベだが、僕が強調したいのは「完全性の不在」ではなく、むしろ完全性の代わりにあらゆる事象に付随してくる"グレーゾーン"の存在の方だ。こちらを意識する方がずっと重要であり、非現実的な"完全性"と比べて、身近であるが故によりいっそうデリケートな扱いを要求する。


グレーゾーンをどう扱うか?まずその悪い扱い方、"中途半端を結論とする"ケースを見てみよう。"局所最適解"の記事でも書いたように「中途半端」は害悪となる場合が多く、とりわけ無自覚のうちに中途半端に留まっている議論は非常にタチが悪い。たとえば以下のような内容だ。

「問題XにはAという側面もあるし、Bという側面もある。多面的に/よく考えて結論を下さなければならない」


この種の禅問答を「結論」だと思ってる人のいかに多いことか! バーローオメーそりゃスタート地点だ!

ひとつ確認しておきたいのは、そもそも世の中にバランスが大事ではないものごとなど存在しない、という点。なんであれ極端が解となることはあり得ない。必ず、0か1ではなく微妙な最適バランスがあって、そこを探す過程こそがいわば本命、一番難しい作業である。

「バランスが大事」というスタンスは(少なくとも僕の考えでは)明らかな事実を言っているだけで、新しい情報量はゼロだ。その上にどのような過程でバランスを模索して、何をゴールとして、いかにしてあるべきバランスに到達するか、すなわち、過程部分に議論と思考と行動を集中すべきなのだ。

思考を二級品に貶める局所最適解の害悪 - ミームの死骸を待ちながら


具体的に、グレーゾーンの「どのポイント」に腰を落ち着けるのか、立場を明確にしないといけない。さもなくばただの「考えてない人間」か、よくて「理想主義者」になってしまう。


自覚された目的と哲学が全てを決める


では着地点を明確にするためにはどうすればよいかと言うと、僕の観点では、自分自身の「目的」と、個々の事象を捌いていく際に基準となる独自の「哲学」を自覚しているかどうかが分かれ目となる。

「言ってみたまえ。生産的であるとはいったいどういう意味なんだね」ジョナはゲートをくぐりながら再び質問してきた。
「何かを成し遂げることでも意味しているんでしょうか」
「そのとおり。でも、どういう観点で成し遂げたかどうかを測ったらいいと思うかね」
「目標(Goal)...でしょうか」私は答えた。
「そのとおり」ジョナが言った。彼はセーターの下に着ているシャツのポケットに手を入れ、葉巻を取り出して私に手渡した。
「私からのご褒美だ。生産的であるということは、自己の目標と照らし合わせて何かを達成したということなんだよ。違うかい」

from: ザ・ゴール ― 企業の究極の目的とは何か


状況にただ流されているだけなら問題だが、目的さえ明確であれば、妥協点を探ることもできるし、不合理にも耐えられる。周囲にあふれる事象から関連する事項をある程度定量的に考慮できるようになる。


グレーゾーンのどこを着地点とするかは、目的によって異なる。その目的は余所から与えられたぼんやりしたものではなく、自覚された目的でなければならない。

目的と哲学、この二つは見失わないように、たとえ変化したとしても必ず手元に置いておくようにしたい。


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いじょ。


ざっくりわけると二個に絞られる僕の現時点での認識は、ある種の一続きの価値観に基づいており、そう簡単に揺らぐことはない思考のベースになっている。

ところが僕の"信念"はトートロジー的な蟻地獄にはまっていたり、物事を広く捕らえすぎたが故の悲観論(ニヒリストというわけでもないが)に帰着していることも事実だ。
たとえばもっと瞬間的な快楽を追い求めるとか目の前にある価値観に没頭するなどしてシンプルに生きればラクなのかも知れないが、僕にとっては土台無理な話である。

人間はものごとの正しさを追い求めている風を装って、その実、自己の正当化、優越感、存在証明、他者からの受容や評価を切実に探し求めているケースがかなりの割合で存在する。この事実を他人から隠し、自分でも気付いてないふりをすると、悲劇が起こる。

思考を二級品に貶める局所最適解の害悪 - ミームの死骸を待ちながら


「人は...」とか「世の中は...」とか、物事をメタに捕らえる視点に確かに一片の正しさはあるのだろうが、それがすべてではないし、メタでは何も実現されない。多様性の先に救いはなく、曖昧さの中に解答は存在しない。


抜け出せるのかそれとも死ぬまで憑いて回るのか、よくわからんね。


戯れ言の続きは


ミームの死骸を越えてゆけ


ライブドアブログ*6にて。開設したものの、まだ過去記事を完全にインポートしてなかったり、デザイン調整中だったりするけど。

では、また。


relics

What you don't remember was never actually exist.
Memory is merely a record. You just need to rewrite that record.

*1:※これだけで生活できるというわけじゃないが、社会人一年生が生活していく分にはひじょーに助かる額

*2:先日ある人に「よくあそこまで自分の考えていることを赤裸々に書けますね」と言われたばかりだ

*3:だから若さがあれば何でもできる的な安易な可能性論者は嫌いだったりする

*4:もちろんこれは程度問題

*5:何度も書いてる話だけど、もし物語を読むのが好きなら、定期的に自分の生活と感情を書き起こして、数年後に読み直すことをオススメする(僕はブログとは別に日記帳に書いている)。少し昔の自分の文字は、まるで初めて読むストーリーのような新鮮さを持っていて、それでいて登場人物は他ならぬあなた自身なのだから、これ以上おもしろい読み物はない。

*6:独自ドメイン"hash.bz"で運用、サブドメインはt。携帯版はm.hash.bzとなる。

語り得る時に語るのではなく、語られるべき時に語るべきだ。


語るべきではないときに語ってしまうことは大いなる機会の損失であり、致命的な失敗でもある。

既に語られたストーリーは改修することはできない。どんな手を尽くそうと、いかに知恵を絞ろうと、いかなる幸運に恵まれようとも、投げ出したストーリーは決して己の内に戻り来ることはない。あなたのストーリーは、もはやあらゆる意味で失われてしまったのだ。


ストーリーを語る能力は人間固有のものであり、かつすべての人間に備わっているとは限らない貴重な才能でもある。それが故に才能はそれ自身を拒絶し、ストーリーを語ることのできる人間は、僕の知る限り100%近い確率で潰し合う。
同じ時間同じ場所、二つ以上のストーリーが存在する場合、当然の帰結としてストーリーはぶつかり合う。ストーリーは傷つき、失われる。
この悲劇が起こるのは、人間の作り出すストーリーというものは本質的に断片として存在することができないからであって、いかに断片的に語られたかのように見えるストーリーであっても必ずそれ自身完結した世界を有している。世界が二つあればそこに矛盾が生じるのは自明の理だ。

才能は世界を生み、故に才能は拒絶する。

この事実は人間が偏在する現代に至るまで、揺るぎなくそこに有る。


したがって、ストーリーは語り得る時に語るのではなく、語られるべき時に語るべきだ。


基本的に人間の想像能力は無限であり、いかなるストーリーを想像することもできる。ただし創造能力を遺憾なく発揮するはずの自意識には二重三重の悪意を持った鍵がかけられ、錠前は錆び付いている。
無限の進化は死それ自体と何も変わるところがない。死を先のないことと見るならば、あることが定められた"先"は"死"と何も違わない。


本当に正しいと信じてなどいないもののために何かを生み出さなければならない屈辱。先に何かあると心から思ってなどいないくせに、自分を欺かなければ倒れてしまうが故に防衛本能として入念に隠し通された憤り。
抑圧された自己はいつか必ず不整合を起こし、そして欠けた自己自身を取り戻そうとする。ひとの心はバランスを取るようにできている。



誰か人様のフィルターにひっかかって、カスれて薄くなったやつを拾うことしかできなくて、それでも拾えるだけマシだなんて思って拾って食らっていたりすると、そのうち「まぁ悪くないんじゃね」ということになって、イングソックの省庁食堂よろしくホンモノの味を忘れ去ってしまう。


ホンモノの味を忘れたフィルターは認識にへばりつき、時には誰か他人のフィルターをも汚染する。媒体の影響力が強ければ強いほどタチが悪い。
フィルターを通されたファクトは、純粋なファクトとしての扱いを受けることができない。ところで純粋なファクトなるものは本当に存在するのだろうか?人間の認識を経由することなく存在が保証されるイデア的存在を、この21世紀に心の底から信じられるとでも?

ちなみに人間は基本的にその生物的存在として何も変化していないし、だからこそ哲学者という存在はアリストテレスから2千3百年経過した今も無くなりはしない。なお一般に「哲学者」と呼ばれる者は「1. 哲学を研究する学者」と「2. 哲学する者」の二種類に分けられるが、ここで言う哲学者とは後者の意味に限られる。


フィルターに嫌気が差したら、ただ何が出てくるのかを楽しみにして、すべて投げ出してみるのも良い。投げ出すことは放棄することに同義であるとは言えない。正当に投げ出したものもあれば、投げ出すことによって前に進むものもある。正しさを規定するのは愚者の所行である。


ものの見方の方向性が固まってしまうととてもつまらないことになる。


つまらないという感情は心の生み出した警報装置だ。そういった場合には、おまえらつまんねぇよ、とただ一言投げてやりさえすればいいわけで。実は他に何も必要ない、何も欲していないことがほとんどだ。戯言は防御壁で、暴言はオブラートで、諦念はすり替えで、美辞麗句は偽物だ。

つまんないという保証・同意、何よりつまらないという感情は本当に「存在する」という確信を持てないがために、悲劇へと埋もれ失われゆく才能があまりにも在りすぎている。


橘玲氏はかれの著作の中で、人と人ならざる者を隔てる境界は「ゴミを喰らうか否か」であると語った。文化的存在としての最後の自尊心。社会的生物としての最終防衛ライン。僕らは、正確に言うと僕らの大多数は、ひょっとするとすでに山盛りのゴミの中に手を突っ込んで、少し蕩けた肉の切れ端を口に運んでいる。


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